足の爪
あなたは、考えたことはありますか。足の爪の先端にある白っぽい部分――爪甲遊離縁と呼ぶらしいですが――が、手の爪のそれより、黄色く見える理由を。
これを聞いて自分の足の爪を確かめようと思いましたか? ちょっとお待ちください。せめてこれを読み終えるまでは、足の爪を見ないようにしていただきたいのです。なぜって、私も他人の爪をまじまじと見たことはないものですから、ひょっとすると、多くの人は足の爪先も手の爪先と同じように白いのかもしれない。しかし、それならば、今から話すことはまったく意味のないことになってしまうのです。だから、事実どうであるかは脇に置いておき、あなたには、足の爪先が手の爪先より黄色いのだという世界線を共有して、私の話を聞いていただきたいのでございます。
私が今から述べる話というのは、足の爪先が黄色いことに関する一つの仮説です。あなたはこれを、荒唐無稽であると受け止めるやもしれません。しかし、それは甚だナンセンスだと言っておきたい。
まず、足と手の指先には、それぞれ世界があります。荘子も蝸牛の角上に国家があると言っていましたから、指先に世界があったって何も変ではありません。で、その世界には、人間が住んでいます。老若男女、さまざまな人間がいるのです。ただ、彼らが暮らしているのは、爪以外の部分でございまして、では爪はなんなのかと申しますと、それは、死んだ人間です。死屍累々、人々の死体が積み重なって、爪になっている。
前からある死体はだんだん、新たな死体に押し出されて、先端に出てくる。あまり良くないたとえですが、プッシャーゲームを想像していただきたいところです。押されて出てくるのがコインなどではなく死体というのが、なんとも……失礼、そういうものが苦手という方は、イメージしていただかなくて結構です。
その要領で爪の下の皮膚――爪床といいます――に接しなくなった死体が、爪甲遊離縁ということになります。われわれが爪切りで切っているのは、最も古い死体です。ずっと前に亡くなり、もう完全に朽ち果てた死体です。
さて、足の爪先が黄色い理由です。あなたには、手と足の指先それぞれに、世界を想定していただきましたが、そうです、手と足とでは、世界が少しだけ違うのです。何が違うのか。手の指先の世界に住む人間は、足の人間よりも、はたらきものなのです。
はたらく人間と、はたらかない人間。これ以上強調しますとこの話が何から着想を得たのかわかってしまうのでこれくらいでやめにしておきますが、つまり、手の指先の世界に住む人間は、よくはたらいて、早死にします。早死にするので、死体はどんどん溜まる(よくはたらくというのは、何も仕事に限ったことではありません。子育てもです。だから、その世界で人間が減ることを心配する必要はありません)。対して比較的はたらかない、足の指先の世界に住む人間は、長生きします。そうすると、死体はゆっくり溜まる。
お気づきでしょう。この理屈でいけば、足の爪先をなす死体はゆっくり押し出されてきたのですから、手の爪先のそれよりも古いことになります。古い死体であればあるほど、より腐敗は進行するので、当然、色は褪せている。
かくして、足の爪先は黄色くなるのでございます。
われながら、良い仮説です。すんなり納得できる。あなたも、お子さんに尋ねられたさいには、ぜひこの仮説を教えてあげてください。目から鱗が落ちる気分を味わわせてあげるのは、子供の教育上良いことです。
それにしても、手の指先で、よくはたらいて早く死ぬのと、足の指先で、比較的はたらかず長く生きるのと。人間にとって幸せなのはどちらでしょうか。いいえ、私はなにかしらの結論を出そうとは思っておりません。どちらの生き方を選ぶかは、人それぞれでございます。
手と足の指先に住む人間に、選択肢はありませんが。