06 認定の光
「マリー・ティンダル様。こちらに」
心配そうなオーガスがこちらを見ている中で、マリーはゆっくりと彼の所へと足を進める。
赤い絨毯の上に置かれたガラスの台。その上には、前世でも見たことがあるあの石版が恭しく置かれている。
ぎゅっと心臓のあたりに鈍い痛みを覚え、マリーはそれを表情に出さないように、口をぎゅっと引き結んだ。
表情がこわばっていても、きっと周囲にはひどく緊張しているとしか捉えられないかもしれないが。
「こちらに手を触れてください。【星の光】が宿ったことが本当であればこの石版は光り輝くことでしょう。そうでなければ、反応することはありません。ああ、辞退することも可能でございます」
張り詰めた空気の中で、神殿長は柔らかく言葉を紡いでゆく。
この場での辞退を勧めるということは、マリーとオーガスが結果を偽っていると言外に言っているようなものだ。
(私がここで辞退をしたら、どうなるのかしら)
別に聖女になりたいというわけではない。前世では嫌悪までした存在だ。
ただ、あのときたくさん泣いて喜んでくれていたキャロルたち家族や、マリーに【星の光】が出現したと聞いて驚きつつも出立を見守ってくれた自分の家族、それに笑顔で見送ってくれた領民たちのことを思うと、どうしても辞退するとは言えなかった。
前世、懸命に調べた聖女に関する記述が、頭の中を駆け巡る。
『聖女は、女神アストリアの力を地上で行使するために選ばれた存在であり、信仰の中心に位置している。聖女は人々を守るだけでなく、国を導く重要な役目を果たす』
『聖女の力はアストリアからの加護であり、浄化や癒し、結界の形成などを可能とする』
書物にはそう記されていた。
そして、聖女の最重要な使命は、世界に溢れる【瘴気】を浄化し、平和を保つことにある。瘴気は人々の負の感情や破壊された自然から生じる邪悪なエネルギーであり、放置すると世界を蝕むのだそうだ。
考えたくはないが、こうしてマリーの身に聖女の力が宿ったということは――この国に、マリーの愛する領地や家族に危険が及ぶ可能性だってあるのだ。
「私は問題ありません。始めさせていただきますね」
決意したマリーは、石版に向かって一歩踏み出した。
口角を上げ、目尻を下げて、マリーの一番の屈託のない笑顔をつくる。
(やらなければならないというのならば、私は家族を守りたい)
マリーに、マリエッタに初めて家族の温かさを感じさせてくれた、今世の家族を守るためにこの力を捧げる。決して国のためではない、私のために。
輝く絹の上に置かれた大きな石版は、古い時代の意匠が施された重厚なもので、長い年月を経て薄く光を帯びていた。
(これが……あの時の)
マリーは無意識に息を呑んだ。
石版を覆う文字や文様は、星神アストリアの加護を象徴するとされる古代文字だという。それは今にも動き出しそうなほど繊細で、どこか息づいているかのように見える。
「恐れることはありません。手をかざせば、聖女の力があれば光が現れるでしょう。さあどうぞ」
足を止めてしまったマリーを、神殿長が静かに促す。その目には未だ疑いの色が色濃く見える。
「大丈夫です。続けます」
一度深呼吸をしたマリーの指先が石版へと近づくと、空気がわずかに揺れたように感じた。
部屋にいる者たちの視線が一斉に集中する中、マリーの心臓は早鐘を打つ。
緊張で手が震えるのを抑えながら、それでもマリーはゆっくりと手を伸ばした。
「っ!」
指先が石版の表面に触れた瞬間、冷たさとともに微かな波動が伝わってきた。
石版がぼんやりと光を放ち始め、最初は微かなものだったその光が次第に明るさを増していき、部屋全体を満たすかのように広がる。
マリーは自分の手のひらに温かく柔らかな力を確かに感じた。
「これは……!」
神殿長を始め、周囲の神官やこの場に控えている者たちがみな驚きと感嘆の声を漏らした。
「まさか、本当に……?」
「眉唾ものではなかったのか」
石版の文様がひとりでに輝き出し、柔らかな黄金の光が文字を浮かび上がらせていく。まるでマリーを歓迎するかのように、石版が応じているようだった。
「間違いありません……星神の力を宿す、真の聖女です。マリー様、先程までのご無礼をお許しください」
神殿長が震える声でそう断言すると、その場の空気が一変した。
「なんということだ」
「しかし……先代からあまりにも早いのでは」
「だが、石版は星の光にしか反応せぬ」
畏敬と感動が入り混じるようなささやきが流れる中、マリーはただ自分の手元を見つめた。
「これが……聖女の力……」
本当に、あったんだ。
マリーの胸の奥から、じわりと湧き上がる感覚。それは喜びでもあり、不安でもあった。
「マリー様、さすがでございます! あの時と同じ、神々しい光でございました」
「オーガス様、ありがとうございます」
弾かれたようにして、オーガスがマリーの元に駆け寄ってくる。
「マリー様の奇跡のお力は、コーディくんが生きていることが全てなのですから。ああ、本当によかったです」
緊張していたのか彼の唇は白く、そしてその瞳は潤んでいた。
この場でマリーの力のことを信じていたのは、このオーガスだけだっただろう。きっとハラハラしたはずだ。
彼の安心した笑顔に釣られるようにして、マリーもようやく肩の力を抜いた。
「マリー・ティンダル」
低く冷たい声が、マリーを呼ぶ。ヴィンセントだ。
「神殿長の言葉のとおり、貴殿を確かに聖女として認めよう。それなりの待遇を用意はするが、必要以上の贅沢は認めない。それが国を救う力になるかどうかは別だ。よいな」
ヴィンセントの赤い瞳が鋭く彼女を見つめている。
剣呑な瞳は先程までと何一つ変わらず、マリーを異質な者と捉えていることが如実に感じられる。
ユイのときは、誰も彼もが諸手を挙げて喜んでいたというのに、周囲の空気も歓喜だけではなくまだ懐疑的なものが大いに含まれていることが肌で感じられる。
この十六年、この国に何があったのだろう。
姿が見えない第一王子だったジェロームと聖女ユイ。それから聖女というものに対してどこか嫌悪を募らせているヴィンセントとその周囲のもの。
聖女という肩書きは手にしたくて手に入れたものではないし、今すぐ返上したいところではあるが……それを言う場面でないこともマリーは重々承知していた。
ずっと生きていたのだ、この息苦しい世界で。
マリーはヴィンセントの威圧に負けず、笑顔を作った。
雰囲気は変わってしまったけれど、あの時のかわいいヴィンセントを思い出せば勇気が出る。
「はい、陛下。私も贅沢は必要ありません。早期に問題に対処し、ティンダル領に戻りたいと思っております」
「ティンダル領だと?」
「ええ。私はずっとティンダル領で育って参りましたので、憂いが取り払われればすぐにでも領地に戻って前と同じ暮らしをしたいと思っております」
マリーの受け答えに、ヴィンセントの眉間にぐっと皺が寄る。
どうしてそんなことを言い出すのか、理解できないというような顔だ。
反対に、どうして私が贅沢三昧をすると思ったのだろう。
必要だから聖女が生まれたのだから、さっとその問題を解決すれば、あとはまた平穏な生活が送れるというのに。
(そうだわ。これを好機と思いましょう。この世の平穏が私の力にかかっているというのであれば、私が平穏を取り戻せるということだもの!)
肩書きはあるのに無力でか弱い侯爵令嬢マリエッタではない。
今世は、家族に愛されて育った聖女マリーなのだから。
「……まあよい。今日のところは城内で休むといい。本日の謁見はここまでとする」
ヴィンセントが眉間を揉みながらそう指示をすると、彼の隣で頷いていた眼鏡の人がこちらへ駆けてくる。
「マリー・ティンダル様。ご案内いたします」
ひどく苦々しい顔でそう言われ、彼はこの結果に納得していないのだとすぐにわかった。
「ありがとうございます。お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……シオドリック・マクナイトと申します」
随分と嫌そうに名乗りをする青年だ。
マクナイト侯爵家は以前は中立派にあったと記憶しているのだが、王の側近を務めるようになったらしい。
そのあたりの派閥関係にも変化は起きているようだ。
マリエッタの記憶にあるマクナイト侯爵は穏やかで人当たりの良い人物だったように思う。おそらくその頃、シオドリックとマリエッタには接点はなかった。
「では、こちらに。私は聖女と馴れ合うつもりはありませんので」
眼鏡のつるに触れながら、シオドリックはそうきっぱりと言い切って踵を返した。
「マリー様! 私は大神殿に滞在しておりますので、いつでもいらしてくださいね」
シオドリックの後を追おうとしたところで、オーガスから声がかかる。
ふりふりと手を振って、いつもの人好きをする笑みを浮かべている。
温厚な笑顔のその人にぺこりと頭を下げて、マリーはスタスタと歩みを進めるシオドリックを今度こそ追いかけたのだった。




