幼なじみとの仁義なき戦い、先に折れるのはどっち?
柔く絡みつくような声と同時に、柔らかな重みが腕にのしかかる。思わず顔が熱くなりそうになるのを必死にこらえた。もう何度目かわからない、彼女の“攻撃”だ。
彼女は幼なじみであり、永遠の宿敵。名は禍覡。幼き頃より、とにかくこの男をからかうことのみを考えて生きてきた。初めてやられた日の屈辱は、今でも脳髄に焼き付いている。あの日、龍王は心に誓ったのだ。二度と彼女の罠には落ちるな、と。
それから十年以上。共に過ごした時間は数え切れないというのに、禍覡は決してからかう機会を逃さない。無論、龍王とて黙ってやられ続けてきたわけではない。数年をかけてあの『女心攻略大全』なる書を研究し、反撃の準備を整えてきたのだ。
目的は、彼女に恋をする事ではない。断じて。ただ、彼女の攻撃に対する、最も効果的な返し方を模索していたに過ぎない。
結果は?上々であった。初めて反撃で彼女を黙らせた時のあの爽快感は忘れ難く、それ以来ずっとこのスタイルを貫いている。
「ねえ~、龍王く~ん。」
未だに腕にしがみついたままだ。完全なる無視を決め込んでいる龍王に、禍覡が甘やかに呼びかける。さあ、ここで反撃の刻だ。
「おはよう、禍覡。」
名を呼ぶだけで、彼女はいつも顔を朱に染める。今回も例外ではなかった。うつむき加減で、唇を引き結ぶようにして笑みを浮かべる。必死に平静を装っているのが分かる。
「ふ~ん、その手で来たか。……ならば、此方も本気を出さねばな。」
そう言って、彼女は龍王の腕を離すと、今度はまるで恋人のように、そっと手を握ってきた。
あのような者が恋人など、想像の埒外だ。それは互いに理解している。だが……これは、参った。本当に、急所を突くのが巧い。
このままでは終われぬ。彼女の勝ち誇ったような微笑みが、龍王がうろたえるのを待ち、後日嘲笑おうとしているのがありありと見える。
「……成程、そう来たか。」
小さく呟き、龍王は握られた手に力を込め、指を絡めた、いわゆる“恋人繋ぎ”というやつに。禍覡の体躯が一瞬、ビクリと震えた。必死に保っていたはずの余裕の笑みが、ほんの刹那だけ消え去った。
直ぐに平静を装っていたが、結局二人はそのまま、指を絡めた状態で高校までの道程を歩み続けた。
周囲の生徒たちは、最早龍王と禍覡のこんな様子にはすっかり慣れたもので、まるで空気の如く自然に通り過ぎていく。そう、二人の関係の殆どは、こうした見え透いた張り合いで成立しているのだ。
前方より、楽し気に語らう三人組の女生徒が歩いてくる。その内の一人が二人に気付き、立ち止まって近づいてきた。
「禍覡ちゃん、おはよ~。……あら、まだやってるの?その宿敵ごっこ。いっそ付き合っちゃえば良いのに。」
「「有り得ぬ。」」
思わず声が揃った。しかも、かなり不機嫌そうな口調で。
「あのね、あの子が十歳の時に私にやった事、私は絶対に許せないんだから。」
勝手な言い分だ。彼女はそう言って、龍王の手を離すと、隣で腕を組んで仁王立ちする。
「言っておくが、最初に仕掛けたのは八歳の時のお前の方だ。俺は仕返しをした迄だ。」
言い返す。原因はお前の方である。そして、龍王が引き下がる理由など何処にもない。ましてや、隙を見せれば同様に仕返しされるのは目に見えている。
目の前の女生徒は大きな嘆息をつき、手を顔に当てて呆れた。
禍覡は彼女の方に駆け寄っていき、龍王は一時的に一人になった。
正直、安堵した。彼女から離れられた事が奇跡に思える程だ。
それに、もう直ぐ校舎だ。今は、これ以上戦を続ける必要もない。
下駄箱を開け、上履きを出そうとした時、中に一通の手紙が置いてあるのに気付いた。
便箋は淡く優しい桃色。丹念に封がされて……つまり、これは間違いなく、告白文であろう。
手紙は、誰の目にも触れないよう、そっと開いた。
【 突然の手紙、ごめんなさい。私のこと、知らないかもしれないし、覚えていないかもしれない。
でも、ずっと心に秘めてきたことを、どうしても伝えたくて。
よかったら、放課後、午後5時に屋上へ来てください。待っています。 】
その下には、差出人の名前。
『紅緒 由那』。
どうやら、この手紙の主らしい。
名前は聞いたことがある気がするけど、はっきりとは思い出せない。
結局、手紙はポケットにしまい込んだ。こんなのをもらうのは初めてで、正直、落ち着かない。
気持ちを切り替えて教室へ向かう。でも、頭の片隅では、あの手紙の主が誰なのか、ずっと考えていた。
一瞬、誰かの冗談かもしれないとも思った。でも、名前がちゃんと書いてあるし、聞き覚えがあるってことは、やっぱり本当なんだろう。
そんなことを考えているうちに、教室に着いた。
禍覡は、昔からずっと隣の席だ。俺たちの席は、窓際の一番後ろ。席替えのたびに、なぜか彼女は俺の隣を確保する。大抵は成功していて、今回もやっぱりそうだった。
新学期に席が隣になるたび、あいつは目をキラキラさせている。
無視して自分の席に向かおうとしたけど、彼女の視線が突き刺さる。さすがに無視はできなかった。
席に着くなり、禍覡は机に寄りかかって、顔を近づけてきた。サラサラの黒髪が揺れる。
満面の笑み。それが、すごく困る。嫌なわけじゃない。むしろ、あんまり可愛いから、心臓がうるさくなる。
だから、なるべく直視しないようにしてる。でも、やっぱりバレてた。
「えへへ~、龍王のことが、ちょっとだけわかってきた気がする~。」
甘ったるくて、ちょっとバカにしてるような笑い声。喉の奥がきゅっとなる。
ここで、さっきの手紙のことを聞いてみよう。
ポケットに手を入れたけど、ちょっと考えて、手紙は出さずに聞くことにした。
「なあ、禍覡……『紅緒 由那』って知ってる?」
「紅緒由那? なに、急に。知ってるけど、あんまり話したことはないかな。なんで? ……まさか、龍王——」
「なんだよ、嫉妬?」
それは完全に図星だった。禍覡は慌てて目をそらす。
「か、勘違いしないでよ! 誰が龍王なんかに嫉妬なんかするわけ……! ただ、その……!」
顔、真っ赤じゃん。言いかけたところで、始業のチャイムが鳴った。
禍覡は、顔を隠しながら自分の席に戻った。こんな顔、初めて見た。
それから、午前中の授業は、変な空気のまま終わった。二人とも、一言もしゃべらなかった。
禍覡は、昼休みになるまで、ずっとこっちを見ようとしなかった。
昼飯を買いに食堂へ行こうと立ち上がると、目の前に見覚えのある気配。顔を上げると、そこには禍覡が立っていた。表情は、さっきまでとは違って、完全にクールだった。
「で? 紅緒由那に、なんの用?」
「ちょっと聞いただけだ。放課後に屋上に来てほしいって頼まれて。誰にも言うなよ。」
「……そういうことか。わかった。言わない。」
禍覡の目は、まるで勝負に負けた奴の目だった。うつむいて、悲しそうな顔。
「……じゃあ、頑張ってね、龍王。応援してるから。」
今度は笑った。でも、なんか寂しそうな笑顔。
なんでだよ。なんで、そんな顔するんだよ。胸が痛い。
「禍覡ちゃーん! 一緒にご飯食べよう!」
廊下から、友達が呼んでる。
「あ、うん、今行く! じゃあね、龍王!」
「……ああ。またな。」
それから、昼休みも、午後の授業中も、俺たちは話さなかった。
時は過ぎ、ついに待ちに待った瞬間が訪れる。
* * *
屋上へ向かう途中。もうほとんどの生徒は下校していた。
禍覡は、授業が終わると同時に「大事な用事があるから」と言って、一番に教室を出て行った。
でも、あの時の笑顔……あれは、誰が見ても嘘だとわかるような、悲しい笑顔だった。
それはさておき、今、俺は屋上の扉の前に立っている。一度深呼吸をして、扉を開けた。
オレンジ色の空が、目に染みる。
そして、その向こうに、一人の少女が立っていた。
髪は短く、黒くてストレート。禍覡と同じだ。でも、体つきはもっと華奢だった。背を向けて、景色を眺めている。
扉の音に気づいたのか、彼女はゆっくりと振り返った。
想像していたより、ずっと可愛かった。透き通るような白い肌、大きなヘーゼルの瞳。一瞬、言葉を失った。
「来てくれたんですね……よかった。来ないかと思ってた。」
ほっとしたような、優しい声だった。
「女の子を長く待たせるわけにはいかないからな。」
彼女はすごく緊張しているみたいで、ゆっくりと近づいてきた。そして、1メートルほどの距離で立ち止まり、一度息を吸い込むと、覚悟を決めたように口を開いた。
「ずっと、一年生の頃から、長谷川くんのことを見てました。」
「長谷川くんは、落ち着いてて、頭も良くて……すごく、かっこいいです。」
「まだ、ちゃんと話せたわけじゃないけど……それでも、好きになりました。」
「長谷川くんが、好きです。よかったら、付き合ってください!」
そう言って、彼女は深く頭を下げた。
ついにこの日が来た。人生で初めて、女の子に告白される日が。
でも……なぜか、素直に嬉しいと思えなかった。受け入れられない自分がいた。
誰かの視線を感じて、扉の方を見る。ほんの少し、隙間が空いていた。
もう一度、息を吸う。彼女はまだ、頭を下げたまま、俺の返事を待っている。
「ごめん……その気持ちには、応えられない。」
「一年前だったら、わからなかったけど……今は、無理だ。」
彼女は、無理に笑顔を作った。強い子だ。
「理由……聞いてもいいですか?」
彼女が勇気を振り絞って言ってくれたことだ。ちゃんと、答えよう。
「好きな人がいるんだ。」
「ずっと一緒にいたヤツで、気づいたら好きになってた。面白いし、いろんなこと、一緒に乗り越えてきたし。」
「そんな風に、いつの間にか、好きになってた。」
「本当に……気持ちを伝えてくれて、ありがとう。俺に告白してくれた最初の女の子だ。」
「ううん……いいんです。私、遅かったんですね。」
「長谷川くん、幸せになってください。応援してます。」
彼女は、涙目のまま、笑顔を見せて去っていった。
そして……よかったこともある。初めて、認められた。
俺は、禍覡が好きだ。今、はっきりわかった。
「……これで、良かったんだよな。」
「まあいいや、そろそろ帰るか。」
扉をくぐると、そこには見慣れた顔が、大きな笑顔で立っていた。
まるで今朝の禍覡は消えて、いつもの禍覡が戻ってきたみたいだった。
彼女は、何も言わずに俺の手を取ると、指を絡めてきた。突然のことで、何も言えなかった。なんでここにいるのか、聞く暇すらなかった。
「今日だけね。今日だけ、龍王の彼女。」
「慰め。今日だけだから。」
すごく嬉しそうな顔をするから、もしかしたら何か聞いてたのかもな、と思った。でも、その笑顔を見てると、それでもいいか、って思えた。
「慰め、ね……わかった。ありがとな。」
二人は、同じ道を歩き出す。
いつか、言える日が来るかもしれない。
俺の気持ちも、ちゃんと。




