第2部:転んで、起き上がって、それから
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雪が降った。
それがその日、僕が殴られた理由だった。
「いてて……慣れたとはいえ、酷い理由もあったもんだ」
痛む頬を摩りながら、僕はスイングドアを肩で押して外に出る。
「うぅっ、さぶい」
暖炉と人の熱で満ちたパブの中とは違い、冬の入りにある外気は冷たい。おまけに外套もなくバーテンの服のまま外に出るのだから、感じる寒さも中の比じゃない。
小さく身を震わせながら空を見上げる。
周りの建物の屋根で小さく区切られたそこは、どんよりと灰色の雲が覆っているせいで日を拝むことは無く、主張する薄暗さはただでさえ陰鬱な気分を更に曇らせる。
幾度となく見上げてきた空。
かつて、絶望的な日々から逃げ出してきて以来、何度もこの場に立っては、自分のいる場所を再確認して来た、その指標となる空だ。
「ん?」
何も考えず、ただ空だけを眺めていると、ふいに視界を白いモノが横切った。
それらはいくつも、いくつも空から下りてきて、屋根に、地面に触れるごとに、ふわりとその身を水に変えて見えなくなっていく。
「……雪だ」
雪。
寒いだけだったところに、それは本格的な冬を告げると同時に、
「5回目の冬……あれから5年、経ったってことか」
5年前――僕がご主人の家から逃げ出した時のことを、思い起こさせた。
きっかけは屋敷を襲った強盗だった。
泥棒じゃなくて強盗で、数も1人じゃなくて、だいたい10人くらい。
ご主人とその家族と奴隷長、そして何人か僕と一緒に〝買われ〟ていた奴隷が強盗に殺されて、幸いにも見つからなかった僕は屋敷を抜け出すことができた。といっても、僕は奴隷という身分で、最低限とはいえ食事や居住環境を得ていたワケで、そこを逃げ出した以上、新たな場所を探さなければならなくなる。
そして、僕がそれに気づいたのは街から街へと2日ほど逃げたところで、その頃には既に空腹と疲れでボロボロになり果てていた。
夢中だったのだ。
逃げられる、という嬉しさで。
重労働、粗末な食事、まともに眠れない狭い共用の寝床という苦痛に満ちた環境からの脱出は、僕に他の思考を全て取り去ってしまうほどの光を浴びせていたのだ。
『――おい、アンタ、そんなナリしてどうしたんだ?』
フラフラと路地裏を彷徨っていた僕に話しかけてきたのは、白い髭を顎に生やした一人の男だった。
『この辺じゃ見かけねぇ、クスリをやってるわけでもねぇ、ガリガリに痩せてるし、よく見りゃまだガキ、か……』
僕を頭の先からつま先まで観察してはブツブツと呟いていたその男に、
『あ、あのっ――』
その時のことは、思い返すたびになんて軽率だったのだろうと頭を抱えたくなる。
僕はその男に、自分の身の上を全て話した。といっても、人生の大半を屋敷の中での労働に費やしてきた僕には大して話すこと等なく、かつて屋敷でドレイとして働いていたこと、強盗に入られ、この街まで逃げてきたこと、おカネも何もなくて困っていること、といったくらいのモノで、
『よし、オマエさん、オレのトコで働かないか?』
そう言われた時、助かった、と思ってしまったのは、僕が既にロクに思考が回っていなかったせいに違いない。
男は、表通りからいくつもいくつも入り組んだ道を通った所にある小さなパブのマスターだった。
足を踏み入れたそこはモクモクとタバコの紫煙が絶えない場所で、残り物を炒めただけだが、という前置きと共に出された、独特のスパイスの香りを孕んだソーセージやポテトの味は、それまでに食べた何よりも美味しかった。
『ウチは色々と手を付けているし、大変だとは思うが、まぁ、頑張っていこうや』
そう言った男――マスターに、ガツガツと食事を平らげるのに夢中だった僕は、それこそ救世主でも見るような気持ちで頷き、それから今に至るまで、マスターの下での生活を続けることになったのだ。
……だけど、
「オヤジ、人使い荒いんだよなぁ……」
マスターは、まず最初に、自分をオヤジと呼ぶように命じた。
曰く、堅苦しくて嫌いだという事で、別にこだわりもなかった僕はそれに従うことにした。
そして、給仕の仕方や酒の種類、仕入先、料理といった色々な事を教わったのだけれど、その一つ一つにおいて、オヤジの教え方は荒かった。
『ここは、まあ、このぐらいだな』
なんていう曖昧な表現は序の口で、そのくせやたらと細かいところもあったりして、失敗するたびに拳が飛んできたり、失敗しなくても機嫌が悪い時は殴られたりと、本当に気まぐれな人だった。
それでも、かつての奴隷生活とは段違いの生活で、兼業でやっている〝法の外の仕事〟にもすぐ慣れることができたし、それを楽しんでいる自分がいた。
『――お前、筋がいいな』
なんていうコトを言われることはないけれど、オヤジはそれから5年経った今でもこうし僕を住ませてくれているし、そもそも信頼の置けない人間に〝法の外の仕事〟を任せることはないだろうから、まあ、そういうことでもあるのだろう。
「……そろそろ、戻るか」
小さく息を吐き、店の中に足を踏み入れると、熱気とアルコールの臭い、煙草の紫煙がいっぺんに襲い掛かって来て、僅かに顔を顰める。
僕が戻ったことに気づいたのか、それまでカウンターで客と世間話に興じていたオヤジが顔を上げた。
「おぉ、アイン、戻ってきたか」
アインというのは、僕の名前だ。もともと僕には名前なんて無くて、ご主人の屋敷にいた頃も〝お前〟とか、〝そこのドレイ〟とか、固有の呼び方なんてされたことが無かったのだけれど、それじゃ不便だからとオヤジがつけてくれたのだ。
「アイン、スマンが1つ、頼んでもいいか?」
そう言うオヤジの声は穏やかで、それなりに機嫌がいい、もしくは酔っ払っていない証だ。
「いいよ、今は空いてるみたいだし。それで、頼み事って?」
「ああ、今晩のローストチキン用の鳥を買いに行って来てくれ。向こうにはもう、話をつけてあるから」
「ローストチキン……?」
この店で出されるのは酒と簡単なつまみくらいで、準備に時間がかかるローストチキンなんてモノを出すことはない。もし、出すとすれば、
「――ほら、オマエ、今日はクリスマスだろう? 去年と同じ、特別メニューってやつだよ」