スパイ活動スタート!
蘭珠には鈴麗の他、大慶帝国出身の侍女が何人かつくことになった。
こちらのしきたりについてさほど詳しいというわけでもないから、そうやって面倒を見てくれる相手がいるのは正直なところありがたい。
翌日、侍女のうち一人を景炎のところにやったけれど、朝儀に行ってしまっていて、戻りは昼過ぎになるという。
――荷物も全部片付けてもらったし。
父は蘭珠のために様々な嫁入り道具を用意してくれた。それは、昨日のうちに鈴麗の指示によってきちんと片付けられ、蘭珠としては他に何も言うべきことはない。
鈴麗含め、全ての侍女を追いやって蘭珠は考え込んでいた。
――皇太子、か……嫌な感じだったけど。
作中では皇帝として登場した龍炎は、景炎の人望に嫉妬する凡庸な男として書かれていた。
蘭珠として今生で集めた情報にしても、女好きという以外にはあまり情報がない。
女好きといっても、皇太子という立場からすれば許容範囲なんだろう。度が過ぎていれば、皇帝が止めているだろうから。
彼に、どうやって対抗していったらいいのだろう。
――あとは、春華公主よねえ……。
春華公主については、皇后の産んだ娘ということもあって後宮内での地位は比較的高い。現時点では、皇太子妃より彼女の勢力の方が強いそうだ。
彼女についても注意が必要だ。なにしろ、『戦史』本編では、春華公主は蔡国王妃、そして物語中最大の悪女として登場する。
景炎の死に直接関わっているわけではないが、彼女の権力志向は恐るべきもので、完全に蔡国を掌握し、事実上の支配者となっていた。
これから先、彼女が悪の道に走るような大事件が起こるのかもしれないけれど、戦史本編には何も書かれていなかったような気がする。
考えなければいけないことは山のようにあるのに、判断する材料が全然足りていない。
――鈴麗を連れてくることができたから、後宮内の噂話はこれから集めてくれるだろうけれど。
侍女の鈴麗には、後宮内の噂話を集めてくる役も頼むことになっていた。気前よく甘いものや比較的安価な装身具など、女性の喜びそうなものをばらまく必要があるけれど、そこには費用を惜しむなと言ってある。
――あとは、脱出経路よね。何かあった時、すぐに逃げ出せないと困る。
少し、庭を歩いてこようか。
後宮の広大な庭園は、迷路のような作りになっていて、最短距離を行くことができないのは昨日見せてもらった範囲でも理解できた。
――庭園全体の見取り図が欲しいな。
後宮の地図というものは公には存在しない。何かあった時に、敵の手に渡ったら困るからとされている。それだけではなく、広い後宮内には秘密の場所もたくさんあるはずだ。
気に入らない者を拷問するだけではなく、拷問の結果死んでしまったり、さらに意図的に殺してしまった死体を密かに埋めたりしているなんて話も聞いたことがあった。
玲綾国は平和だったから、蘭珠の目の届く範囲では、そんなことはなかったと思う。
とにかく、いざという時のために、後宮内を知っておくことは必須だ。
夜こっそり忍び歩くより、退屈紛れに歩き回っていると言った方が何かと言い訳もしやすいかもしれない。
――この先忙しくなるんだろうし、早めに片付けておいた方がいいし。
婚儀の準備でこれから忙しくなると聞いているから、できることは先にやっておいた方がいい。
「鈴麗! 鈴麗はいる?」
「はいはいここにおりますよ!」
部屋の入り口のところで呼ぶと、待ちかねていた様子で鈴麗が出てくる。
「散歩に行くから一緒に来てちょうだい。あとは……あなたと、あなたも一緒に来てくれる? 案内してもらえると助かるわ」
本当なら鈴麗一人を連れて行きたいけれど、国許から連れてきた侍女ばかり贔屓していると噂になっては困るから、ぞろぞろと三人の侍女を連れて出ることにした。
「ねえ、あの紺色の衣を着た人達は?」
「宮によって、衣の色が決められていますので。私達は明るい黄色で統一しております」
鈴麗にも与えられた揃いの衣は、各宮で統一されているそうだ。となると、見慣れない衣を着ているのは、客人ということになりそうだ。
ぐるぐると歩き回っている間に、どこで何度曲がったのかわからなくなってしまった。ちらりと鈴麗の方に目をやれば、彼女も眉間にものすごい皺を刻み込んでいる。
「……ここはどなたの宮かしら」
「ここは、皇太子殿下のお住まいです」
侍女の一人がそう言った。そう、と返したきり、蘭珠はそこで立ち尽くす。
――ここが、皇太子の宮。
ということは、皇太子妃の住まいもこの近くにあるのだろう。同じ建物を使っているのか、それとも蘭珠のように廊下で繋がれた建物を与えられているか。
この宮の周囲を歩き回っている侍女達が身に着けているのは、水色の襦裙だ。肘からひらひらと垂れている被帛も美しい。
「……ここから、私の房まではけっこうあるのかしら? どこがどうなっているのかさっぱりわからないわ」
「直線距離でしたら近いと思いますが、道は入り組んでますし……」
「そうよね。あなた達がいなかったら、戻るのに苦労しそう」
先ほどとは違う侍女が返すのに、うなずいておいて、蘭珠は周囲を見回した。
この後宮は、樹木や花壇に塀といったもので道が狭くなるように作られている。その細い道はうねうねと左右に曲がり、時には行き止まりもあって本当に迷路みたいなつくりだ。
ところどころ開けた空間があって、そこは花や木々を鑑賞するための宴を開いたり、後宮内の女性達が馬に乗ったりするのに使うらしい
――ここから、急いで外に出るとしたら。
直線距離で移動するならば、と蘭珠は周囲に目をやる。
おそらく、敵に攻め込まれた時に、大軍が一気に押し寄せられないようにあえて狭く作っているのだろう。開かれた場所は、宴のためだけではなく、いざという時に敵を迎え撃つための場所でもありそうだ。
戦国時代に立てられた日本の城でも、同じように城内の通路を狭くしていた城もあったように記憶している。
――でも、暗殺者となれば話は別かも。
蘭珠はその域までは到達しなかったけれど、体術の達人ともなれば木の間をひょいひょい飛び回る者もいたはず。
「何を考えてらっしゃるんですか」
侍女達から離れてぼうっと皇太子の住まいを眺めていたら、鈴麗が蘭珠に近寄ってくる。
「この庭園から逃げるなら……どの道を通るのがいいのかしらって。景炎様の宮は比較的に楽に逃げられそうだけど、皇太子の宮はだいぶ奥の方でしょ?」
「そうですねぇ……屋根の上とか走ってみます? あと、花壇は無理ですが、塀の上は走れそうでしたよ」
たしかに屋根や塀の上を走るというのは、一つの手ではあるけれど、例えば火災が発生した時のことを想定するとちょっと怖いし、そういうところを走るような訓練は受けていない。