第1部:彼女の言葉と忘却と
『――いつか2人で、この日にお祝いしようね』
彼女が言葉と共に浮かべたその表情を、僕は今でも覚えている。
冬の入り、僕と彼女の〝買い主〟であるご主人様が特注品の毛皮のコートで一回りも二回りも大きく見えた頃、まだ幼くて、小さくて、知識も乏しい僕がその日の意味を知ったのは遙か後のことだったのだけれど、ご主人様とその家族が食べ残し、こっそりと失敬した晩餐の残りを埃っぽい物置で貪り食っていた僕が、一緒にいた彼女の様子が違うコトはすぐに分かった。
『どうしたの?』
既にほとんど肉のついていない鳥の足をしゃぶりながら尋ねる僕に、
『別に、何でもないよ』
彼女は首を横に振って、薄汚れた顔にいつもの曖昧な笑みを浮かべてみせた。
『何でもない……何でも、ない』
まるで、自分に言い聞かせるように言って、何度か頷いて、食べ散らかされた皿の端にこびりついた野菜の切れ端を手で掬って口に運ぶ。
それからはしばらく、仕事をサボっていることがばれないよう、でっぷりと太った奴隷長に見つからないよう息をひそめながら、ひたすら無言で、いつもより豪華な残飯を食べていた。
2人でそれぞれ持ってきた大きなお盆には、かつてあった栄光の残滓が転がっていた。
ある皿には小さな肉の切れ端と油でしなびたレタスが、スープ皿の底には僅かに残った豆のポタージュ、蒸かしたジャガイモは形を留めない小さな欠片で、つぶれたスポンジケーキの欠片はただでさえ少ないのを2人で分け合いながらクリームの甘さを痛いほど味わっていた。
ささやかな一時だった。
じきに僕たちは奴隷長に見つかってしまうだろう。
罰を受けるのは当然で、鞭で何度も叩かれるだろうし、灯りもなく馬小屋の掃除を命じられたり、下着に至るまで服の全てをはぎ取られて外に蹴りだされるかもしれない。そして、ご主人様や奥様、子供たちはそれを見てゲラゲラと笑うのだ。
『……ねぇ』
どれくらい経っただろう、こびりついたポタージュを舐めとっているところに声が賭けられて顔を上げると、彼女がじっと僕を見つめていた。
『なに?』
尋ねてもしばらくは何も答えなかったけれど、やがてゆっくりと口を開いた。
『今日が何の日か……あなた、知ってる?』
『ううん、知らない。君は?』
問い返すと、彼女は少し俯いて、知ってる、と答えた。
『クリスマス、っていうんだって……誰か知らないけど、すごい人の生誕祭』
『くりすます……』
そうか、今日は誰かの誕生日なのか。どうしてか知らないけれど、この屋敷では身内の誰かの誕生日になると、それを祝う習慣がある。今日もそうだけれど、そういう日は決まって豪華な食事が出て、その度に僕たちはその残りの載った皿をくすねて、隠れて食べるのだ。
だけど、僕たちの誕生日がやってきても、祝われることはまず、無い。
それは僕や彼女が親にお金で売られた〝ドレイ〟というモノであるせいだし、物心ついた頃からこの屋敷にいた僕は、そもそもいつ生まれたのか、今何歳なのかも知らない。目の前の彼女と身長が同じだから、たぶん年も同じくらいなのだろう……たぶん。
『それでね、クリスマスは色んな飾りつけをして、家族とか、好きな人とかと一緒に過ごすのがジョーシキなんだって……世の中には、そういう人がいなくて、一人で過ごす人もいるらしいけど』
『へぇー……すごい日なんだね』
僕もついこの前、庭のヤドリギを切り出しに出かけさせられたっけ。大広間に置いて飾りつけをしようとしてご主人様の子供に自分がやると背中を蹴られた挙句、数分後には飽きて鈴や星の玩具を投げ捨てて立ち去られ、サボるな散らかすなと奴隷長に殴られたことはよく覚えている。
『私たちも、そんな事ができる日が来るのかな』
『さあ、どうだろうね』
適当に答えたけれど、本当のところは僕も彼女も分かっていた。たぶん、僕たちは一生この屋敷で過ごすのだ。申し訳程度の服を着て、最低限の食事と睡眠をとりながらドレイの命を全うするのだと、分かっていた。分かり切っていた。
温かい家の中、好きな人とごちそうを食べながら、楽しく過ごす。
マトモな生活すらできていないのに、それは明らかに現実からかけ離れていた。
かけ離れすぎていて、僕たちとは関係のない、全く別の世界の話みたいだった。
『きっと、楽しいだろうね』
『……うん』
だから、それは単なる現実逃避に過ぎないモノだ。
『さぞ、幸せなんだろうね』
『……うん』
夢、絵空事、ご主人の息子がたまに読んでいる絵本――文字なんて知らないから、どうせ読めないのだけれど――の中のような、在り得ないモノだ。
『私は、ケーキが食べたいな。小さい切れっぱしじゃなくて、大きくて、クリームがたっぷり載ってるの』
『……うん』
たとえ目の前で同じことをご主人様たちがしていたとしても、僕や彼女が同じようにできるわけじゃない。
彼女もそれを知らないわけじゃなくて、知っているからこそ、やりきれなさを夢見事として口から吐き出しているのだ。
『プレゼントは……セーターが欲しいな。あったかい、羊毛の。あ、靴下も欲しい』
『……うん』
うん、うん、と僕は頷いていた。
別に一から十まで共感していたわけじゃなかったけれど、ただ、彼女と夢を共有したかったとか、ドレイの現実から少しでも長く目を逸らしていたかったとか、たぶん、そういう単純な理由だった。
だから、
『――っしょに、お祝いしたいよね』
『え……?』
その時、唐突に言われたことに、僕はうまく反応できなかった。
『もう、ちゃんと話、聞いててよっ』
『ごめん』
『だからさ、――』
その時の彼女は、たぶん笑っていたのだろう。
薄暗がりのせいでよく見えなかったけれど、汚れて垢塗れの顔は僅かに赤くなり、口の端が少しばかり吊り上がって、いつもの曖昧なのとは違うモノを見せていて、
『 』
その言葉が示した本当の意味を、僕は知らなかった。
さっきまでと同じ、単なる絵空事の類だと思っていたし、それからしばらくしてドアを蹴り開けて入ってきた奴隷長に見つかって鞭の雨に晒された時点で朦朧とし、ただその言葉だけが記憶の山の中に埋もれることになった。
そして、それを再び思い出すことになるのは、5年後――ご主人の屋敷を襲った強盗に乗じて逃げる最中、散り散りになってから、更に5年経った後のことになる。