序章
それは、あまりにも突然だった。
「え……えええええっつ!?」
驚愕のあまり、蘭珠の口からはこの場にはふさわしくない悲鳴じみた声が上がった。
――ちょ……ちょっと、待って!
今、蘭珠がいるのは、自分の部屋ではなく、庭に面した客をもてなすための部屋の外に設けられた縁側だ。
縁側に置かれた盆には、菓子と茶がのせられている。目の前にいるのは、将来結婚するかもしれない相手のはずだ。
それはきちんと理解できている。
目を閉じて、数度深呼吸を繰り返す。
――いや待て落ち着け、落ちつけったら……これは、夢……目を開けば、ほら、現実が。
言い聞かせて目を開いたけれど、夢じゃない、これは現実。右手を頬に伸ばして捻ってみれば、鈍い痛みに襲われる。
「ゆ……夢じゃないぃぃぃ……!」
床の上に座り込んだまま、器用に手と足を使ってずだだだだっと後ずさるが、先はなかった。
「姫様! 危ないっ!」
少し離れた場所に控えていた侍女達が悲鳴じみた声を上げる。慌てて蘭珠を抱き留めようと立ち上がりかける。
目の前にいた少年が手を伸ばしてくれるのも間に合わず、そのまま縁からころんと庭に転がり落ちる。
「い……いたあぁぁい!」
地面に転がり落ちた拍子に、したたかに肘を打ち付けた。
じわり、と涙が滲んで、これが夢ではないのだとまた認識させられる。
「だ、大丈夫か……?」
縁側の上から手を差し伸べてくれた少年は、蘭珠の方に心配そうな目を向けている。差し出された手を取ることもできず、蘭珠は地面に座り込んだままだった。
――なんで、なんで、なんで。
同じ言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
いや、わからないわけではないのだ。
今、目の前にいるのは劉景炎。将来、蘭珠が嫁ぐことになっている相手。
将来、というのは、蘭珠はまだ八歳だからだ。いくらなんでも八歳の花嫁はありえない。
――だけど、これは現実じゃない。だって、私の名前は陽蘭珠じゃなくて畑本愛梨。
往生際悪く、蘭珠はそう考える。昨日、『六英雄戦史』を読みながら寝てしまったのがいけないのだ。
実家の二階、自室のベッドでごろごろしていたのが最後の記憶。
「お前、妙なやつだな。ほら、立てるだろ」
「ふえ……」
いつまでも地面に座り込んでいる蘭珠に業を煮やしたらしい景炎が庭まで下りてくる。ひょいと両脇の下に手を差し入れられて、そのまま立ち上がらされた。
「腕、見せてみろ」
衣の袖を捲られると、打ち付けた肘はひどい痣になっていた。
二人の間に割って入るのをためらっていたらしい侍女が、ようやくここで声をかけてくる。
「姫様、お怪我はございませんか」
「ああ、長裙の裾が汚れてしまって」
「景炎殿下、姫様を助けてくださってありがとうございます」
口々に侍女達が言うのも耳に入ってこない。
今、自分が直面している現実から逃れようとしていても、ムダだと言うことをようやく悟る。
「う……うわあああああんっ!」
現実を理解しても、心の方がついてこない。盛大な蘭珠の泣き声が部屋中に響き渡った。