32 祝宴
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一年近い時が流れ、マリーとヴィンセントは国中を巡りながら瘴気の浄化を続けていた。
最初のうちは、ヴィンセントは王としての職務を理由に都と行き来しながらの活動となったが、次第に国政も安定してきて落ち着いて任務にあたることができた。
近くであればヴィンセントがいなくても赴くことはあったけれど、遠方は必ず随行すると彼がそう決めていた。
ヴィンセントは、以前にも増して彼女を気遣うようになっていた。
マリーが疲れていれば手を引き、食事の時間には隣に座り、まるで片時も目を離したくないと言わんばかりに。
どの地に赴いても、聖女一行の訪れは希望と安堵をもたらした。
(今日が最後の任務地ね)
浄化を終えた穏やかな夜。マリーは泉のほとりに腰を下ろし、静かに流れる水面を見つめながら、そっと目を閉じる。
穏やかな風が頬を撫でてゆく。
かつて、マリエッタとして生きていた頃は、こんな風に心を許せる時間があっただろうか。
何をしても足りないと言われ、何をしても正しくないと責められた日々。
誰も彼女の本当の姿を見ようとはしなかった。
──でも、ヴィンセントだけは違った。
幼い頃から、どんなときでも自分を探し、手を伸ばしてくれた。
処刑台で命を落としたはずの自分が、こうしてまた聖女となって生まれ変わってからも、ずっとそばにいてくれた
マリエッタのときも、そして今も──彼は変わらず、私の心の支えなのだ。
「……マリー、こんなところにいたのか」
優しく名前を呼ばれる。
振り向けば、ヴィンセントがこちらに向かってきていた。野営地をそっと抜け出してしまったことも、お見通しらしい。
静かな水面に、揺れる月が映し出されている。
「……ここは、不思議な場所ですね」
マリーがそう呟くと、ヴィンセントも隣に座る。
「この泉は、昔から精霊が宿ると伝えられていた場所だそうだ。瘴気に蝕まれていたが、君のおかげで元の美しさを取り戻した」
「私だけではありません。ヴィンセント陛下が共にいてくださったから……」
不思議なことに、ヴィンセントのそばにいると力が無限に湧いてくる感覚がある。
サクサクと浄化を進められるのも、任務地に到着さえすれば、あっという間に浄化ができるからに他ならない。
ふと、視線が交わる。ヴィンセントの瞳には、確かな想いが滲んでいた。
「……マリー」
彼はそっとマリーの手を包み込んだ。
「私はずっと考えていた。君がいたから、この国を救うことができた。君がいたから、私は王として、そして一人の人間として生きる意味を見出せた」
「陛下……?」
真っ直ぐな瞳が、マリーのすべてを映し出す。
「マリエッタを……君を失って、何もかもが終わりだと思った。でも、こうしてもう一度巡り合えた。二度と離したくない。どんなことがあっても、君を守り抜く」
その誓いのような言葉は、静かな泉に溶けていく。
「私には、君以外考えられない」
静かな泉のせせらぎが、彼の声を優しく包む。
「マリー。この旅が終わったら、私と……私と結婚してほしい」
それは揺るぎない、王として、一人の男としての宣言だった。
「それ、は──」
「返事は急がない。マリエッタだった君も、マリーである君も。どちらも愛おしく思っていることを知ってもらいたかっただけだ。では」
たじろぐマリーに余裕のある笑みを残して、ヴィンセントはこの場を去って行く。
(ヴ、ヴィンセントが私のことを……?)
取り残されたマリーは、頬がぶわりと熱くなる。
心臓が跳ね上がり、胸がぎゅっと締めつけられる。
驚きと戸惑い、そして言いようのない幸福感が一気に押し寄せてきた。
ヴィンセントが、自分を求めてくれている。
彼の隣にいる未来を、彼の手を取ることを想像した途端、どうしようもなく愛おしさが込み上げてきた。
マリエッタの時も、今も。
彼の声に安心して、彼の言葉に励まされている。もうとっくに、彼のことを特別に思っている。ただ、言葉が出ないだけで。
それを認めた瞬間、目の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになった。
***
華やかな音楽が流れる中、煌びやかな祝宴が幕を開けた。
広間の中央、ヴィンセントが杯を掲げると、場が静まり返る。
「本日ここに、我が国を苦しめた瘴気を祓い、この地に再び光をもたらした聖女を称え、祝賀の席を設けた。マリー・ティンダル伯爵令嬢。あなたの尽力に、国を代表して心からの感謝を捧げる」
力強くも温かい声に、周囲から惜しみない拍手が贈られる。
今日は、瘴気の浄化を祝う祝賀会だ。
これまで十数年、暗いニュースばかりだったこの国にとっての久々の慶事に皆が沸き立っているのが分かる。
紹介されたマリーは、微笑みながらそっと一礼した。
しかし、まさかその直後にヴィンセントから「踊ってくれないか」と手を差し出されるとは思わず、驚いて目を瞬かせる。
「わ、私が……ですか?」
「当然だろう。聖女に敬意を示すために、私が最初の相手を務めるのが筋だ」
言葉こそ理屈を並べているが、ヴィンセントの瞳はどこか甘い色を帯びていた。
あれから何かとバタバタしていて、実はヴィンセントにあの日の返事はできていない。
ただでさえ緊張する内容なのだ。庭園などでゆっくり話せたらと思っていたら、いつの間にか今日を迎えてしまっていた。
「……喜んで、陛下」
「ではいこうか」
断る理由もなく、マリーは恐る恐るその手を取る。会場の中央に進み出でて優雅な音楽が流れると、ヴィンセントは彼女の腰に手を添え、自然な流れでリードを始めた。
(ダンスなんて、いつぶりかしら……)
淑女教育の一環で、ダンスは特に厳しく教えられていた。懐かしい感覚が、胸を満たしていく。
最初は緊張したものの、ヴィンセントの導きは的確で、身体は次第に踊りの感覚を取り戻していく。
やがて曲が終わり、二人は最後の一歩を踏み締める。
拍手に包まれてその場を去れば、今度は高位貴族たちがパートナーと踊り始めた。このあとは、皆が思い思いにダンスをしたり歓談を楽しんだり。きっと素敵な夜になることだろう。
「なんとか無事に踊り切れました!」
案内された席に戻ったマリーは、息を整えながら彼にそう告げる。
──そのとき、ヴィンセントの美しい顔に、一筋の涙が伝っていた。
「……ヴィンセント陛下?」
驚くマリーに、彼は微かに笑い、静かに囁く。
「夢みたいだ。こうしてまた、あなたと踊れる日が来るなんて……」
潤んだ瞳でくしゃりと微笑む彼の言葉が、胸に染み込む。
約束をしていた。ずっとずっと前に。
「陛下。私、初めてのダンスパーティーでした」
「とてもそうは見えなかった。さすがだな」
「……ファーストダンスをあなたと踊れて光栄でした。できればこれからも、お相手は私だけにしていただきたいです」
「っ」
幼いヴィンセントがどんな気持ちであのとき誘ってくれたのだろう。その時のダンスは実現することはなかったが、確かにマリーは楽しみにしていた。
マリーはそっと手を伸ばし、彼の涙を指先で拭った。するとヴィンセントはその手を取り、慈しむようにそっと唇を寄せた。
祝賀の席のざわめきが、遠くなる。
「絶対に幸せにする、マリー」
「はい。マリエッタの分まで幸せになろうと思っていますから、よろしくお願いしますね? 陛下」
そう微笑めば、ヴィンセントも笑顔になる。もうそこには冷酷だと恐れられたかつてのヴィンセントの姿はない。
「もちろんだ」
賑やかな祝賀会で、そのあともヴィンセントとマリーはゆっくりと言葉を交わした。
挨拶に来るはずの貴族たちも、今は良くないとそれぞれが遠慮をしていたことに、楽しい時間を過ごす二人は気付かない。
「……ヴィンセント。良かったですね」
仲睦まじい二人を見て、会場の端に控えていたシオドリックは安堵の息をつく。
聖女マリーと聖王ヴィンセント。
二人の間には、あたたかな光だけが満ちていた。
次回、最終話です!!!!!!!