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第7部:責任負わずの無い物ねだり

  ● ●


 変わらないと、思っていた。

 変わらないと思っていたことが、あった。

 かつて思っていたそれは過去に一度覆され、それから短くない時が経った後でさえ、僕に現実を突きつけてきた。


『アインは、そこまで生きていたいの?』


 そう問いかけてきた彼女は空っぽな目をしていた。

 口元は笑っていたけれど、目はどこか別の方を無感情に見ているようで、無力な僕にはそれをどうすることもできなかった。

 彼女は、ブリスは変わってしまっていたのだ。

 声も、顔も、考え方も、喋り方も、何もかもが。

 それは、僕にしたって同じだったかもしれない。

 変わらない、変わらないと言っていても、気づかないうちに変わってしまっていたのだろう、そうでなければ、ただ流されるままに働き続けていた僕はあの場に訪れることすらなかったのだろうから。

 今の僕は、彼女がかつての僕と重ねて見る部分があるというだけで、一緒に酷使され、鞭で打たれ、残飯を分け合った頃とは何もかもが変わってしまったのだ。


 結局のところ。

 そこから、僕は目を逸らしていただけで。

 彼女は見据えた現実を受け入れたというだけの、話だった。


「――やっほー、アイン」

「あ……ああ、来たのか、ブリス」


 紫煙と酒の匂いが絶えないパブに、彼女は時折訪れる。

 グラスを磨き、料理の仕込みをし、昼間から酔っ払うロクデナシの連中を適当にあしらいながら、僕は彼女と話をする。

 暇だから遊びに来たと、彼女はいつも言う。

 娼館が営業を始めるのは夜になってからで、睡眠をとるべき昼間に寝付けないから来るのらしいのだけれど、そんな生活をしていて体がもつわけがない。


「ちゃんと寝ないと、体に毒だぞ」

「大丈夫だよぅ。こう見えても私、バカなのと体が丈夫なのだけが自慢だからぁ」


 僕が咎めると、彼女は優しげな目と曖昧な笑みでそう返す。


「だいたい、こんな汚い店――うるさいなオヤジ、事実だろうが――よりマシな店なんて、表にはゴロゴロ転がってるだろう」

「いやだなぁ、私はアインに会うために、ここに来るんだよぉ」

「おだてても、つまみくらいしかサービスしないぞ?」

「出るモノは出るんだねぇ……いやぁさ、ほら、アインって作る料理はすごくおいしいし、ウチのお店に遊びに来れる程、お給料貰ってないでしょ?」

「……返す言葉もない」

「だから私が、こうして暇な時に来るの。分かった?」

「分かった」

「なら、よろしい」


 毎回のように、そんな会話が交わされる。

 それから、彼女は適当に頼んだ酒を呷り、料理をつまみながら、僕と簡単な世間話をする。と言っても、それが延々と続くわけじゃなくて、次第に彼女の目にトロンと瞼が下がり、カウンターテーブルに突っ伏し、すーすーと静かな寝息をたて始めるのだ。

そして僕は、そんな彼女の背中に毛布をかけ、窓から僅かながら紅い夕陽が差し込み、店の各所に置かれたランプの灯りがどす黒い影を投げかけるまで、他の無粋な酔っ払い連中が彼女に手を出さないように見守る。

 それが、週に2,3回くらいの割合で繰り返される。

 彼女は、指折りの娼婦というだけあって、外見はそれなり、言葉も独特の癖があるけど、優しさを滲ませている。

 優しい笑顔も、無邪気な寝顔も、吸い込まれるような魅力があった。


「本当に、アインのごはんはおいしいねぇ。表通りで食堂を構えてもいいんじゃないのぉ?」

「ありがとう。言葉だけ、ありがたく受け取っておくよ」

「むぅ、こう言うとほとんどの男はデレデレと鼻の下伸ばすのに、アインは面白くないなぁ」

「……世辞の理由としては酷すぎるな」


 5年ぶりに彼女と再会したあの日以来、僕が彼女と言い争うことは無い。

 適当に話して、笑って、それなりの距離を保った付き合いをしている。

 ここに来る理由云々のやり取りだってどちらかが折れて終わってしまうから、争いと言うよりはじゃれ合いに等しい。

 そもそも、あの日の会話が異常だったと今では思っている。

彼女の家族でも雇い主でもない僕がいちいちその身の上に口を挟む権利はないし、彼女自身にも従う義務も義理もない。

 だから、互いに深入りしない。

 在り方に文句を言わず、ただ、ありのままを受け入れている。

 それは、必然的に存在した。

 何もかもを言葉という媒体に置きかえることは可能で、それらは時に有用な伝達手段として機能し、時に愚痴として負の感情のはけ口に成り下がり、また時として、酔っ払いの遊び道具と化すこともあった。

 全ての幸いも、あらゆる不幸も、言葉にできた。

 できてしまっていた。

 奴隷として生まれ、娼婦として身を委ね、麻薬に溺れて死んだ。

 結果的に彼女は――後に至福の意を持たされた彼女は、こうして説明できてしまう。

 言葉は何もかもを形にできて、だけど何もできはしなかった。

 絵本に出てくる、お姫様を悪い龍から救う勇者のようにはなれない。

 力もない。金もない。

 彼女を救い出すには、僕は弱すぎる。


「アイン、お酒ちょうだいぃ。種類は任せるから~」

「はいはい」

「アイン、オレにもウイスキーを一杯。あと、適当につまみくれ」

「わかったわかった」


 ブリスほどの頻度ではないけれど、ライアもちょくちょく店に顔を出していた。

 ライアは僕よりも先に彼女を知っていたし、僕の知らない付き合いがあるのか、ブリスにも僕に対するのと変わらず気さくに接し、僕を含めた3人で世間話に興じることもあって、組織の親玉に指折りの人気を誇る娼婦、小さなパブの小間使いという奇妙な取り合わせのせいか、それを面白がる客も多かった。

 それにつれて僕は、かつてのライアの目を疑問に思う。

 ブリスとの再会の日、あいつの浮かべた表情。目。不機嫌さ。

 あれは、何だったんだろう。

 彼女が麻薬を使っていたせいか?

 僕が彼女と親しげに話していたせいか?

 だけどそれ以降、パブでブリスに会う時はそんな雰囲気は微塵も見せない。

 その理由を訊いたことは、まだ、ない。

 無粋だ、不要だという理由ではなく、もっと――そう、もし訊いてしまったら、その時にはもう、今のような関係が跡形もなく、呆気なく、一瞬で崩れ去ってしまうような、そんな気がしたからだ。

 僕は、今の関係を気に入っていた。

 ちょっとしたバランスの加減で消えてしまう関係だったとしても、気に入っていた。


 いつまでも続けばいいと。

 変わらずにいてほしいと。

 性懲りもなく、願っていたのだ。




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