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第5部:かつてと今の境界線

「…………」

「…………」


 それから数秒間、僕と彼女は黙って互いを見ていた。

 彼女の存在を疑っていたわけじゃない。

 5年前までずっと一緒に働いていた相手を見間違えるわけがないし、彼女が僕を認識できたということは、やはり彼女は彼女であったということだ。

 ただ、彼女の呼び方を、僕は迷っていた。

 5年前の僕と彼女は、等しく名前が無くて、それでも生活上の不便は無かったのだからいいのだけれど、こうして日常を過ごしている今となっては互いを呼ぶ言葉に迷ってしまう。


「たしか、今の君はアイン、だっけ?」

「っ……どうして、俺の名前を?」


 ライアが呼んでいた僕の名前を聞いたのだろうか?


「アインは気づいていなかったのかもしれないけどね――私はアインの働いている店に何度か行ったことがあるんだよ?」


 それで知ったんだ、と彼女は笑う。


「えっ……ご、ごめん」


 ならば、彼女は既に僕を知っていたという事か。

 僕だけが彼女を知らなかったということに、罪悪感を覚える。


「いいよいいよ、貴方は忙しかったみたいだし……ちなみに私は、今はブリスって呼ばれてるの。どこかの国の言葉で〝至福〟って意味なんだって」

「……そう、なんだ」


 彼女の笑顔に、僕も曖昧に笑ってみせる。

 どうにも、彼女――ブリスが、今、目の前にいるという実感が持てなかった。

 疑っているというわけではないのだけれど、僕の中では驚きが何よりも勝っていて、状況を正常に認識し、頭の中で整理するという行動がとれなかったのだ。


「ブリス、君は……今は、どこで生活しているんだ?」


 話を繋ぐために頭から捻りだした問いを口にすると、ブリスは僅かに躊躇う仕草を見せた後に、ある方向を指で示し、


「あそこにあるお店で働いているの……私の名前を出せば、近くに住んでる人は分かると思う」


 それは、そこそこに知名度が高いということだろうか。

 だけど、彼女の様子から見るに、そこに誇らしさや、得意げといった節は見受けられないのはどうしてだろう?


「それじゃあ私、お店に戻るね」


 少し焦り気味にブリスは言うと、来た道を戻ろうとする。


「――アインに会えて、嬉しかったよ」


 去り際に彼女が口にした言葉は、だけどどこか悲しげで、


「え……う、うん、」


 俺もだよ、と言おうとしたけれど、それを口にする前に彼女はフラフラと歩き出し、人ごみに紛れ、溶け込み、見えなくなっていた。


「…………」


 しばらくの間、僕はその場を動けずに彼女がいた場所を凝視し続けていた。

 止まっていた時が動き出したみたいに、遠ざかっていた周りの音が臨場感を増して聞こえ始める。だけど、僕の頭だけがどこか別の世界を彷徨っているようで、これまであったことがただの夢だったかのみたいにも思えた。



「……さっきの、お前の知り合いか?」


 それまで背後で黙っていたライアが言葉を発し、


「あぁ、昔、一緒にいた知り」


 合いだよ、と言う前に、振り向いた先で見たモノに僕は息を呑み、言葉にしきることができなかった。


「ど、どうしたんだ、そんな怖い目をして」


 ライアは、お世辞にも人相がいいとは言えない。

 やや吊り上がった目とかは笑っていればある程度緩和できなくもないのだけれど、冗談を挟めない仕事の時や不機嫌だったりした時は、その目つきの悪さなんかが強く表に出る。酷い時なんかは道行く子供が目を合わせてもいないのに急に泣き出すレベルで、それは傍から見れば町の一角を法の内外問わず治める治安維持組織の頭角というより、悪の親玉と説明される方がしっくりくる。

 そして、今のライアは、これまで見た中でも5本の指に入るくらい不機嫌な表情をしていた。


「……あいつは、南の娼婦街の女だ」

「ライアも、彼女を知っていたのか?」

「あぁ。あの性格や容姿のせいか、人気もトップ中のトップだからな、こっちの耳にも入る」


 ライアの口調はひどく苛立たしさを帯びていたけれど、その理由を僕は理解できなかった。


「クスリだよ」

「え?」

「最近、他所の町から流入されたヤツだ。毒性も依存性もそれほどではないが、他に類を見ない特殊な〝幻覚〟を見るってんで、入れ込むアホが後を絶たない」

「……最近立て込んでいたってのは、それが原因か?」


 話すごとに増すライアの口調の刺々しさに抱いた疑問を口にすると、


「まあ、そんなところだ」


 僅かに顔を顰めた後、観念したようにライアは答え、


「彼女も、たぶんその一人なんだろう……まぁ、憐れみも、同情するつもりも、オレにはないが」

「……」


 薬に溺れた娼婦が、今の彼女。

 売春も麻薬もこの世界を構成する一部であり、ロクでもない世界の中でそれらに憧れてしまうことも、考えてみれば仕方のないことなのだ。

 誰かに抱かれることは商売にも生き方の一つにもなり得るし、副作用がどうであれ、クスリは脳に直接望む刺激を与えてくれるのだから、歩もうと思えば誰でも歩める道なのだ。

 彼女が生きていることを、僕は喜ぶべきなのだろう。

 仕方のないことだと、街の日常の一つだと割り切るべきなのだろう。

 喜んで、割り切って、それ以上の思考はやめるべきなのだろう。


「ロクでもない鼠が走り回ってるようだからな。お前も気をつけろよ」

「……分かってる」

「彼女の件は、運が悪かったとでも思っておけ。下手に深入りすると、お前まで同じ穴に落ちることになるぞ」

「……分かってるって」


 分かってる。分かっているんだ。

 これは、彼女の選択だ。彼女の選んだ道だ。

 破滅への道もまた、道の一つだ。

 安穏とした日々に逃げる僕に口を出す権利はないし、むしろこんな事を考えている僕は何よりも無粋で、無遠慮なのだ。

 だけど。


「……そうだよな。仕方ないよな」


 それを思うことも、口にすることも簡単なのに。


(……どうして、)


 どうして。

 このもやもやと曇った感情だけが、拭えないのだろう。


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