物語中最大の悪女登場
こうして新しい生活が始まったけれど、三月後の婚儀に備えて、準備を進めるのに一生懸命だ。
なにせ、長い儀式の手順を全て頭にたたき込まなければならない。
――こんなの、受験勉強の百倍大変じゃないの!
と内心で嘆いたけれど、さすがに鈴麗にもそれを零すことはできなかった。それから婚儀の時に身に着ける花嫁衣装の準備。
赤と金で仕立てられたそれに、集まってくれた侍女達と一緒に刺繍を施していく。大部分は既に職人の手によって繊細な模様が刺されているけれど、仕上げに花嫁自身の手で刺繍を施すのがこの国の決まりなのだそうだ。
侍女達にとっても、腕の見せ所であって皆、張り切っていた。
午前中のうちにやらねばならないことは片付けてしまって、午後になってからは鈴麗を相手に剣を打ち合わせたり、後宮内を探索してみたり。
この国に来て一週間のうちにそんな習慣ができあがっていた。
「鈴麗、後宮内の侍女達の顔は覚えた?」
「ええ、だいたい覚えました。名前も覚えましたよ」
後宮内に誰がいるのか、ある程度は押さえておきたい。互いの宮の人間関係を知るのにも、各宮の人間を把握しておくことは必要だ。
「私は、まだだわ。あなた達はどう?」
蘭珠達が問いかけると、全員の名前を覚えているだの、新参者はなかなか覚えられない、だのと話が始まる。皆で和やかに話していたら、誰かが訪れる気配がした。
「蘭珠様、春華公主の使者がお見えでございます……よろしいでしょうか」
「あら、まあ……ええと、この場合どうしたらいいのかしら? 教えてくれる?」
大慶帝国の侍女達を見やれば、一斉に弾かれたように立ち上がる。
一人が長衣をとりに走り、別の者が髪を整えてくれる。今まで羽織っていた長衣が引き剥がされて、豪奢な刺繍を施した長衣が肩にかけられる。
あっという間に支度を調えた蘭珠は、春華の住まいへ向かうように指示された。
鈴麗もすかさず蘭珠の側についている。鈴麗が側にいてくれるのならば安心だ。
春華の宮は、少し歩いた場所にあった。
「――蘭珠でございます」
「お待ちしていたわ。お疲れのところ、呼び立ててしまって悪かったわね」
出迎えた春華は、蘭珠を機嫌良く招き入れた。蘭珠は室内に目をやる。春華の部屋は、薄桃色を基調に整えられていた。
白い壁の上から、薄桃色の紗がかけられている。敷物も薄腿色の絹で作られたものだった。螺鈿細工の施された紫檀の家具。隅に置かれた翡翠の香炉から、よい香りが漂っている。
「……素敵なお部屋ですね」
「いいでしょう、自分で何年もかけて作ったのよ」
鷹揚な笑みを浮かべながら、春華はお茶を勧めてくれる。
「景炎とはどう? 仲良くやっていけそう?」
「……ええ、とても優しくしてくださると思います」
その発言に嘘はなかった。
――でも、この人を完全に信じるのは危険……よね。
劉春華。景炎の異母姉であり、皇太子龍炎の同母妹。後宮内で現在皇后に次ぐくらいの権力を持つ彼女は、いずれ悪女化するはずだ。
だから油断してはいけないと春華の前に出た蘭珠は緊張を隠せずにいた。そんな蘭珠に向かい、春華は艶然と微笑んだ。
「あなたは、この後宮の事情がよくわかっていないと思うから、話はしておこうと思って。姉のように思ってくれてもいいのよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
蘭珠に微笑みかける春華の表情は優しい。蘭珠は、国内に嫁いだ姉のことを思い出した。
「景炎の立場は……さほど強くないもの。正妃にあなたを迎えたのもその証し。あなたを、兄――ああ、皇太子の龍炎のことよ――の妃の一人にと言う話もあったのだけれど。玲綾国は小国だから、大臣達が皇太子の妃にはふさわしくないと反対したのよね」
蘭珠の前にくつろいだ様子で座っている春華は、鷹揚な仕草で扇子を開く。緩やかに風を自分に送りながら、扇子越しに蘭珠を流し見た。
彼女が扇子で仰ぐたびに、ふわりとよい香りが漂う。
「……皇太子には気をつけなさい。私の兄ではあるけれど……景炎を追いやろうと必死だわ」
「……なぜですか? 皇太子殿下がもう国を継ぐと決まっているでしょうに」
「……景炎に人望があるからよ。家臣達は彼を慕っている。次の皇帝である皇太子をないがしろにしたりはしないけれど――景炎に心を寄せる者も多いでしょうね」
「そうなのですか……それは、知りませんでした」
知らないふりをしたけれど、本当は間諜達からの報告で知っていた。
皇帝は、皇太子を定めたが、家臣達の人望は景炎にも集まっている。景炎も優秀な人間ではあるのだが、景炎と比較するといささか凡庸だというのが周囲の一致した見解らしい。
だからと言って、皇帝がすぐに皇太子を廃嫡するはずもないし、家臣達が景炎を祭り上げようという動きも今のところない。
けれど、それと皇太子が不安を抱かないかどうかというのは別問題だ。
いつ、自分がその地位から追いやられるのではないかと不安を抱いた皇太子は、景炎を排除する機会をうかがっているのだという。
「……そう、でしたか」
薄々と知ってはいても、この国で生きてきた人の口から聞かされれば重みが違う。
「いえ、あなたがものの道理をわかっているのなら、それでいいの。景炎の身の回りに気をつけてあげて」
「私で、務まりますかどうか――でも、精一杯、お勤めさせていただきます」
手をついて、蘭珠は頭を下げる。今度どうなるかはわからないけれど、ひとまず、春華とはいい関係を構築しようと心の中で決めた。