第86話 忘れられた約束
翌朝、ヴィオレッタは青い手帳を片手に、自室の衣装棚を見上げていた。
「……ないね」
「こちらの箱にもございません」
エマが引き出しの奥から小さな宝石箱を取り出し、中身を確かめながら答える。
机の上には幼い頃の髪飾りやリボン、片方だけになったイヤリングなどが並べられていた。どれも大切に保管されていたらしいが、探している銀色のロケットだけは見当たらない。
「こんなに昔のものが残ってるのに、どうしてペンダントだけないんだろう」
「お嬢様がご自身でしまわれましたから、私にも場所が分からないのでございます」
「そうだったね……」
ヴィオレッタは手帳を開き、昨日見つけた一文を読み返した。
『ペンダントを、しまった』
たったそれだけの言葉なのに、書いた時の気持ちが伝わってくるような、妙に強い筆跡だった。
「ねえ、エマ。昔の私って、何か隠したい時はどこにしまってた?」
「そうでございますね……」
エマは少し考え、懐かしそうに笑った。
「お気に入りのものは、よくご自分のお部屋に隠していらっしゃいました。私が片づけようとすると『勝手に触らないで』とお叱りになるので、困ったものでした」
「……それはごめん」
「ふふ。ですが、お嬢様なりに大切になさっていたのでしょう」
「そうかもしれないけど、片づける側は大変だよね」
ヴィオレッタが苦笑すると、エマも小さく頷いた。
「ところで、エマ。私が八歳になる前に使ってた部屋って、今はどうなってるの?」
「以前のお部屋でございますか? 今は客室として整えておりますが、家具の一部はそのまま残っておりますよ」
「……そっか」
ヴィオレッタは少し考え、手帳を閉じた。
「一度、見に行ってみたいな」
◇
幼い頃に使っていた部屋は、屋敷の東側にあった。
扉を開けると、淡いクリーム色の壁紙と大きな窓が目に入る。家具の配置は変わっているものの、窓際には小さな書き物机が残されていた。
「……ここ、私の部屋だったんだ」
「はい。お嬢様が八歳になる頃までお使いになっておりました」
ヴィオレッタはゆっくりと室内を見回した。
不思議な感覚だった。初めて入った部屋のようにも思えるのに、窓から差し込む光や床板の色には、どこか懐かしさがある。
(……あれ?)
ふと、窓際の机に目が止まった。
小さな引き出しが三つ並んだ、白い木製の机。
その取っ手に触れた瞬間、頭の奥に何かが浮かんだ。
『これは、わたしのなの!』
幼い声が聞こえた気がして、ヴィオレッタは思わず手を引いた。
「お嬢様?」
「……ううん、何でもない」
ヴィオレッタは首を振り、改めて引き出しを開けた。
中には何も入っていなかったが、一番下の引き出しだけ、少し引っかかるような感触があった。
「……ん?」
もう一度引いてみると、途中で止まってしまう。
「エマ、これって昔からこうだった?」
「いいえ。少なくとも、私が覚えている限りでは……」
エマが隣から覗き込む。
ヴィオレッタは無理に引っ張らず、引き出しの奥へ指を伸ばした。すると、底板の端がほんの少し浮いていることに気づく。
「……これ、外れる?」
指先でそっと持ち上げると、薄い板が小さな音を立てて動いた。
その下には、浅い空間があった。
「……あった」
ヴィオレッタは息を呑んだ。
そこには、色褪せた青い布に包まれた小さなものが置かれていた。
布を開くと、銀色の鎖が静かに滑り落ちる。
花の形をしたロケットペンダントだった。
「……これだ」
青い石は少しくすんでいたが、肖像画で見たものと同じだった。
「まあ……」
エマも驚いたように目を見開く。
「こんなところにしまっていらしたのですね」
ヴィオレッタは手のひらにペンダントを載せ、じっと見つめた。
(……見つけたよ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
けれど同時に、妙な寂しさも感じた。
幼い自分は、どうしてこんな場所に大切なものを隠したのだろう。
◇
ペンダントを持って母の部屋を訪れると、イザベラは驚いたように目を見開いた。
「まあ……それ、見つかったのね」
「うん。昔の部屋の机に隠してあったの」
ヴィオレッタが差し出すと、イザベラは懐かしそうにロケットを手に取った。
「……本当に、久しぶりだわ」
「お母様、これって中に何か入ってるの?」
「ええ。開けてごらんなさい」
ヴィオレッタは小さな留め具に指をかけた。
少し固くなっていたが、ゆっくり力を加えると、かすかな音を立てて蓋が開いた。
中には、二枚の小さな肖像画が収められていた。
一枚は若い頃のイザベラ。
もう一枚は、幼いヴィオレッタ自身だった。
「……私と、お母様?」
「そうよ。あなたが『お母様と一緒がいい』と言うものだから、二人の絵を入れたの」
イザベラは小さく笑った。
「本当は私の肖像だけを入れるつもりだったのだけれど、あなたがどうしても譲らなくてね」
「……また我儘言ってたんだ」
「ええ。でも、あの時は少し嬉しかったわ」
ヴィオレッタはロケットの中を見つめた。
幼い自分の肖像画は、どこか得意げな表情をしている。
(……お母様と一緒にいたかったんだね)
そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。
「ねえ、お母様。私が八歳になる前、何か約束したことってあった?」
「……約束?」
「うん。手帳に、八歳になるのが怖いみたいなことが書いてあって……何か関係があるのかなって」
イザベラはしばらく考え込んだ。
「……そうね。約束というほど大げさなものではないけれど、一つ覚えていることがあるわ」
「どんなこと?」
「あなたが八歳になる少し前、私に『大きくなったら、お母様みたいになれる?』と聞いたの」
ヴィオレッタは目を丸くした。
「……私が?」
「ええ。私は『努力すれば、きっと素敵な淑女になれるわ』と答えたのだけれど……」
イザベラは少し寂しそうに微笑んだ。
「あなたは、あまり嬉しそうではなかったわ」
「……どうしてだろう」
「今なら、少し分かる気がするの」
イザベラはペンダントを見つめながら続けた。
「私は、あなたに立派な公爵令嬢になってほしかった。礼儀を身につけ、周囲を思いやり、責任ある振る舞いができる子になってほしいと願っていたわ」
「……うん」
「けれど、あの頃のあなたには、それが『今の自分では駄目だ』と言われているように聞こえていたのかもしれないわね」
ヴィオレッタは黙って耳を傾けた。
「あなたはよく、『お母様は、いい子の私が好きなの?』と尋ねていたの。私はそのたびに『もちろん、あなたが大好きよ』と答えていたけれど……」
イザベラは小さく息を吐いた。
「もっと違う伝え方があったのかもしれないわ」
「……お母様」
「だからといって、あなたの我儘を許してよかったわけではないのよ。ただ、叱る時に、あなた自身を否定しているわけではないと、もっと伝えてあげるべきだったのでしょうね」
ヴィオレッタは手の中のペンダントを見つめた。
幼い自分は、母に褒められたかった。
けれど、何度叱られても自分の何が悪いのか分からず、ただ「いい子にならなければ愛されなくなる」と思い込んでしまったのかもしれない。
「……お母様、ありがとう」
ヴィオレッタが小さく微笑むと、イザベラも優しく頷いた。
◇
その夜、ヴィオレッタは自室の机にペンダントを置き、青い手帳を開いた。
八歳の誕生日が近づいた頃のページを、もう一度読み返す。
『お母さまは、いい子のわたしがすきなのかな』
『わるい子だったら、きらいになるのかな』
『ペンダントを、しまった』
ヴィオレッタはロケットを手に取った。
(……もしかして)
幼い自分は、母とおそろいのペンダントを身につけることが、嬉しくて仕方なかったのだろう。
けれど、叱られるたびに、自分は母のようにはなれないと思うようになった。
そして、いつか母に嫌われるのではないかと怖くなり、ペンダントをしまってしまった。
(……そういうことだったのかな)
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
確かなことは分からない。
けれど、手帳の最後に書かれていた言葉が、少しだけ違って見えた。
『あした、わたしがわたしじゃなくなったら、どうしよう』
あの言葉は、未来を予知したものではない。
八歳になり、立派な公爵令嬢になることを求められた幼い自分が、今の自分を失ってしまうことを怖がっていたのだろう。
そう考えると、胸の奥が締めつけられた。
「……大丈夫だよ」
ヴィオレッタは誰にともなく呟いた。
「あなたが大切にしてたもの、ちゃんと残ってたよ」
その時、机の上の手鏡がかすかに揺れた。
ヴィオレッタが顔を上げると、鏡の中に幼い少女の姿が映っていた。
『……見つけたんだ』
「……うん」
ヴィオレッタはペンダントを持ち上げた。
「あなたの宝物、見つけたよ」
少女はじっとペンダントを見つめた。
その表情は嬉しそうにも、悲しそうにも見える。
『……中、見た?』
「うん。お母様と、私の絵が入ってた」
『……そっか』
少女は小さく俯いた。
『……お母さま、まだそれをつけてる?』
「うん。今日もつけてたよ」
その答えを聞いた瞬間、少女の目が大きく見開かれた。
『……ほんと?』
「本当だよ。ずっと大切にしてたみたい」
少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
『……よかった』
その声は、今にも泣き出しそうだった。
「……ねえ」
ヴィオレッタは鏡に向かって静かに話しかけた。
「どうして、これを隠したの?」
少女は答えなかった。
ただ、白いドレスの裾をぎゅっと握りしめている。
「お母様とおそろいで、あんなに大切にしてたのに……」
『……だって』
少女が小さく口を開いた。
『お母さまみたいになれないなら、持ってちゃだめだと思ったの』
ヴィオレッタは息を呑んだ。
『お母さまは、いつもきれいで、優しくて、みんなに好かれてる。でも、わたしは……』
少女は俯いたまま続けた。
『わたしは、みんなに怒られてばっかりだった』
「……うん」
『だから、八歳になったら、ちゃんといい子になろうって思ったの。でも……』
少女の声が震えた。
『いい子になったら、今のわたしはどうなるの?』
ヴィオレッタは何も言えなかった。
『わたしが好きなものも、嫌いなものも、全部なくなっちゃうの?』
鏡の中の少女が顔を上げる。
『お母さまは、わたしじゃない誰かの方が好きなの?』
ヴィオレッタはゆっくりと首を振った。
「……そんなことないよ」
『……どうして分かるの?』
「だって、お母様は今でもあなたのことを覚えてる。ペンダントのことも、昔のあなたのことも、ちゃんと大切に思ってるよ」
少女は何も言わなかった。
「それに、私だって……」
ヴィオレッタは少し迷ってから、静かに続けた。
「私だって、あなたのことを忘れたくない」
少女の瞳が揺れた。
『……ほんとに?』
「うん。あなたがいたから、今の私がいるんだと思う」
ヴィオレッタはペンダントをそっと握りしめた。
「昔の私がしたことは、間違ってた。でも、あなたが大切にしてた気持ちまで、なくしたくない」
少女はしばらくヴィオレッタを見つめていた。
やがて、小さく口を開く。
『……じゃあ、約束して』
「……約束?」
『わたしのこと、忘れないって』
ヴィオレッタは静かに頷いた。
「うん。約束する」
少女は少しだけ微笑んだ。
けれど、その表情にはまだ、どこか寂しさが残っていた。
『……でも、まだ一つだけ、聞きたいことがあるの』
「……何?」
少女はヴィオレッタをまっすぐ見つめた。
『……あなたは、わたしのことが好き?』
ヴィオレッタは言葉を失った。
その問いに、すぐには答えられなかった。
鏡の中の少女は、ただ静かに待っている。
ヴィオレッタは手の中のペンダントを見つめ、ゆっくりと息を吸った。
(……私は、昔の自分のことをどう思ってるんだろう)
答えは、まだ見つからなかった。




