30 周囲
マリーが離宮に戻ると、侍女のエイダが待っていた。
「お帰りなさいませ、マリー様」
穏やかな笑顔で迎えられ、マリーも微笑みを返そうとしたが、エイダの表情がどこか普段と違うことに気づいた。
「エイダ、どうかした?」
「……ありがとうございます、マリー様」
突然の礼に、マリーは驚いた。
「どうしたの?」
エイダは少し迷うように視線を落としたあと、ゆっくりと口を開く。
「実は……ずっと言えずにいたことがあるのです。私の父は、かつて宮廷薬師でした。でも、私が幼い頃に突然、病死したと聞かされました」
「宮廷薬師……?」
その言葉にマリーはハッとする。
確かに最近、その言葉を耳にした。
「母は父の死を受け入れられず、長い間嘆き悲しんでいました。でも、私はどうしても納得できなかった。父は病に伏せることもなく、元気だったと聞いていたのに……急に亡くなるなんて。だから、少しずつですが、自分なりに調べていたのです」
エイダの手が小さく震えている。マリーはそっと寄り添い、続きを促した。
「それで、何かわかったの?」
「はい……ヴィンセント様が、真実を明らかにしてくださったのです。父は……ジェローム殿下によって秘密裏に処分されていました」
マリーは息をのんだ。
「処分、された……?」
「父は夜会で提供されたワインの調査を担当していたそうです。そこで……ジェローム様の不審な動きを察知してしまったのだと思います」
エイダの瞳に滲むのは怒りか、それとも悲しみか。
「父が亡くなった夜、何があったのか、ずっと知りたかった。でも……知ったところで、もう何も戻ってはきません。それでも……真実を知ることができて、少しだけ、ほっとしました」
「エイダ……」
マリーはそっと彼女の手を握った。その温もりが少しでも慰めになればと願いながら。
「あなたのお父様は、きっと勇敢な方だったのね」
「……はい。誇りに思います」
エイダの声は震えていたが、その表情には確かな決意が宿っている
彼女は静かに息を整えると、マリーの手をぎゅっと握り返した。
「マリー様がいてくださって、本当によかった」
「そんなこと……私は何もしていないわ」
「いいえ。マリー様がジェローム様の罪を暴かなければ、私の父のことも闇に葬られたままでした。だから……ありがとうございます」
マリーは微笑みながら、エイダの手を優しく包み込む。
「……これから、エイダはどうするの?」
彼女が王宮の侍女という仕事に応募したのも、父のことを知りたいという思いからだったのだろう。
それを果たしてしまえば、もう故郷に帰ってしまうのかもしれない。
エイダは少し考え込んでから、ゆっくりと答えた。
「ええと……まずは母に会いに行きたいです。ようやく父の真実を伝えられますから。母も、前に進めるはずです」
その言葉に、マリーは安堵したように頷いた。
「きっとお母様も、あなたがそばにいてくれることが何よりの支えになるわ」
寂しいけれど、それが一番だ。
そう思って笑顔を浮かべたマリーに、エイダは笑みを返した。
「そして……その後なのですが。私は、これからもマリー様のおそばでお仕えしたいです。マリー様は、どんなときも優しくて、強くて……私も、そんな方の力になりたいと思っています!」
「まあ……! エイダ……ありがとう」
エイダが気丈に前を向こうとしている姿が、マリーにはまぶしく見えた。どんなに辛くても、こうして前に進もうとする心があれば、未来はきっと開ける。
「これからは、たくさん笑えるようにしましょう。あなたにも、お母様にも、幸せな時間が訪れるように」
「はい!」
エイダは力強く頷き、その目には確かな決意が宿っていた。
*
夕刻の穏やかな光が離宮の窓辺を染める頃、マリーは静かに紅茶を口に運んでいた。
昼間は救護院に赴いて浄化と治癒の務めを終え、ようやく一息ついたところだった。
「マリー様、お客様がいらっしゃいました」
扉の外から侍女のエイダの声が響く。
「お客様?」
マリーが問い返すと、扉が静かに開かれた。
そこに立っていたのは、端正な顔立ちの青年――ヴィンセントの側近であるシオドリックだった。
「シオドリック様……!」
思わず立ち上がるマリーに、シオドリックは穏やかに一礼する。
「突然の訪問、失礼します。少しお話よろしいでしょうか?」
「いえ、お気になさらず。どうぞ、お座りください」
促され、シオドリックはテーブルの向かいに腰を下ろした。
すぐにエイダが新しい茶葉を用意し、静かに部屋を後にする。
シオドリックは一瞬、紅茶の湯気を眺めるようにしてから、ゆっくりと口を開いた。
「マリー様、明日の予定を空けておいていただけますか?」
「明日……? 何かあるのでしょうか」
なにか緊急の要件だろうかとマリーは身構える。
瘴気はまだ残っている地域はあるし、そのことだろうか。
「ヴィンセント陛下からお話があるようです」
マリーの胸が静かに波打った。やがて、深く頷くと、静かに微笑む。
「……わかりました。お待ちしておりますね」
シオドリックはその言葉に満足したように目を細めると、ふと、少しだけ表情を改め、静かに頭を下げた。
「マリー様。国だけでなく、ヴィンセント陛下を救ってくださりありがとうございます」
「え……?」
驚くマリーに、シオドリックは微笑を湛えたまま続ける。
「彼は長い間、孤独でした。あなたがそばにいることで、変わりました」
「私は……ただ、自分にできることをしただけです」
何かができたとも思っていない。
マリエッタのことを思って、マリーの幸せのために動いただけだ。
(それでも、そう言ってもらえるのは……なんだか嬉しいわ)
マリーは胸の奥が温かくなっていくのを感じる。
そんなマリーを前にシオドリックはしばし沈黙し、マリーをじっと見つめた後、静かに言葉を継いだ。
「……あなたを見ていると、時折、懐かしさを覚えます」
「懐かしさ?」
「ええ。まるで、ずっと昔からヴィンセント様の隣にいた方のように……」
それは、確信には至らない、けれどもどこか確信めいた言葉だった。
マリーは心臓が跳ねるのを感じながら、曖昧に微笑んだ。
「……そう、でしょうか?」
「ええ。……きっと、気のせいですね」
シオドリックはそれ以上何も言わず、微笑みを浮かべたまま、そっとカップを持ち上げた。
マリーは湯気の向こうで彼の横顔を見つめながら、自分の指先がほんの少し震えていることに気づいた――けれど、それを悟られぬよう、そっと手を握りしめた。
「……マリー様。私のふるまいについて、改めて謝罪をさせてください」
「え?」
「あなたに対する最初の態度、そして……聖女という存在について軽んじていたことです」
マリーは驚いたまま、シオドリックの顔を見つめる。
「異世界から無理矢理聖女として召喚したかの娘についても、彼女の立場を正しく守れなかった。そして、あなたが現れたときも、同じ過ちを繰り返しそうになったのです」
シオドリックの目に深い悔恨の色が宿る。
「私は王の側近として、真実を見極める責務があったにもかかわらず、それを果たせませんでした。けれど、あなたがすべてを明らかにしてくれたおかげで、私はようやく正しい道を歩むことができます」
マリーはその言葉を噛みしめる。
シオドリックができることにも限界があったはずだ。
乱れた国を立て直すために、この人だっていろいろな物を犠牲にしたはずだ。
「シオドリック様が、侯爵令嬢マリエッタの無実を信じてくれていたことが嬉しかったです。でも、それ以上に、彼女の名誉を回復してくれたことに感謝しています」
シオドリックは静かに頷いた。
「当然のことです。無実の者を罰し、真実を見抜けなかったのは、王家の責任でもあります。だからこそ、ユイのことも──今後は王家でしっかり支援し、彼女が安らげるように努めるつもりです」
マリーはその言葉に、ようやく心が軽くなるのを感じた。
「ありがとうございます、シオドリック様。ティンダル領はとてものどかな場所です。ユイのこともどうか見守ってあげてください」
「もちろんです。……もう元の世界に帰すことができない我々には、彼女に償うことしかできません」
シオドリックの決意を聞き、マリーは改めて彼がヴィンセントと共に真摯に国を導こうとしていることを感じる。
ヴィンセントの側に、信頼できる人がいてくれて本当に良かったと思う。
(きっと、ヴィンセントは孤独ではなかったはずだわ)
共に苦悩し、努力し合える素晴らしい仲間がそばにいたのだ。
そのことは、マリーにとっても救いに思えた。




