第3話:轍の向こう側
洞窟の奥に置かれた革袋は、その腹を情けなく萎ませ、最後の一滴が絞り出されるのを待つばかりとなっていた。
一晩、二晩の略奪なら、運と闇に紛れてなんとかなるかもしれない。
けれど、アリスが生きていくためには、この先何度「幸運」を使い果たさなければならないのか。
彼は自分の煤けた指先を見つめ、それから安らかな寝息を立てる赤ん坊を見た。
彼女が目を覚ましたら、次は何を口に含ませればいい。
その答えが、どこにもなかった。
(……わだち。あの、わだち……)
グリムの脳裏に焼き付いていたのは、あの日、雨の中でアリスを拾った時に見た、深い土の溝だった。
魔獣に襲われ、すべてがバラバラになった馬車。
そこから森の奥へと必死に伸びていた、重い車輪の跡。
それは、絶望から逃げ出そうとした人々の、最後にして唯一の生の足跡だ。
その轍を逆に辿れば、この子が本来生きるはずだった道に、まだ触れられる気がした。
あるいは、彼女を育てるための具体的な「何か」が残っているのではないか。
根拠はなかった。
それでも、立ち止まれば終わる気がした。
「……アリス。……いっしょ。……はなさない」
グリムはアリスを一人、暗い洞窟に置き去りにはしなかった。
馬車の残骸から剥ぎ取った丈夫な帆布を使い、手際よく自分の胸元にアリスを固定する帯を作った。
亜人特有のしなやかなバネを秘めた彼の胸板に、アリスの小さな鼓動が直接重なる。
木々を潜り、斜面を滑り降り、あの日アリスを拾った街道の襲撃現場へと戻った。
そこにはまだ、無残に壊れた馬車の骨組みが、骸骨のように白く雨に晒されていた。
グリムはアリスを抱いたまま、その場に膝をつく。
辺りには鼻を衝く臭いが立ち込めていた。
けれどグリムの黄金の瞳が追っていたのは、死ではなく、かつてここにあったはずの温もりだった。
周囲を見渡し、ただ石を積むだけでは足りないことを知っていた。
この森では、人の痕跡が長く残ることはない。
何かが必ず見つけ出し、踏み潰していく。
(……かくさないと。……けさないと)
長い腕を使い、泥と岩が混じった硬い土を深く掘り返し始めた。
鋭い爪が剥がれ、指先から血が滲んでも、その手は休まない。
深く冷たい穴に彼らを横たえると、森の奥から集めてきた草と土を、層を作るように静かに敷き詰めた。
草は鼻を刺す臭いを放ち匂いを隠す。
グリムは、それらを重ねた。
さらにその上を、自分の体重ほどもありそうな重い岩で塞ぎ、周辺の蔦を絡ませ、枯れ葉を散らす。
仕上げに、馬車の木材の一部を削り、誰にも分からない岩の隙間に、小さな杭を一本だけ打ち込んだ。
「……アリス。……はは、ここに……ねてる。……もう、だれも、……こない」
掠れた声でそう呟き、彼は地面に向かって首を垂れる。
アリスは、彼の胸元をぎゅっと握り締める。
(……ありがとう。名前も知らないあなたが、ちゃんと守ってくれたんだ)
立派な墓標を立てる力はない。
けれど、その「隠す」という行為に込められた、この緑色の異形が持つ執念に近い配慮が、アリスの胸を熱く打った。
グリムは再び歩き出した。
馬車の残骸から伸びる轍を、一歩ずつ辿っていく。
かつて人や馬車が行き交っていた街道には、今や魔獣になぎ倒された巨木が転がり、道としての面影は薄れつつあった。
グリムは開けた道をそのまま進むような愚は犯さない。
彼は街道に並行する林を進み、木々の隙間から時折、轍の行方を確かめた。
倒木を越え、深いシダを掻き分けながら、音は立てない。
森は静まり返り、時折遠くで響く怪鳥の鳴き声が、アリスの耳に「ここは異世界なのだ」と突きつけてくる。
やがて視界が開けた先に現れたのは、蹂躙された開拓村の跡だった。
崩れ落ちた屋根、焼き払われた柵。
アリスは、彼の腕の隙間からその光景を眺めた。
前世の記憶にある穏やかな日常からは程遠い、純粋な暴力の跡。
生まれてまだ日も経たないアリスの目に、泥にまみれた小さな靴や壊れた食器が、ここにあったはずの暮らしを突きつけた。
彼は村の惨状に立ち止まるたびに、アリスの目を覆うようにして、遺体の上に瓦礫を崩し、土を被せていった。
瓦礫を被せながら進むうち、彼は何度も足を止めた。
胸に抱いた小さな体の重みが、来た時よりも強く残っている。
村の最奥、かつて村長か誰かが住んでいたであろう、比較的頑丈な石造りの納屋の跡へと彼は足を進めた。
轍はここで途切れている。
彼はそこで足を止め、鼻を利かせ、耳を澄ませた。
静まり返った村の中で、かすかな音がした。
(……いた)
彼の黄金の瞳が、僅かに細まった。
倒壊した床下、材木が複雑に重なり合い、偶然にも小さな隙間が生まれた場所に、白い毛の塊が動いていた。
彼はアリスを片手でしっかりと庇いながら、もう片方の長い腕を材木の隙間へと差し込む。
彼は太い梁に指を掛け、体重を預けるようにして、少しずつ脇へずらした。
そこにいたのは、極度の恐怖と飢えでガタガタと震え、角をどこかにぶつけて血を流している一頭の山羊だった。
彼は山羊を殺すことも、力ずくで引きずり出すこともしなかった。
不器用な、けれど穏やかな声音を出す。
「……しー。……おこるな。……おまえ、……ちち、……でるか?」
彼は山羊をなだめながら、その腹の下を食い入るように覗き込んだ。
アリスを救うには、メスであることはもちろん、乳が出る状態でなければ意味がない。
幸いなことに、山羊の腹の下には張りのある乳房があった。
腹の下に、まだ生の温かさが残っている。
「……めす。……でる。……よかった、アリス、……よかった」
張り詰めていた彼の表情が、その時初めて、わずかに緩んだ。
山羊は最初こそ警戒していたが、彼の瞳にある不思議な静けさに飲まれたのか、やがて彼に従うようになった。
だが、本当の困難はここからだった。
村から洞窟までの帰路は、行きよりも遥かに険しく、遠く感じられた。
胸にはアリスを抱き、片手にはいつ暴れだすか分からない山羊の引き綱を握る。
彼は街道を外れ、獣道さえ避けるように、急な斜面へと足を向けた。
人間よりもずっと低い姿勢を保ち、山羊の足音を殺すために腐葉土の深い場所を慎重に選んで歩く。
途中で、垂直に近い岩場を越えなければならない難所があった。
背を丸め、岩に張り付く。
指を割れ目にかけ、山羊の体を支えながら、一歩ずつ上へ。
足が滑るたび、剥き出しの指が土を掴む。
胸元で、彼の鼓動が乱れていた。
「……メェ……」
「……だめだ。……なくな。……くる。……あいつら」
彼は山羊の鼻面を優しく、けれど力強く抑えた。遠くで、枝が重々しく折れる音がしたのだ。
彼は巨木の根元にある洞穴に身を潜め、完全に息を殺した。
アリスもまた、彼の緊張が伝わったのか、声を出すことさえ忘れて彼の胸に顔を埋めた。
数分、あるいは数時間にも感じられた静寂。
やがて巨大な何かが地響きを立てて去っていくのを確認すると、彼は再び、一歩ずつ地を踏み締めて歩き出した。
空の色が変わるころ、ようやく見慣れた岩肌が見えてきた。
一頭の山羊を連れ、胸にアリスを抱いた彼が、ついに自分たちの「家」である洞窟へと辿り着く。
轍の先にあったのは、ただの戦利品じゃない。
この子が明日も、その次も生きていくためのものだった。
(……うん。この人と一緒なら、なんとかなる気がする)
洞窟に足を踏み入れた瞬間、彼は崩れるように膝をついた。
極限の疲労が彼を襲う。
けれど、その腕は最後までアリスを優しく、しっかりと抱きしめたままだった。




