遼に会いたい
古川遼は病室のベッドから外を眺めていた。外に広がる光景は当然ながら何も変わらない。ただただ退屈。右足を動かす自由を失った遼は、絶望の真っ只中にいた。
膝には何重にも巻かれた包帯。当然ながら、明日からの試合出場は絶望。本当に無念である。
机の上にある一冊のノートを見る。今までの試合で、遼が書き上げてきた研究ノートだ。
試合が終わるたびに、反省点や相手チームの選手分析など、事細かにメモを取ってきた。わずかに試合に出場できる可能性をかけて持ってきたが、これも必要ない。そうだとわかると、このノートが必要ないものに見えてきた。遼はノートを取ると、壁に向かって投げつけた。乾いた音が部屋中に響いた。
「大切なノートを投げたらダメだよ」
遼が投げつけたノートを拾い上げたのは、同じ高校の女子バスケ部に所属する井上亜由美だ。アユミはノートを机の上へ戻した。
「もうこのノートは必要ないよ。持っていても仕方ないだろ」
「そんなことないよ。これは何かの役に立つかもしれない」
「だったらアユミにやるよ」
「本当に?」
アユミの目が輝いた。
「俺が持っていても仕方ないし。アユミに委ねるよ」
「それなら私がもらうね。一体どんなことが書いてあるんだろう、読むのが楽しみだな」
「勝手にすりゃいい」
再度遼は外を見渡した。先程見た景色と全く同じ風景。一体何日この風景を見続けなければならないのだろう。遼は大きくため息をついた。
「明日は決勝戦だよな。早く帰らなくてもいいのか?」
遼が心配した様子で、アユミに訊いた。
「家にいると不安になるから、ここにいたほうがいい」
「勝手にすればいいよ。どうせ俺はここを動くことができないし」
「それに一人だと話相手がいなくて、暇でしょ?私がいたほうがいいじゃない」
アユミの言葉には耳を貸さず、せっかくがいるのだから、何か買ってきてもらおうと思案していた。
「アユミ、下のコンビにでおにぎりと雑誌買ってきてよ」
「ええっ、私はパシリじゃないわよ」
「もちろんだよ。でもこの右膝を見てごらん。とても買いに行ける状況ではないよね」
「ううん、もう。わかったわよ、買ってきてあげるわよ」
アユミは渋々承諾した。遼から代金をもらうと、コンビニへ向かう。
アユミが廊下へ出ると、見知らぬ女性が一人立っていた。どうやらアユミを見つめているようである。遼の知り合いでもなさそうだし、一体誰だろうか。とりあえず挨拶でもしておこうとアユミは思った。
「こんばんは」
お辞儀をしたアユミに、女性が挨拶を返してきた。
「こんばんは。あなたは古川遼さんの関係者の方ですか?」
「ええ、そうです」
「では遼さんの交際相手の方?」
初対面なのにずけずけと尋ねてくる女性。アユミは気分を害したが、頭では冷静に対応しようと試みた。
「交際相手ではありません。彼は友人の一人です」
「そうなんですか。大変失礼いたしました」
女性は頭を下げると、袋の中から菓子折りを出してきた。
「申し訳ないんですが、この菓子折りを古川遼さんに渡していただけませんか。私と娘からの入院見舞いです」
「私と娘?」
出された菓子折りにアユミは困惑した。誰ともわからない人に頂いても困る。戸惑っているアユミを見た女性が、異変に気づいた。
「これは失礼しました。紹介が遅れました。私、橋本結衣の母親の直子と申します。今日は入院中の娘に代わって、ここへ来ました」
「入院中の方なんですか?ではここの病院に娘さんが、入院されているんですね?」
ようやくアユミは理解出来てきた。恐らく遼の入院を何かの媒体で知って、ここに運び込まれてきたことを知っている人物なんだろう。
「そうです、あなたの言う通り。娘は別の病棟で入院しています」
アユミの予感は当たった。そうであればこの菓子折りは頂いても、問題はないだろう。アユミは受け取ることに決めた。
「ではこの菓子折り、遼に渡しておきます。お心遣いありがとうございます」
丁寧に挨拶をして、アユミは直子の前を通り過ぎようとした。しかしアユミは再度呼び止められた。
「すいません。一つだけお願いしたいことがあるんですけど、よろしいでしょうか?」
今度は何の用事だろう。偶然出会った女性に、アユミは時間を取られることになった。
※
30分ほど経って、ようやくアユミは戻ってきた。おにぎりと雑誌を買うように頼んだだけなのに、随分と遅かった。だがアユミはやれやれといった表情である。
「コンビニ混雑していたの?」
「ううん、全く。おにぎりと雑誌はすぐ買えたわ。けれども廊下で、女性とすれ違ったの。遼のファンよ。この病院にもあなたのファンはいるのね」
自分のファンに捕まったということで、遼は何も言えなくなった。アユミが巻き込まれたのは何か申し訳ない思いであった。
「それは運が悪かったね」
「ううん、別にいいのよ。それだけ遼が注目されているってことだから。はい、そのファンの人からの入院見舞い」
「サンキュー」
おにぎり、雑誌、菓子折りと増えた。何から手をつけよう。退屈しのぎに雑誌でも読もうか。それともアユミと一緒に、頂いた菓子折りでも食べようか。
「そのファンの人から一つお願いをされちゃった。聞いてもらえるかな?」
「協力できることなら応えてあげたいけど」
「なら話すね。実はファンの人、同じ病院で入院していてさ。病棟は違うんだけど、遼と会って話がしたいって言うんだ。一応許可は遼に話してからということにしてもらっている。ちょっと考えてみてくれないかな?」
アユミからの提案に、遼は驚いた。
「会うのは別にいいけど、その人はどんな人なの?」
「高校生の女の子。私達と同い年って言っていた。私が話したのはそのお母さんだけどね。一応写メももらってきたけど、確認してみる?」
なかなかアユミは気が利く。会うか会わないか決めずに、さらに写メをキープしてきた。確認してみてやばそうなら、断ればいい。
「じゃ、見せてもらえるかな」
「はいはい、これが会ってほしいと言っている女の子です」
アユミの携帯を受け取ると、さっそく写メを確認した。写メには、長い髪の女性が写っていて、学生服姿の写真だった。目は二重でパッチリしている。さらに鼻は高くて、口は小さい。ズバリ遼の好みのタイプの女性だった。
「かわいい子じゃん。よくこんな子のお母さんが、俺に会いたいとか言って来たよね。俺は芸能事務所のスカウトじゃないぜ」
遼の表現に、アユミは笑った。
「どうやら遼のタイプの女性のようね。会ってくれるよね?」
「もちろんですよ」
遼からOKが出た。さっそく直子に報告しなければならない。
一方、結衣と直子の二人は緊張した様子で、アユミからの連絡を待っていた。
「会ってくれるかな?突然だから、驚いているだろうな」
結衣が不安がっているので、直子は励ました。
「きっと大丈夫よ。アユミさんが話をしてくれるって言ったから。彼女頼りになりそうよ」
「アユミさんって誰?古川遼の母親?」
「ううん、遼さんの友人だって。同じ高校に通っているそうよ」
「ふーん、そうなんだ」
結衣の勘からして、遼とアユミには何らかの関係がありそうな気がした。けれどもそんなことは言っていられない。頼りになるのは彼女だけだ。
そして直子の携帯が鳴る。相手はもちろんアユミだった。緊張した面持ちで、直子は携帯に出た。
「もしもし、アユミさん。遼くんは会ってくれるって?ありがとう!」
直子の返答に、結衣は手を叩いて喜んだ。こんな機会はまたとない。直接会えることに結衣は興奮していた。