第6部:夜の残り滓、届かなかった言葉と心
● ●
ライアと鳥を買いに行って、鳥を詰めた袋を2人で一つずつ持って帰った。
僕とライアがやったことは、これで説明できる。
その過程に何かがあったとしても、それら全てを省略することは可能だ。
人の人生だってそうだ。
たとえその人がどんな生き方をしたとしても、「生まれて、死んだ」と、ともすれば「生きた」というだけで省略できてしまう。
できてしまうのだ。
大義を掲げて死力を尽くし志半ばで死んだとしても、自堕落に生きて一人寂しく息絶えたとしても、言葉というモノは、それを無機質に省略し、説明できてしまうのだ。
だけど。
それはなんとも味気なく、退屈で、不作法な所業だ。
だから、僕は考え、行動に移す。
言葉以外――そう、別の形、記憶として、省略されないようにするために、
「やあ、ブリス」
「あはは……やっぱり、来ちゃったかぁ」
時はクリスマスの翌日、朝。
客と一緒に酔いつぶれたオヤジに毛布をかけてからやってきたのは、彼女の働く娼館の前だった。
日没に始まり日の出と共に終わる娼婦街の通り。石畳の街路の端々にはよく分からないゴミや吐瀉物が撒き散らされ、それに野良犬や鼠、カラスが群がっていたりするが、時間帯のせいか、辺りの人気は乏しく、よろよろと家路につく女や客と思しき男くらい。
情事の残滓と思しき臭いやそれを紛らわすかのように焚かれる香木の匂いも含め、遊び事とは縁のない僕でさえも、この区画の在り方をなんとなくだけれど感じることができた。
「手持ちの金がないからこんな形になったが、俺はもう一度、君に会いたかった」
パブで働いている僕は、住まわせてもらえることや、かつての僕の経歴も含めて身の回りの事を色々と融通を利かせてもらえることと引き換えに、食費やその他諸々を差し引くと給料はほとんど無いに等しい。
だから、ライアから聞き出した彼女の働く店の前で、僕は待った。
彼女が帰るために店を出るまで待っていた。
パブを閉めた後に来たから、既に帰っている可能性もあったのだけれど、その点は運、という他ないのだろう。
「どうしたの? 遊びに来た……ってわけでもなさそうだね」
彼女は笑っていた。
かつてと同じ曖昧な笑み、微笑みかける、という表現が似合いそうな笑みだ。
「話を、しに来た」
僕が言うと、うんうん、と彼女は頷く。
「そうだよね。アインの性格を考えれば、やっぱりこうなるよね」
「分かっていたのか?」
「分かるよ、そのくらいは。何年、貴方と一緒にいたと思ってるの?」
それに、と彼女は付け足す。
「貴方が言いたいことも、大体予想がつくよ。――私の仕事の、ことだよね?」
「……」
対して僕は、頷くことしかできなかった。
「知ってるよ、こんなことを続けてたら、体が持たなくなることくらい。今だって、さっきまで10人くらい相手してたから、流石に疲れたし」
「なら、なんでっ」
なんで、続けていられるんだ。
尋ねると、彼女は僕の目をじっと見つめた。
僕はずっと彼女を見ていたから、必然的に視線がぶつかる。
彼女の目は、深い蒼の小さな宝石のような目は、見ていると吸い込まれそうになって、いつまでも見ていたくなる。
「――私はね、売られたんだ」
「え……?」
「5年前のあの日、君とはぐれた私は捕まって、この街の、このお店に売られたの……最初は怖かったけど、もう慣れたよ。今は、ほら、この辺じゃ知らない人はいないってくらい、人気者になれたし」
嬉しそうな表情を浮かべていながら、だけど彼女のそれは虚構だと、演技でしかないのだと僕には分かったけれど、敢えてそれを口にはしなかった。
「今の生活も悪くないって、私は思ってるんだよ? 昔の私は何も知らない子供だったし、ここに来てから、たくさんのことを学べたんだ。……アインには、ちょっと早いコトかもしれないけどね?」
蠱惑的な色を帯びた表情は、たしかに5年前の彼女には無いモノだ。
「っ……でも、それじゃ君は、長くは生きられない」
今の彼女は、大輪の花のように妖艶で、綺麗に輝いている。
だけどやがて、性病をわずらうかもしれないし、麻薬も命を縮めるだろう。
娼館としても医療を施そうとするだろうが、売られてきた女なんて所詮は消耗品だ、人気が落ちてしまえばその限りではなくなる。
病の末に体液のこびりついたベッドの上で蛆虫の餌になるか、麻薬で狂い、のたうち回って朽ち果てるかの差でしかない。
それを彼女は自ら求め、破滅しか無い道へと進もうとしている。
それが、僕にはどうしても、理解できなかった。
「アインは、そこまで生きていたいの?」
彼女は言った。
「意地汚くて、平気で周りを傷つけるような人たちを私たちは散々見てきたはずなのに、それでも……それでも、君は、まだ、この世界を望むの?」
なぜ、そうまでして生きていたいのか。
理由を見つけられなかった彼女は、だからこそ、自らを破滅させようとするのだろう。
逃げることができた上に、荒っぽいけれど僕を受け入れてくれるマスターに出会えた僕には、理解できると応えるにはどうにも実感が足りず、おこがましい。
だから、
「…………」
答えられなかった。
応えられなかった。
彼女の気持ちを、これまで受けてきた痛みを知らないから。
他人に抱かれる嫌悪感も、金持ちの変態に蹂躙される屈辱も、避妊薬がもたらす不快感も、麻薬に縋るまでに追いつめられる感覚も知らないから、僕は何も言えなかった。
生きたいよ、と答えることはできたのだろう。
表向きだけを取り繕った意思で応えることも簡単だっただろう。
だけど、それを、僕の薄っぺらい良心が阻んでいた。
どうしても、そんなうすら寒くなるような嘘を吐けずにいた。
「やっぱり、答えられないよね」
「……ごめん」
「謝らないでよ。貴方が悪いわけじゃないんだから」
「でも、――俺は、君のことを、」
「私のことを?」
「君の、ことを……」
言いかけて、だけど、そこで止まってしまう。
彼女は、破滅を望む。
自分の進みたい道を、自分で決めている。
そこに僕が口を挟む余地は、無いはずだ。
僕じゃ、彼女を救えない。
彼女のこれまでを消すことはできないし、娼館から彼女を身請けするための金すらも、ありはしない。
「俺は、」
僕は。
本当に、何をしたいのだろう?
「……その答えが出たら、私に教えてよ」
待ってるから、さ。
何も言わないままに少し経った後、彼女はそう言った。
「そろそろ私は戻るけど、これからも会おうよ……私も貴方も忙しくて、そんなに会えないかもしれないけど」
言葉と共に立ち去ろうとした彼女の背中に、
「最後に一つだけ――10年前の約束、覚えているか?」
悪あがきのように投げた言葉は、
「……さあ、ね」
届いたかどうかすら、僕には分からなかった。