ひとはかみのてのうえでおどる
私の世界は、この限られた部屋の中だけ。
生まれる前の私は外の世界を知っているけど、私はここから出たことがない。
でも外に出たいとは思わないし、知りたいとも思わない。
だって、一度でも外の世界を望んでしまったら、きっと……
皆、死んでしまうから。
とある国の大きな研究施設。そこでは、この世界を支える重要な研究が進められている。
僕は両親を病で亡くし、国営の施設で育った。
必死に勉強して大学院を出た後、僕はこの研究施設で、両親を殺した病の特効薬の研究を手伝うことになった。
この手で両親の仇を討つことができる。同じ病気で苦しむ人々を救うことができる。
僕は、この研究施設で働けることを、とても誇りに思っていた。
「おい。採取行ってきてくれないか?」
「……いいですよ」
先輩研究者の言葉に従って、僕は献血セットを取りに行った。
例の特効薬を作るために必要な成分を採取するには、これが必要なのだ。
そして僕は、『彼女』のいる部屋へと向かう。
彼女に初めて会ったのは、僕がこの施設に入って数ヵ月後のことだった。
彼女はこの世界で唯一の希望。神の血を引くとされる一族の生き残りだ。
彼女の一族はこの世界の創生より存在し、数百年という長いサイクルで寿命を迎える。
しかしそれで死ぬことはなく、再びその身体に転生するのだ。すべての記憶を受け継いで。
転生を繰り返す彼女たちは、決して他人と性交渉をしない。同族間でもだ。
子を成すことのない彼女たちは、徐々にこの世界から姿を消していった。
彼女たちの血には神の力が宿ると言われていて、『密猟者』に狩り尽くされてしまったのだ。
故に彼女が、神の血を持つ最後の生き残りなのである。
僕が彼女の部屋に入ったのは、これで八回目だ。
最低限の家具しかない、白い壁の殺風景な部屋。
彼女はこの部屋で日がな一日ぼんやりしている。
今日も彼女は、窓のないこの部屋で椅子に座ったまま天井を見上げていた。
「こんにちは。またお願いしてもいいかな?」
「ええ、構わないわ」
彼女は無表情のまま僕に目を向ける。
表情を作る筋肉が退化しているため、常に無表情なのだそうだ。
僕は慣れた手つきで彼女の腕に針を刺す。
小さな献血パック一本分の血漿を抜き取り、保存容器に入れる。
例の特効薬は、彼女の血から作られているのだ。
「ありがとう。いつも悪いね」
「気にしないで。今度来るときは、新しい本を持ってきてくれる?」
「わかった。なるべく面白そうなやつを持ってくるよ」
僕はそう言って彼女の部屋を後にした。
今日もまた彼が来た。
彼は私に外の世界のことを話す。
そして決まってこう言う。
外に出たくないかと。
私はいつも断ってきた。
私がここにいないと、病気の人が苦しむから。
私が外に出ると、また争いが起こるから。
そんなこと関係ないと、彼は言う。
きみはボクが守るからと。
なんて愚かな子。
彼は自分の浅はかさを知らない。知ろうともしない。
自分が正しいと思い込んでいるから。
そして彼は、ついに行動を起こした。
私は何度も拒否したはずなのに。
彼は、私を外へ連れ出した。
そして、私は……
突然訪れたのは、一撃の銃声。
それはボクが抱いていた彼女の頭部を破壊した。
一瞬で、物言わぬ人形になってしまった彼女。
ボクは動揺し、足をもつれさせて転倒した。
彼女の血が、森の草花を赤く濡らす。
いったい、どうして、誰が、何のために、何故、彼女が犠牲に、ボクは、どうしたら。
これから、ボクと彼女は幸せな生活を送るはずだったのに。
誰にも邪魔されず、ひっそりと、しかし束縛されることもなく、もっと自由に暮らせるはずだったのに。
この世界は、彼女から自由を奪っただけでは飽き足らず、ボクからも永遠に彼女を奪うつもりなのか。
誰にだって、自由に生きる権利がある。
でも、他人の自由を奪っていい権利なんかない。
愛するひとを失ったこの世界で、ボクはどうすればいいのだろう。
この日、施設中に警報が鳴り響いた。
監視カメラに映っていたのは、彼女を抱きかかえ逃走する、彼女の話し相手だった若い男の姿。
僕は外へ飛び出した。
何故こんなことをしたのか。彼女が何をしたというのか。
奴に、彼女の命を弄ぶ権利なんてあるはずがない。
僕は必死に走った。
研究所を出てすぐの森の中。そこに奴がいた。
僕は走る勢いを殺さずに、奴を殴り倒した。
倒れた奴の胸ぐらを掴み、思いのままに怒鳴り散らす。
「何てことをしたんだ! 何故彼女を連れ出した! お前は、取り返しのつかないことをしたんだぞ!」
奴は驚いたように僕を見上げていた。
殴った拍子に唇を切ったのか、頬に一筋、赤い水が伝う。
そして、奴の傍に横たわる彼女の亡骸からは、この世界の希望だったはずの、血が流れていた。
彼女はこの世界を侵す病のことを知っていて、僕たちの研究に協力してくれていたのだ。
最初は僕も、この施設が無理矢理彼女を捕えて協力させているのかと勘違いしてしまったが、彼女は望んでここにいるのだと言った。
外に出てしまえば、彼女は『密猟者』に狩られてしまう。
だから彼女は、身の安全を保障してもらう代わりに、僕たちに協力していたのだ。
それなのに、奴のくだらない勘違いと無意味な使命感で、彼女は死んでしまった。
彼女は外へ出るのを拒んだはずだ。
それをこの男が、無理矢理外へ連れ出したのだ。
彼女を救うなどと、思い上がった大義を掲げて。
この男は、己の行動を省みたことはあるのだろうか。
病に苦しむ人々の気持ちを、考えたことがあるのだろうか。
密猟者に狙われる彼女の恐怖を、想像したことがあるのだろうか。
何の後ろ楯もない十六歳のガキが、何故彼女を守り通せる等と思ったのだろうか。
最悪の事態を招いてしまったとき、どう責任をとるか考えたことがあるのだろうか。
結局奴は、その場かぎりの正義感と自己満足ばかりを満たしたかっただけなのだ。
こんな、愚かな男のせいで、この世界は……!
一発の銃声が、白衣を纏った男を貫いた。
彼は、もっと慎重になるべきだったのだ。
密猟者に狙われた彼女が、まだここにいるということは、密猟者がまだ近くにいるということ。
密猟者の狙いは、血に染まって尚美しい、彼女の身体。
売れば大層な金になる。
彼女を外に連れ出してくれた有難い邪魔者も、引き金に掛けた指先を軽く動かしただけで沈黙する。
密猟者は悠々と彼女を持ち帰った。
彼女の身体は裏町のオークションに売られ、酔狂な貴族に買われ、美しいものを愛する皇帝に献上される。
彼女の身体は、何年も何十年も何百年も変わらず美しくあり続けた。
対照に世界は荒廃する。
枯渇する血漿、蔓延する疫病、失われる薬、それを廻る争い、倒れる人々。
滅亡へと突き進むこの世界を、誰が予測できただろうか。
生物の影もなくなったこの世界を見下ろし、あたしは言った。
「母様、また箱庭が壊れてしまったわ」
「また選択を誤ったね、いけない子だ。これで何度目だい?」
あたしが持っている箱庭を見ながら、母様は呆れたように息を吐いた。
「早くお捨てなさい。箱庭創りもいいけれど、程々におし」
母様はそう言って、自分の箱庭の手入れを始めた。
母様の箱庭は人間が文明を築き始めたところで、これから発展していく様子だ。
すぐに滅んでしまうあたしの箱庭とは大違い。
あたしの箱庭は、原因は何であれ、いつも人間たちの戦争で幕を引く。
あたしは何個目かになる壊れた箱庭を捨てた。
次の箱庭は、いったい何年もつだろうか。
打ち棄てられた箱庭の中の、荒廃した国の中の、破壊された巨城の中の、元は豪華だった部屋の中。
死して尚変わらぬ美しさを湛える少女の剥製。
創造主の血を混ぜて創られた彼女こそ、この箱庭の世界の希望であり、絶望の象徴。
生物だったものの姿は彼女以外に無く、徐々に崩壊する世界に一人、取り残されている。
彼女が何を思い生きていたのか、それを知る者はもう誰もいない。
END