ただのモブなのに婚約破棄されたんですが!?
「今日この場で、君との婚約を破棄する!」
「そんな、殿下……! 私が一体なにをしたというのです!?」
「僕の愛する女性を傷つけた! それをなかったことにはさせないぞ!」
(――キタキタキター!)
美味しい食事に最高級のワイン。
煌びやかなドレスを身にまとった人々が集まるパーティー会場で、突如はじまった王太子からの婚約破棄。
それを受けたのは公爵令嬢は、ショックのあまり膝を折り項垂れる。
そんな公爵令嬢の前で、王太子の胸に抱かれニタリと笑うのは男爵令嬢だ。
王太子とその婚約者の破局。
国を揺るがすその出来事に人々が固唾を飲む中、たった一人伯爵令嬢のイヴだけは、楽しそうにその光景を見つめていた。
キラキラと瞳を輝かせ、頰を高揚させ拳を握りしめる。
その姿はまるで、劇を見る子どものようだ。
実際イヴは今、劇を見ている気分であった。
(ここ最近流行りの婚約破棄! 生で見たかったのよ……!)
隣国で起こったと言われる皇太子による婚約破棄。
親が決めただけの婚約者を捨て、真に愛する女性と結婚したというその逸話は、新聞に載ってこの国にまで届いた。
まさに物語!
女性が愛する夢のような話に、胸が弾まないわけがない。
そして今日、とある情報筋から王太子が婚約破棄を目論んでいると聞いたのだ。
(こんな最高の瞬間を、見ないわけにはいかないわ!)
彼らは主役なのだ。
王太子とその婚約者。
そして王太子から愛された男爵令嬢。
身分違いの恋に身を焦がすその姿こそ、まさに物語の主人公たちだろう。
煌びやかな彼らが羨ましい。
しょせん自分はモブでしかないのだ。
そこらへんにいる令嬢の一人でしかないのだから、少しだけ大きな物語のおこぼれをもらいたい。
胸がドキドキするこの感覚。
まさに一つの物語を身終えたような快感。
そのことにほぉ、と熱い吐息をこぼしたイヴは、隣にいる婚約者へと小さな声で話しかけた。
「ねえ、ユリウス。婚約破棄よ婚約破棄! 私ずっと見たかったのよ……!」
夢のような光景。
まさに最高の一幕に両手を祈るように握りしめ、感動を噛み締める。
きっとこんな場面は二度と拝めないだろう。
さあ、この後婚約破棄された令嬢はどんな反応をするのだろうか……!?
ワクワクしながら続きを見ようとした時だ。
「――ねえ、イヴ。…………僕らも婚約破棄しよう」
「……………………………………………………ん?」
たっぷり十秒は間が空いたと思う。
それくらいイヴには、ユリウスの言葉が信じられなかったのだ。
今、ユリウスはなにを言った?
「ずっと考えていたんだ。……君には、僕よりも相応しい人がいるんじゃないかって」
「………………んん?」
己の身になにが起きたのか全くもってわからない。
だってそれは、主人公が受けるべき試練だ。
イヴは残念ながら主人公ではない。
脇役令嬢が関の山である。
それなのになんだこれは?
なぜ今己の身に、【婚約破棄】なんて大事件が起きているのだろうか?
「君のしあわせを祈ってる。……さようなら」
泣きそうな顔で去っていくユリウスの背中を、イヴは呆然と眺めた。
なんで婚約破棄を申し出た側のユリウスが、一番傷ついた顔をしているのだろうか?
なぜ今この時に言ってくるの?
どうして事前に相談とかしてこないの?
そんなどうして? なぜ? が頭の中をくるくると回る。
だがまあとにかく、なにが一番言いたいかというと……。
「なんで私が婚約破棄されてるのよ――!?」
その一言であった。
「イヴ、大丈夫だったの!?」
「騒ぎになっていたよ。王太子殿下が婚約破棄をされたと……」
「それに乗じてお姉様まで婚約破棄したって聞いたわよ!?」
主人公に必要な要素の一つに、逆境に負けない強い精神があるだろう。
意地悪な継母。
わがまま放題の姉妹。
家族を顧みない父親。
そんなつらい人生を逆転させるからこそ、物語は面白いのだ。
だというのにイヴにはそれがなに一つない。
両親はラブラブで娘たちに甘く、妹は少し生意気だけれどたいそう可愛い。
ほら。
イヴに主人公となるべき素質など皆無なのだ。
だというのに、なぜこうなったのだろうか?
「私自身もなにがなんだか……」
「ユリウス兄様と喧嘩でもしたの?」
「婚約してこのかた、喧嘩なんてしたことないわ」
とてといい友好関係を築けていたはずである。
少なくともイヴにとってユリウスは、破格の婚約相手である。
顔よし性格よし家柄よし。
ただのモブである自分には、むしろ素晴らしすぎる相手なのだ。
だからこそ喧嘩なんてするはずがない。
「ユリウスが私に不満を持っていたとしか……」
「だがこの婚約はあちらからぜひにとの話だったのだよ? それをこんな急に……」
「ユリウス兄様、お姉様のこととっても大切にしていたのに……」
妹の言うとおりだ。
大切にされていた自覚はある。
たぶん愛されてもいたはずだ。
だというのに急に婚約破棄なんてどうしたのだろうか?
顎に手を当て考えるイヴは、不意に新聞の記事を思い出す。
隣国の皇太子も、真に愛した人を見つけ婚約破棄をした。
この国の王太子もだ。
婚約破棄をする男はみな、真実の愛を見つけたからと口にする。
つまりそれは……。
「――ユリウスも、私以外に愛する人を見つけた……?」
そうだ。
そうに違いない。
婚約破棄の相場はそうと決まっているのだ。
つまりイヴは婚約者を、どこぞの女に奪われたということになる。
真実の愛を見つけたとかなんとか口にして。
そんなの――。
「そんなの許せるかぁぁぁっ!」
テーブルを強く叩きつけたイヴは、ぶるぶると震える手を握りしめる。
その瞳は怒りに燃えていた。
「ただの浮気のくせに、なに真実の愛とか意味わからないこと言って正当化しようとしてんのよ!」
バンバンと怒りに任せてテーブルを叩くイヴの怒りは収まることはない。
むしろ言葉にすればするほど、怒りは膨れ上がっていた。
「だいたい婚約ってのは当人同士の問題じゃないのに、大勢の前で宣言するとか意味わからない! 熱にうなされて、よそで盛り上がってんじゃないわよ!」
許すまじ婚約破棄。
ユリウスがほかの女にうつつを抜かしているというのなら、その尻を引っ叩いてでも目を醒させてやる。
真実の愛なんてもの、妄想の中でしか存在しない。
というか人を傷つけておいて当人たちはハッピーエンドとかどんな冗談だ。
「ユリウスに話をつけてくるわ」
「お姉様……。あんなに婚約破棄見たがっていたのに」
「自分の身に起こるとこんなに理不尽なんだって驚いたわ。それと同時に怒りしか湧いてこない。こんなことした奴らは痛い目に遭えばいいのよ」
今回婚約破棄をされたであろう公爵令嬢に、心の中で謝罪する。
面白かってごめんなさい。
こんなに腹立たしいとは思わなかったのだ。
「とにかく明日ユリウスに会ってくるわ! 言われっぱなしで許してやるものですか!」
絶対に許さない。
ユリウスもその相手も、引っ叩かないと怒りが収まらない。
そうと決めたイヴは、部屋で一人ビンタの素振りをするのだった――。
「申し訳ございません。ユリウス様はただ今外出中でございます」
「……そう」
出鼻をくじかれた。
鼻息荒くやってきたというのに、とうのユリウスが家にいないなんて。
とぼとぼと侯爵家から帰ろうとしたが、そんなイヴの前に一人の令嬢が現れた。
「あれ、イヴさん? どうしたんですか?」
「ヘレナ!」
ヘレナはユリウスとイヴの共通の友人だ。
二つ年下ゆえか、妹のように可愛がっている。
そんなヘレナに駆け寄ったイヴは、彼女を力強く抱きしめた。
「元気? 風邪とか怪我とかしてない?」
「はい、大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
にこにこと微笑むヘレナのなんと可愛らしいことか。
彼女の頭を撫でつつ、イヴは心が落ち着いていくのを感じる。
癒し効果が高い。
このままふわふわとした気分でいたいなんて思ったが、すぐにここにきた目的を思い出した。
「――そうだ! ヘレナ。ユリウスの浮気相手を知らない?」
「――……ユリウスさんの浮気相手? ……えっと?」
妹のように接しているヘレナなら、なにか知っているのではと思った。
しかしきょとんと小首をかしげるヘレナは、どうやらなにも知らないようだ。
「私、ユリウスから婚約破棄されたの」
「…………へ!? 婚約破棄って、あの!?」
「そうよ! あの婚約破棄よ!」
もちろんヘレナも新聞を読んで知っているのだろう。
あの婚約破棄が己の身に起きるなんて、いまだに信じられない。
「婚約破棄には浮気相手がつきものでしょう!? だからその泥棒猫をひっ捕えてやろうと思ってるのよ!」
メラメラと復讐心を燃やすイヴの隣で、ヘレナはなにやら考え込んでいる。
もしかしてなにか知っているのかと期待を込めて見ていると、そんなイヴに気づいたのかヘレナは慌てて両手を振った。
「ごめんなさい。イヴさんの期待に応えられることはなにも知らなくて……」
「……そう。それなら仕方ないわね」
ヘレナも知らないとなると、ユリウスの相手はよほど身を隠すのが上手いのだろう。
実際一番そばにいたであろうイヴが、その影すら見つけられなかったのだ。
手強い相手だと唇を噛み締めていると、でも……とヘレナが口を開いた。
「そういえばユリウスさんこの間会った時変でした。なんだか思い悩んでいるような……」
「――それよ! その時なにか話さなかった?」
「えっと……」
ヘレナはなにやら言いにくそうにしたが、イヴの期待の眼差しに負けたのかおずおずと口を開いた。
「なにを悩んでいるのか聞いても答えてはくださらなくて……。だから私、イヴさんに相談したらどうですか? って聞いたんです。そうしたら……イヴさんにだけは相談できないって」
「――そ、そう……」
別に傷ついてなんていない。
イヴはなんでもユリウスに相談していたし、ユリウスもそうなのだと思っていた。
でもそうじゃなかった。
それだけのことだ。
「ふーん……。それで、結局聞いてはいないのね?」
「はい。……すみません。お役に立てなくて」
「そんなことないわ! じゅうぶんよ、ありがとう」
イヴに話せないこと。
それすなわち浮気相手のことだ。
そうに違いない。
沸々と腹の底が熱くなるのを感じて、イヴはくるりと踵を返した。
改めて侯爵家の使用人の元へ行くと、彼を力強く睨みつける。
「ユリウスはどこに行ったの?」
「わかりかねます」
「どこに行ったの? 言わないとここから離れないわよ」
「…………わかりかねます」
「あっそ。じゃあここで待たせてもらうわ」
そう言って座り込もうとするイヴを慌てて止めた使用人は、渋々といった様子で口を開いた。
「誰かとお会いするため街に向かうとおっしゃっておられました。それ以外は本当にわかりません」
「――誰かと会う?」
そんなもの浮気相手以外の誰でもないだろう。
やはり予想は的中したのだ。
そしてまさか……と眉間に深く皺を刻んだ。
「まさか……。私とよく行ったお気に入りのカフェにいるんじゃないでしょうねぇ――!?」
デートの時は決まってそこでおしゃべりをした。
テラスで飲む紅茶とケーキが美味しくて、二人で日が暮れるまで語らったものだ。
その時のことを思い出すと、少しだけ心臓が痛む。
思わず胸のところを押さえていると、それを見ていたヘレナが両手を強く握りしめた。
「イヴさん! ユリウスさんに会いに行きましょう! 探すのお手伝いします!」
「――ありがとう、ヘレナ! 一緒に浮気野郎をぶっ倒すわよ!」
そうと決まればさあ行こうと、ヘレナの手を掴んで馬車に乗り込んだ。
向かう場所はもちろんお気に入りのカフェである。
正直な話をすればあそこにいて欲しくない。
あそこには二人のしあわせな思い出がたくさんあるからだ。
だからそれを、上書きなんてして欲しくない。
心の中ではそんなことを思いながらも、頭の中ではあそこにいるだろうなと確信めいたことを思っていた。
決して器用ではないユリウスのことだ。
人と会うとなると、きっとあそこを使うはず。
そしてその予感は、残念ながら当たったのである。
お気に入りのカフェ。
紅茶と甘い香りが漂う落ち着いた雰囲気の店のテラスに、ユリウスはいた。
――見知らぬ女性と共に。
「そんな……! ユリウスさん、本当に……?」
ヘレナの声を聞きながらも、イヴはふーんと鼻を鳴らした。
そうかそうか。
やはり予想通りか。
イヴとの思い出の場所で、浮気相手と逢瀬を楽しんでいたのだ。
楽しそうに笑うユリウスの顔に胸がズキズキと痛む。
その顔はイヴの前だけでしていたのに、今はほかの人に向けている。
女性の顔は見えないが、格好からしていいところの令嬢だろう。
その女と新しく婚約するつもりなのだろうか?
きっとイヴよりも美しくて、優しくて、できた女性なのだろう。
あのユリウスが恋した人だ。
きっと誰よりもできた、最高の女性のはずだ。
「――まあ、知ったこっちゃないんだけどね」
だからなんだ。
イヴを捨てたことに変わりはない。
ならあの整いすぎて腹すら立たなかった顔に、一撃喰らわせてもいいはずだ。
「――イヴさん!? なにするつもりですか!?」
「ちょっとぶん殴ってくるわ」
止めようとするヘレナを無視して、イヴはずんずんと進んでいく。
そしてユリウスと浮気相手の元まで向かうと、テーブルを力強く叩いた。
「その人が運命の恋人なわけ?」
「――え、え? イヴ!? なんでここに……!」
驚きに目を見開くユリウスの顔を見ていると、なんだか胸に込み上げてくるものがある。
ユリウスから婚約の申し出があった時、部屋で一人小躍りして喜んだのに。
はじめてこのカフェでデートした時、彼がなにを頼んだか覚えてる。
手を繋いだ時も、キスをした時も、全部全部、覚えているのに――。
彼はほかの人を、愛したんだ。
「――この……浮気者っ!」
叫ぶと一緒に大粒の涙が一粒、地面へと落ちた。
「相談してくれればよかったのに! 勝手に決めて……、私の気持ちなんて考えてもくれないのねっ!」
「ちょっと待って。いったいなにを言って――」
「わ、私だけ……今でもずっと好きで――馬鹿みたいじゃない!」
とにかく悔しかった。
胸が痛くて痛くて、ユリウスの顔をこれ以上見ていられない。
本当はぶん殴ってやろうと思っていたのに。
「ユリウスなんて大っ嫌い! 浮気者の最低男ーっ!」
「イヴ!?」
「イヴさん!? 待ってください!」
それだけ叫ぶと、イヴは走り去る。
言いたいことは言ってやった。
だからもうこれ以上あの場にいたくない。
後ろからヘレナが追いかけてくれているのはわかっていたが、足を止めることはできなかった。
走って走って走って。
息が切れて動けなくなってから、やっと止まった。
「はぁ……はぁ……っ――本当に、馬鹿みたい」
これだけのことになったのに、まだ心はユリウスを求めている。
愛は片方だけにあってもなんの意味もないというのに。
「……イヴさん」
「――ヘレナ! ……ごめんなさい。今は一人にしてちょうだい」
「でも……」
「大丈夫、そのうちこんな涙すぐにおさまるわ。そうしたら今度こそユリウスをぶん殴って、こっちから婚約破棄を宣言してやるんだから!」
こんな泣き腫らした顔をヘレナに見せたくない。
心配をかけたくないのだ。
だからこそ背中を向けたままそう伝えれば、ヘレナは小さく息を呑んだ。
――そして。
「――ふふっ……」
「…………え?」
なにやら笑い声が聞こえた気がして、イヴは振り返った。
ヘレナの顔は逆光に邪魔されて、三日月のように弧を描く口元しか見えない。
――どうして、ヘレナは笑っているの?
くすくすとヘレナの楽しそうな声が鼓膜を震わせた。
「――バッカじゃないの! あなた騙されてるのよ? あーおっかしい!」
なにが、起こっているんだ?
ヘレナはその場でお腹を抱えて、イヴに向かって指をさす。
「単純馬鹿なおかげで簡単に操れたわ。勝手に自滅してくれて本当にありがとう!」
「ヘレナ……? なにを言って……」
「気づかなかったでしょう? 私、ずーっとユリウスのことが好きだったのよ」
「……え?」
ヘレナがユリウスのことを好き?
そんなこと、想像もしなかった。
だってずっと応援してくれていたのだ。
イヴとユリウスのことを――。
「おかげであなたとユリウスは婚約破棄。さっきの出来事でユリウスとの仲も完全に終わったわね?」
「――もしかしてヘレナ……あなたがなにかしたの……?」
「だからそう言ってるじゃない! 勘の悪い女。……あとは私が傷心しているユリウスを慰めてあげるの」
両手を祈るように握りしめたヘレナは、とろりとした瞳を煌めかせる。
頰は赤く色づき、熱いため息をこぼす。
「そうすればユリウスは私を好きになるはずよ。邪魔なイヴを捨てて、私と結婚してくれるの。子どもは二人は欲しいわね。どちらも男の子でユリウスに似てとても可愛いのよ」
「え? いや、そんなことを聞いたいんじゃなくて……」
イヴが止めようとしたが無駄だった。
ヘレナは妄想の中に取り込まれたのか、口が止まることはない。
「子どもたちはママである私のことが大好きで、そんな子どもにユリウスは嫉妬するの。僕の妻だぞ! なんて叱ってね? 私をギュッと抱きしめてくれるの。夜も絶対同じベッドで、ずっと離してくれないの。それくらいユリウスは私のことを愛して――」
「――そんなわけないだろう……?」
恍惚とした表情でそんな妄想を口にしていた時だ。
ヘレナの後ろに、息を切らせたユリウスがやってきた。
どうやら走ってきたらしい。
彼はヘレナの妄想を聞いたからか、顔面蒼白で口を開いた。
「君を好きになる? ……なに言ってるの? イヴが可愛がっていたから、一緒にいただけだ」
ユリウスはドン引きしていた。
「君を女性として見たことはないし、これからもない。……頼むからその気味の悪い想像を口にしないでくれ」
ユリウスはそうきっぱりヘレナにうたえると、今度はイヴと向き合った。
「僕はイヴ以外と結婚する気なんてないよ」
「――はぁ? じゃあさっきの女はなんだったのよ! というかそれならなんで婚約破棄なんて……!」
「そこが……たぶんヘレナに騙されてたんだろうね」
「騙されてた……?」
そういえば先ほどヘレナもそう言っていた。
だがイヴには全く覚えがない。
眉間に皺を寄せたイヴに、ユリウスは説明してくれる。
「二ヶ月ほど前に侯爵家主催のパーティーがあっただろう? あの時、君は部屋で男性に会っていたはずだ」
「男性……?」
記憶を探ってみる。
確かに侯爵家主催のパーティーには行った。
そこでユリウスは用事があると離れたため、同じく参加していたヘレナと楽しくおしゃべりをしていたのだ。
「――あ」
「思い出したかい?」
「でもあれは、ヘレナのいとこだって! それにヘレナもずっと部屋に――」
と、そこまで言って思い出す。
確かに男性と会い、ヘレナが人酔いをしたとのことで三人で部屋に行った。
しばらくはそこで話をしていたが……。
「ヘレナ、気持ち悪いってお手洗いに……」
そうだ。
ほんの少しの間、ヘレナは部屋を出て行った。
その時のことを思い出して、イヴは口元を覆う。
もしかしてあの時――。
「――その時、僕はヘレナに案内されて君のいる部屋に行ったんだ。イヴが本当に好きなのは彼なのだ。親の命令でしかたなく僕と婚約している、と」
「そんなわけないじゃない! 私は――」
言い返そうとしてはた、と口の動きを止めた。
だから【騙された】なのか。
どうやらヘレナの手のひらの上で泳がされていたようだ。
そしてイヴはヘレナを信じていたとはいえ、ほんの少しの時間でも密室で異性と共にいた。
その行い自体は本当なのだから、言い訳なんてできない。
「――……なるほどね。それで勘違いして婚約破棄なんてしたわけね。……でもそれなら聞いてくれてもよかったじゃない。他に好きな人がいるのか、って」
イヴのその言葉に、ユリウスは悲しげに微笑む。
「聞けるわけないじゃないか。君の口からほかに好きな人がいる、なんて言われたら……。想像するだけで頭がおかしくなりそうだよ」
「……ユリウス」
確かにそのとおりだ。
イヴだってユリウスの口からそんなこと聞きたくない。
彼のその気持ちもわかる。
もちろん婚約破棄なんて大胆なことをするくらいなら、直接聞くほうに勇気を傾けて欲しかったが、こればかりは致し方ない。
「それじゃあさっき一緒にいた女の人は……?」
「叔母だよ。僕が結婚しないとなると、侯爵家を継ぐ人間を見つけないといけない。だから叔母の息子をどうかと、話をしていたんだよ。……こんな話侯爵家ではできないから、あそこを使ったんだ」
確かにあそこなら人目もあるため、異性と二人でいても大丈夫だ。
なるほどそんな理由だったのかと、イヴは肩から力を抜いた。
「……私たち、お互いのことたくさん話してるつもりだったけど、本当に【つもり】だったのね」
「…………イヴ。本当に好きな人はいないのかい?」
この後に及んでなにを聞くのだと、イヴは眉間に皺を寄せた。
「いるわよ。好きな人なら今目の前に! この私が好きでもない人と婚約なんてするわけないでしょう!」
「――……そっか。うん、そうだね。僕もイヴが好きだよ」
むっつりとほおを膨らませるイヴ。
その前で嬉しそうに笑うユリウス。
結局ただのすれ違いだったわけだが、これで仲直りはできたらしい。
まあ言いたいことはたくさんあるけれど、一番聞きたかった言葉が聞けたので一旦よしとしよう。
なので残った問題はもちろん、ヘレナだ。
ユリウスにしっかりと拒絶されたヘレナは、その場に呆然と立ち尽くしている。
あの言葉だけでもある意味制裁にはなったのだろうが、もちろんイヴは許すつもりはない。
ヘレナの前に立つとにっこりと微笑んだ。
「グーとパー。どっちがいい?」
「――な、あなた令嬢のくせに人を殴るつもり!? ユリウス! こんな女があなたの妻になるのよ!? それでいいの!?」
慌てるヘレナに、ユリウスは簡単に頷いた。
「イヴだし。聞かれてるだけ優しいよ? 懐かしいなぁ。昔ほかの女の子から告白された時は、往復ビンタされたなぁ……」
「なんでちょっと嬉しそうなの!?」
懐かしさを噛み締めているユリウスは一旦置いておいて、イヴは右手をグーに、左手をパーにした。
「はい時間切れ。ユリウスの分はパーで、私の分はグーで制裁させてもらうわね? はい、舌噛まないように歯を食いしばって」
「ちょっと待って!? 二発なんて聞いてない!」
「一発だなんて言ってないわ。はいいきまーす」
「ちょっとま――ぐぇっ!」
ビンタしたあとすかさずグーで頬をぶん殴ってやった。
ヘレナの体が綺麗に一回転して地面へと突っ伏したのを見て、イヴはふんっと鼻を鳴らす。
「これに懲りたら人を貶めようなんてするんじゃないわよ」
はあ、スッキリした。
いいパンチを喰らわせることができたのではないだろうか?
完全に伸びているヘレナをつついていると、ユリウスがくすりと笑った。
「……それにしてもヘレナのせいだったなんて思わなかった。……ごめんね、婚約破棄なんて言って」
「……いいけど。でもこのままにするつもり?」
イヴとユリウスの婚約破棄の話は、すぐに広まってしまうだろう。
好き同士なのに、こんなことで別れなくてはならないのだろうか?
そんなの嫌だと唇をへの字に曲げていると、そんなイヴの手をユリウスがとる。
優しくて温かい、大好きな手だ。
「もちろんこのままになんてしないよ。――でも婚約破棄してしまったのは事実だから、今さらまた婚約はできない」
「――……そう」
それはつまりこれで終わりということか。
なんだ、結局離れ離れになるのは確定しているようだ。
こんなことなら婚約破棄を見たいなんて思わなければよかった。
最低最悪な出来事だ。
二度と誰かの身に起こるな。
なんて涙がこぼれそうになるのを必死に耐えていると、ユリウスはそんなイヴの頰に優しく触れた。
「だからイヴ。――僕と結婚してください」
「――……はぇ? 結婚……?」
「うん。婚約できないなら、その上の結婚したら全部解決するんじゃないかなって」
「結婚…………結婚!? え!?」
それはつまり婚約のその先に進めるということか?
お別れしなくていいと、そういうことだろうか……?
「――私と、結婚してくれるの……?」
「もちろん! 君がいいんだ。……君じゃなきゃいやだ」
「――っ!」
気づいた時にはイヴはユリウスの胸の中にいた。
彼のぬくもりに包まれながら、涙を流して頷く。
「もちろん! 私も、ユリウスじゃないといやよ!」
「じゃあ……結婚してくれますか?」
もう少しこの胸にいたいけれど、ここはちゃんと返事をするところだろう。
イヴは彼から離れると、あふれ続ける涙を拭った。
今だけは、最高の笑顔でいたいからだ。
「――はい。……よろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
こうして、イヴはまさかの婚約破棄を経て、最高の結婚をすることになった。
そんないろいろ学んだイヴの口癖はたった一つ。
「婚約破棄はクソよ」
であった。
完




