閑話*マリーとマリエッタ
ヴィンセント視点
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南部の任務を一旦中断し、疲労と達成感が入り混じる中、ヴィンセントたち一行は森の中の小道を歩いていた。
突然、空模様が一変し、激しい雷鳴と共に、暗雲が立ち込め始める。
急ぎ足で砦に戻ると、雨が一気に降り注いで濡れそぼる木々がざわめき、地面に雨粒が打ち付けられる。
やがて、それは勢いを増し、視界を白く霞ませるほどの大雨となった。
(やはり、かなり力を消耗するようだな)
ヴィンセントは腕の中のマリーを見下ろす。
彼女の体は熱を持ち、呼吸は浅い。瘴気の浄化による消耗もあるのだろう。
腕の中で、眠っているマリーが小さく身じろぎをする。こうして眠ってしまったということは、先程の魔力供給が不十分であったのだろう。
しかし、あれが精一杯だった。
彼女の寝顔を見下ろし、ヴィンセントはふと、オーガスの言葉を思い出してしまった。
『聖女の魔力回復には、他者からの魔力供給が有効です。最も効率がいいのは、直接口で受け渡すことですね!』
先日の無礼を詫びると言って現れた神官は、そんな言葉を残して去って行った。完全に善意でそう告げたことはわかるが、あまりにも突飛すぎて開いた口が塞がらなかったものだ。
「……ん……」
微かに唇が開かれる。
思わず、ヴィンセントはマリーの唇に視線を落とす。
雨に濡れた頬、長いまつげ、かすかに開いた唇――。
そのまま視線が吸い寄せられそうになり、はっとして目を逸らす。
(愚かな……何を考えている)
ヴィンセントが頭を振ったところで、雷鳴が轟いた。
かなり雨脚が強い。はやくマリーを暖かな部屋で寝かせなければと思ったところで、ヴィンセントは服の端がぎゅっと掴まれる感触に気づいた。
「……っ?」
腕の中のマリーが、微かに震えていた。
「怖い……」
そして、掠れるような声が聞こえた。
マリーが意識の端で何かをつぶやいている。
「お父様、お母様、ごめんなさい。ごめんなさい……」
しっかりと目を閉じているはずの彼女の頬に涙が伝う。
マリーの両親は健在で、ティンダル領からは目立った報告はない。それなのに、腕の中のマリーはぽろぽろと泣いている。
悪夢にうなされているようだ。ヴィンセントは急いで部屋を目指す。
「……誰か……助けて……」
マリーの震える声は、まるでどこかに引きずられていくような響きだった。
腕の中でかすかに震える身体。雨音にかき消されそうなその声が、ヴィンセントの心を締めつける。
「マリー、しっかりするんだ」
そっと呼びかけるが、彼女は意識を取り戻す様子はない。ただ、まるで何かを振り払うようにかすかに身をよじった。
「……どうして……誰も来てくれなかったの……?」
ヴィンセントは強く唇を噛んだ。
その切実な言葉が、なぜかマリーのものだとは思えなかった。胸の奥が抉られたような痛みを覚える。
あの日、嵐の中で断頭台に立たされたマリエッタは、ひとりだったと聞いた。誰も来ないように、密かに行われた処刑。
後ろめたいことを隠すかのように、ひっそりとしたもので……その処刑人もすでに行方不明だった。
王に責任を問い詰めても知らぬ存ぜぬの一点張り。ジェロームはすでにユイと共に心を蝕まれていて、詳しい聴取など出来なかった。
とにかく国の再興に追われた六年。
ハフィントン侯爵家の遠戚の者たちと度々話したが、彼らは再興を望まず、国を憎んでいた。ヴィンセントだってそうなのだ。父と兄を処分するのは簡単なこと。だがそれではマリエッタの真実が分からない。
ユイが回復し、浄化を果たしてくれることを望んでいたがそれも難しい。
そんなときに現れたのがマリーだった。
真剣に任務に取り組む姿とその危険なほどのひたむきさに彼女の影が重なった。
「……次の人生では、ただ静かに暮らしたい……」
マリーの言葉にヴィンセントの喉が鳴る。
雨音が遠ざかるような感覚がした。
まるで世界が静寂に包まれたかのように、ヴィンセントはマリーの唇からこぼれる言葉に意識を奪われる。
「君は……マリエッタ、なのか?」
祈りに似たつぶやきが、ヴィンセントの口から落ちる。
そんなこと、あるわけがない。ただふとした仕草が似ているだけで。そんな風に思ってはいけないのに。
「……ヴィンセント殿下……? 来てくれたのね」
そう答えたマリーは、安心したように微笑んだ。
ぴしりと固まったヴィンセントをよそに、マリーはその眉間の皺をなくしてすうと眠りについた。また規則正しい寝息が聞こえる。
雷雲は去ったらしく、先程までは強かった雨もいつのまにか静かなものに変わっていた。通り雨だったようだ。
(マリー、君はやっぱり)
マリーがぎゅっと握っている箇所が熱く感じる。
ヴィンセントはマリーを抱き直し、そっとその頬に手を添えた。
マリーの真っ直ぐな気質と、今は亡きマリエッタに対する尊重の念。汚名を雪ごうと前に向かう姿は、ヴィンセントにはとてもまぶしい。
幽霊でもいいからマリエッタがこの世界に戻ってきたら、と。空想のように考えたこともあった。
この世界を憎み恨んでいるであろうマリエッタと共に、この世界を壊しても良いと本気で思っていた。
「……君は違うんだな。どんな姿でも、清廉な君のままだ」
マリーはこの国のため、この世界のために進んでいる。ヴィンセントだけが過去のあの日に取り残されているような、そんな感覚を覚える。
このままではいけないのだろう。きちんと過去を清算し、彼らに向き合う覚悟をヴィンセントも持たなければならない。
先延ばしにしてしまった彼らの処分を。
「君に幻滅されてしまうかもしれないな」
ヴィンセントのその呟きは、雨音に紛れて消えた。




