対面
狭い病院の中で、憧れの人と出会える奇跡。あと少しで古川遼と会うことができる。結衣はワクワクしていた。
直子に車椅子に乗せてもらって、遼がいる個室の前へやって来た。中から話し声がする。恐らくアユミさんと話しているのだろう。
「アユミさん、結衣を連れてきました」
智子がドアを叩くと、アユミさんが中から顔を出した。初めて見るアユミの姿に、結衣はゾクゾクと鳥肌が立った。すごくしっかりとした女性だ。体の中に太い芯が通っていそうな感じがする。さすが昨日県大会で優勝した高校のキャプテンである。存在感がある。
「あなたが橋本結衣さん?」
「はい、昨日の県大会見てました。とてもかっこよかったです」
「ありがとうございます。皆さんの応援があって、勝ち抜くことができました。全国大会でも応援してくださいね」
アユミさんは、笑顔で話してくれた。
「アユミ、結衣さん来たの?」
部屋の中から男性の声がした。テレビで聴いた声と同じだ。本当に遼が目の前にいる。
「うん、来てくれた。それじゃ私はここで失礼します。ゆっくりしていってね。遼は入院中でとても退屈しているから」
手を振って、アユミさんは去って行った。きっと気を遣ってくれたんだろう。結衣はアユミさんへ向けて、お辞儀をした。
さあいよいよ遼との対面だ。今にも破裂しそうな心臓。ふうっと深呼吸をして、結衣は中に入った。
「はじめまして、橋本結衣です。今日は貴重な時間を作ってくれて、とても感謝しています」
「いやいやこちらこそ。あいにくこんなケガを負って、時間を持て余しているから。結衣さんと会うことが出来て嬉しいです」
白く磨かれた歯をのぞかせて、遼は言った。遼と初めて会った結衣は、全身に電気が走るような感覚になる。まさに痺れるといった言葉がぴったり当てはまる。
想像していた以上にかっこいい!
「僕は橋本さんのこと、何て呼べばいい?」
「えっ?」
「橋本さんって呼ぶのは他人行儀だし、結衣って呼び捨てするのは失礼だと思うし。何て呼べばいいんだろう?」
突然の遼からの提案に、結衣は驚きを隠せなかった。今までずっと結衣と呼ばれてきたから、特にこれといったあだ名もなかった。
「私は幼い頃からユイと呼ばれてきたから。橋本さんって呼ばれたことはあんまりない」
「そうか。だったらユイって呼ばせてもらっていい?ねえ、ユイ?」
異性から名前で言われることに慣れていない結衣は、顔が真っ赤になった。増してそれが憧れの遼だったから大変だ。
「僕は遼と呼んでくれたらいい。名前で呼び合ったほうが距離も近づくしね。今日は一日よろしく」
優しくしてくれて、さらに気を遣ってくれて、遼への好感度が上がっていくのを結衣は感じていた。
話題の中心は、入院生活のことになった。長い入院生活を続けていく上で、何か楽しみを見つける方法がないか結衣は遼に尋ねられた。入院生活では先輩になる結衣、日頃の経験から、遼にいくつかのポイントを教えてあげた。
「私は元々本を読むことが好きで、好きな作家の作品を読み漁っている。最近は自分で小説を書いたりもしているの。小説は病室でも原稿用紙さえあれば書けるし、私にも向いているわけ」
「へえ、すげえな。自分で創作するんでしょう。今度機会があったら、小説読んでみたいな」
「ええっ?読ませられるレベルではないから」
何を隠そう、今は遼を題材とした小説を書いていた。それを本人に読んでもらうわけにはいかない。
「えっ、ダメなの?それは残念だな」
遼は無念そうだったが、現在進行形の小説を見せるわけにはいかなかった。
「他に書いた小説があるから。それなら構わないよ」
「本当に?もし良かったら、今度見せてよ」
遼は目を輝かせて言った。元々本を読むことは嫌いではなかった。バスケットの研究ノートを取るようになったのも、あるスポーツ選手の本を読んだことがきっかけだった。
「わかった、今度持って来るね。ところで遼はケガが治ったら、もちろんバスケは続けるつもりだよね?」
さも当たり前のように、結衣は尋ねた。
「まだ続けるかどうか決めていないよ。この間ケガしたばかりだからね。今は何も考えられない」
「嘘でしょう。遼がバスケを続けないなんて……」
結衣はショックだった。てっきり続けるものだと思っていた。
「ねえ、引退したらダメだよ。引退したら、すべてが終わってしまう」
「終わってしまう?」
「バスケは続けてほしいという、私の心からの叫びなの」
「でもこの膝が完治するかはわからないし……」
結衣は必死だった。遼には何としてでも、続けてもらわなければならなかった。引退してしまうことは簡単だ。それに今書いている小説は、ハッピーエンドを迎えることができなくなってしまう。バッドエンドで終わらせるわけにはいかない。
「よく聞いて、遼。あなたはもはや自身のためにプレーする選手ではないの。私みたいに多くの人が遼を応援している。そして励まされているの。ほら、私がそうであるように」
遼は腕組みをして考え込んでいた。まだ迷っている様子である。さらに結衣は話を続けた。
「その人達は遼の引退なんて望んでないと思うの。きっと悲しむと思う。だからどうかプレーを続けて」
約五分にもわたる結衣の説得に、遼は結論を下した。
「引退なんて口に出すなんてどうかしていた。必ず膝の故障を治して、もう一度コートに立ちたいと思う。今日は説得してくれて、ありがとう」
結衣の説得は吉と出た。ようやく結衣は胸をなでおろした。今日は会いに来たはずなのに、この冷や汗は何だろう。
「結衣、もう帰る時間よ」
母の直子が迎えに来た。今日はここまでのようである。二人はもっと話を続けたかったが、また会えばいいだけの話だ。
「今日は楽しかった。また話をしようね」
「もちろん。今度来る時は小説を持ってくるね。今日はありがとう」
結衣と遼の二人は、手を振って別れた。賑やかだった遼の個室が、再度静寂に包まれた。先程までの楽しかった時間が嘘のようだ。遼は深くため息をついた。
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