03 出発
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「……」
マリーを乗せた馬車は、王宮への道を進んでいた。
板張りの座面は馬車の振動を如実に伝えてくる。荒れた路面をガタゴトと進む度に、衝撃がマリーにぶつかり、腰に響く。
(いたた……でもようやく王都の近くに来たわ)
それでも、不満を口に出来る状況ではない。
少なくとも侯爵令嬢時代は、蝶よ花よと厚遇されていたこともあって座面はいつもふかふかとしたクッションが敷き詰められていたものだ。
窓の外には懐かしくも悲しい王都の景色が広がっている。
外から見ると、王城は随分寂しげだ。
以前からああだったのか、中にいたマリエッタ――マリーにはまるで分からない。
変わらぬ荘厳さは、これから直面する困難を思う心をますます重く沈めてゆく。
(……できれば、もう二度と来たくなかったけど)
心の中で嘆くマリーの向かいには、黒衣を身にまとった神官のオーガスが難しい顔をして座っている。
そして、この馬車の後ろには紋章の入った鎧を纏った騎士たちが数名、馬で併走している。
出発の日に王都から来た彼らとは言葉すら交わしておらず、監視するようにマリーたちに着いてきていた。まるで、逃れられない監獄のようだ。
遠くに見えていた城が近付いてくると、路面は落ち着き、揺れは少しだけ収まった。
綺麗に舗装された区域に入ったのだろう。
カーテンは閉められ、マリーは自分の両手に視線を落とした。
白魚のような手と言われていたあの頃とは違い、指先には水仕事や採取の切り傷の跡があり、少し荒れている。
お世辞にも美しい手とはいえない。王都に住まう令嬢たちとは、あの頃の貴族世界にいたマリエッタとは全く違う。
「……マリー様。表情が優れませんが、大丈夫ですか?」
よっぽど酷い顔をしていたのだろう。
向かいの席にいた神官が、心配そうな声をかけてきた。難しい顔をしていたのは、マリーの体調を慮ってのことだったようだ。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます、オーガス様」
馴染みの神官にそう答えながら、マリーの胸は早鐘を打っていて落ち着かない。
生まれ変わってティンダル家の令嬢になったことには驚いたが、地方貴族である生家は夜会にも参加することは滅多になく、それをマリーに勧めるような両親でもない。
デビュタントが控えているが、それさえ終わればとっとと領地に帰ろうと思っていたくらいだ。
「王都のアストリア星神大神殿で正式に聖女の認定をなされれば、マリー様は国の希望となられるでしょう……すばらしきことです」
曇りなき眼で、神官はマリーにそう告げる。
それに対して、マリーは曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
聖女認定など望まぬと、そうきっぱりここで言い切ったとしても、根本的な解決にはならない。
すでに早馬が伝令に行っていることは知っているし、のどかに暮らす家族や領民たちにとって不利益になるような行動をとることもできない。
(こんなに早く、ここに来ることになるなんて……)
どうして、とまた唇を噛み締める。
錆のような味が、じわりと口に広がった。
「オーガス様、素敵な衣装をありがとうございます」
白の聖女服に身を包んだマリーは、オーガスに頭を下げる。
オーガスが用意してくれたその聖女服は、まるで天上の光を纏ったかのような神々しさを放っていた。
純白の絹がふんわりと流れるように体に沿い、柔らかな光沢が月明かりに照らされて輝いている。
縁取りには銀糸が織り込まれ、星神アストリアを象徴する繊細な刺繍が、胸元や袖口に施されている。その模様は、静かなる夜空に輝く星々のように、見る者に希望と清らかさを語りかける。
いつものワンピースで出かけようとしたマリーに、聖女服の用意があると告げたのはオーガスだった。
さすが教会。ぬかりがない。
「いえ。マリー様のような素晴らしいお方に袖を通していただけるなど、僥倖でございます。よくお似合いです」
「あ、ありがとうございます」
オーガスはいつものように朗らかに微笑む。
聖女服を着ることに抵抗がなかったわけではないが、『神に仕える者であればふさわしい装いをする必要があります』とのオーガスの笑顔に押し切られた。
そういえば、いつも彼女もこんな風に白の衣装を着ていたなと思う。
(……オーガス様はとても信心深い御方なのね)
言葉の端々に、女神アストリアへの信仰を感じる。そして、聖女の証があったマリーのことをひどく敬っているようだった。
――ガタン!
ひときわ大きな音がして、馬車は停車する。
考えにふけっていたマリーは思わず体勢を崩しそうになったが、日頃の健康的な生活のおかげでなんとか踏ん張ることができた。
一緒に野山を駆け回った兄姉たちには感謝したい。
(城に着いたのかしら)
馬車の周りで物音が聞こえるが、カーテンは閉められたままで状況が分からない。
じっとしていると、扉のあたりがトントンとノックされた。
オーガスが対応するらしく、扉を少しだけ開ける。
「ティンダル伯爵領の教会で神官を務めておりますオーガスと申します。星紋はこちらに。聖女様をお連れしました」
オーガスは胸元からペンダントのようなものを取り出し、外に示している。
星紋とは、女神に仕える神職者の証なのだと前世で学んだことがある。
恐らくは門番の騎士に、その身分を示しているのだろう。
「……入れ」
「ありがとうございます」
どこか冷たい騎士の声にもオーガスは律儀にお礼をいい、また元の位置に座る。
来いと言うから来たのに、なぜあんなにも横柄な態度なのだろう。
「少し、立て込んでいるみたいですね。過去に色々ありましたから……」
ムッとしたのが顔に出ていたのか、オーガスは柔らかく微笑んでそうフォローしてくる。
マリーは慌てて姿勢を正すと、眉の間をよく揉んでから、ほっと息を吐いた。
思えばマリエッタの頃は、侯爵令嬢として表情を表に出さないことが貴族の美徳とされ、どんなに悲しくても悔しくても、笑みを絶やすことはなかった。
しかし、マリーとして過ごしたこの十六年は賑やかな家族に囲まれ、そうした顔芸をする必要はなかった。そのため、前と比べると少々――いや多分に好戦的な性格になってしまっているかもしれない。