僕と彼女のよふね
揺れるバスの中、目の前の白い背中を見つめる。
洗いざらしのシャツと襟足まで伸びた髪。
くたびれた若いサラリーマンの姿はまさに彼の未来そのものを映しだしたようだ。
何かを成し遂げる時間は彼にどれ程残っているのだろうか。
目を瞑りたくなるような少しの悪感情と、つらつらと浮かぶ言い訳じみた言葉で
頭の中を占められたまま目の前の背中を思う。
願わくば彼の周りが“これ”に気づきますように、とハナムケの気持ちを白けた視線に乗せて送った。
彼が降車してから10分。目的地のバス停で降り、道なりに歩いて2分の場所にある入り口の狭い喫茶店がある。
その裏口に回ると、ドアは開いているが8時だというのにまだ開店していない。
元々早朝営業をしない珍しい店だがいつもならこの時間にはポツポツと客が入り始めている時間なのだが。
この古びた喫茶店が僕の職場だ。
バイトの身分だが時給はそこそこ良いので辞めることも考えず、ここに居座り出してもう3年になる。
店長のヨージさんと奥さんの春美さんが一昔前に一念発起して開いた店、『春陽』は、名前に似ず日当たりの悪い場所にぽつんと佇んでいる。
『春陽』はヨージさんが
「娘が生まれたら店と同じ名前をつけたいんだ。船には愛しい女の名前をつけるだろう?」といった理由から命名されたらしい。
幸か不幸か2人の間には娘が生まれ、もちろん『春陽』と名付けられた。後半にいたっては関係ないだろ、と僕は思ったがそれは春美さんも同じだったらしい。
「おはようございます。ヨージさんもう起きてます?」
「あ、おはよう芦名くん。今日も時間ぴったりの出勤ご苦労さま。もちろん主人はまだよ。」
軽口と苦笑を含ませながら食パンの耳を切り取る。
「今週は遅刻多いですね。ヨージさん、そろそろクビにしましょうか? アルバイト3年の権限で。」
「良いわねその話、乗ったわ。」
口の左側だけを上げて、悪い顔をしている。――この顔も最近では板についてきたような気がする。
「まあ、お昼の時間までに出てきてくれればいいんだけどね。とは言え朝っぱらからひたすら大量のパンと戦う嫁としては、そろそろ腹が立つわ。」
この店の名物はサンドイッチだ。喫茶店としてだけではなくそれだけを買いに来る客が多く、むしろそっちの客のほうが多かったりする。
そんな理由が、朝早くから営業しない理由だったりする。
だが朝から買いに来る客もいるのだから営業すればいいのに。
僕もサンドイッチ用のパンの成形作業を手伝おうと今日の仕込みの数を確認する。
―― 予約が多いみたいだからいつもより余分に用意しておこうかな。
「芦名くん! あと30分で店開けちゃうから、ストックとお昼の予約の分だけ作っておいてもらえる? 私、あの人を起こしながら開店の準備をするわ。」
了解、と返して僕はひたすらパンに具を詰め込んでいく。
これが終わったら、両端をピンで留めて端の部分を焼きゴテで軽く押さえる。
あとはパックに詰めて完成。
ストック分を作り終えた後で予約リストを見直すと、新規のお客がいた。
最近は新たな客が増えていて予約や昼の販売数が右肩上がりで調子が良い。
還暦に近づきつつあるヨージさんと春美さんは体力がもたないとぼやく日々だ。
予約分まで準備を終えた頃、開店した店内を覗くとフロアには数人の客がいた。
大体が近所の常連さんだったりさっそくサボりにきた営業マンたちで、慌ただしさとは無縁の状態だった。
ふと店の奥に視線をやると、小さなスペースのソファ席に見慣れない客がいる。
…若い女の人がこんな時間にこんな店にいるのは珍しい。
こちらを向いてはいるが、手元にある本を読むのに集中しているようでまったく顔を上げないので表情は見えない。
まさに一心不乱。
「あのお客さんね、今日一番乗りだったのよ? なんだか若い人が来てくれるとこっちも嬉しくなっちゃうわ。」
春美さんが消毒し終えたダスターたちを抱えながら横のサブカウンターに付いた。
「そうですね、若い人といえば子連れの奥さんたちくらいしか来ませんし。あの人、僕と同じくらいの年 頃の人ですかね。うつむいていてあんまり顔は見えないですけど。」
と言いながら僕も同じ作業をしつつ彼女の方を少し覗き込む。
「ふふ。せっかくだから、芦名くんの彼女候補になってもらえばいいんじゃない?」
からかうように突飛なことを言う春美さんを胡乱な視線でいなしてから、もう一度彼女を見る。
外界に目を向けないようにしているみたいな様子で相変わらず目線は手元にある。
「俺が頼んできてやろうか? コイツの彼女になってくれませんか? って。」
いつの間に起きてきたのか、背後にいたヨージさんがおもしろいものを見つけたようなにやけた顔で近寄ってくる。
まったく厄介ごとは面倒なタイミングでやってくるものだ。
内心で悪態をつきながらも努めて明るい声色で返す。
「…おはようございます、ヨージさん。遅刻しておいて人をからかわないでください。春美さんもですよ、そもそもお客さんに失礼でしょう。」
「言うようになったじゃねえか秋也。」
それは失礼致しました、とつい口調に棘が出てしまったが、このあたりで軽く流しておかないと一日中ネタにされてしまう。
僕はこの2人から離れるべく客の給仕に回った。
件の客のところにはなんとなく行きにくいが仕事である、仕方がない。
他の客のテーブルへ先に出向き、水のおかわりや追加注文を取っていく。
暇な夫婦の視線を感じる。
「お冷のおかわりはいかがですか?」
意を決して声をかけたのだが彼女は気づかない…。
仕方ないので勝手にグラスに水を注ぐ。すると瞬間、彼女が顔を上げた。
「……!びっくりした、あ、ありがとうございます。」
バっと顔を上げて心底驚いたような顔で僕を見たが、丁寧な口調に好感が持てる。
いえ失礼致しました、と水を注いでから踵を返しカウンターまで戻る。
その途中何人かの視線を感じた。見渡せば店長夫妻と彼女の3人の視線。
前者は置いておくにしろ、彼女の顔はさっきの驚いた顔とは違って真っ青で今にも震えだしそうな表情をしている。というよりも表情が固まってしまい目だけが見開かれていた。
何か失礼な態度でもとってしまったか? 怪訝に思いながらも気づかないふりをしておく。
しばらくすると先ほどの彼女から、「あ、あの…!すみません!」と声がかかった。
嫌な予感がするのでヨージさんあたりに頼みたかったがさすがに雇い主を顎で使うわけにもいかない。シルバーを拭いている手を止めてから小さく息を吐いて「ただ今お伺いします。」と返し彼女のもとへ向かう。
「ご注文でしょうか、お伺いいたします。」
「あ…すみません、注文とかじゃないんですけどその上唐突で申し訳ないんですけど
…あの、少しお時間 頂いてもよろしいでしょうか?」
しどろもどろの彼女から視線を外し振り返ってヨージさんを見るとこちらの話を盗み聞いていたようで腕を振り上げ、いけ!と合図している。
おかげで気が重くなったが、客を無碍に扱う訳にはいかない。
少しだけ怪訝な表情が出てしまいつつも固いアルカイックスマイルを展開させ小さく頷いた。
「はい、少しだけなら大丈夫ですよ。何かございましたか?」
「すみません。――えっと、何から話せばいいんでしょう…。あ、どうぞお掛けになってください。」
「いえ、お客様と同席するわけには――。」
そう言い終わらないうちに彼女は神妙な面持ちで
「少し話しにくい内容なので、お願いします。」
とまっすぐに僕を見つめながら素早く返した。
その視線に一瞬ドキリとさせられたが表情を崩さないようにして仕方なく席に浅く座り、彼女の“言いにくい話”を聞くことにした。
未熟な話を読んでくださりありがとうございました。
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