22 侯爵家
そこには、聖女ユイの堕落や、王太子ジェロームが業務に身が入らなくなった経緯、そしてそれに伴い、国民の信頼が次第に揺らいでいった事実が記されていた。
ヴィンセントを担ぎ上げた貴族院は、王に譲位を迫り、廃太子にしたジェロームと元聖女を南部の離宮に追放したらしい。
『マリエッタ様がそのようなことをするはずがない』
城の侍女の話として書かれた一節。
『マリエッタ様は殿下に嵌められたと思っている』
庭師の意見として寄せられた一節。
当時もこうして、マリエッタを信じてくれた人がいる。そう思うと、視界がどんどんと滲んで続きが読めなくなってしまった。
マリエッタが一途に国を愛し、民のために尽くそうとしていた姿が、文面の中に淡くも確かに息づいているということが、どうしようもなく嬉しい。
「……だめよ、最後まで読むと決めたのだから」
マリーはぐいと袖で涙を拭った。以前ヴィンセントに怒られたけれど、止めどなく流れる涙を止めるには袖口が手っ取り早い。
“ハフィントン侯爵夫妻の抗議文”
ページを捲ると、手紙がそのまま貼り付けられていた。
その冒頭の題目にマリーは目を見開く。
この手記を書いた人が、マリエッタの両親からの手紙を発見し、ここに記録として取ってくれていたらしい。
『侯爵令嬢マリエッタは無実である。何の証拠もなく罪を被せ、愛する娘をわたくしどもに一度も会わせることなく刑に処したことは決して許されるべきではない。我らは王家のこの非道に断固として抗議する』
震える筆致で書かれたその言葉は、怒りと悲しみに満ちていた。
手記の続きには、侯爵夫妻が最後まで王家に抗議し、ついには逆賊の汚名を着せられて爵位を剥奪されたことが記されていた。
そして、ふたりが失意のまま没していたことも。
「……そんな……」
かつての両親は、厳しく、愛情を向けられていると感じたことはほとんどなかった。
だからこそ、マリエッタが断罪されたときも、彼らは冷淡に見捨てたのだと思っていた。
だが――それは違った。
「ずっと……私のために……?」
喉の奥からこみ上げるものを抑えられず、マリーはそっと唇を噛んだ。
視界が滲み、手紙の文字が霞む。
彼らは愛し方が下手だっただけで、娘を想う気持ちは確かにあったのだ。
今だけは、かつての父母を思って。
マリーは深い息を吐きながら、ゆっくりとページを閉じた。過去の記録に目を通すうちに、自分の中にある混乱と向き合うことが出来たような気がする。
(……少しだけ、救われた気がする)
たとえ愛されていると知らなくても。
それでも、マリエッタは確かに愛されていた。
過去に縛られることはない。それでも、その事実が、心をふわりと軽くした気がした。
マリエッタの罪状についてはすでに再審がなされており、現時点では真犯人の嫌疑不十分で停滞しているのだとか。
ハフィントン家の縁の者は、抗議もあり国王ヴィンセントとの再興の話し合いには応じない構えだと記されている。
……後でヴィンセントにかつての両親の墓のある場所を尋ねてみよう。
きっと、彼なら知っているはずだ。
(今度こそ、絶対に幸せにならないといけないわ)
そう自分に誓いながら、マリーは表情を引き締めた。
――マリーが書庫をあとにした頃には、廊下には夕陽が長い影を落としていた。
集中し手作業をしているうちに、お昼ご飯を食べ忘れてしまった。おかげでお腹はペコペコだ。
「すいません。デイモンもきっとお腹が空いていますよね?」
マリーはデイモンに護衛されながら、静かに歩を進めていた。
デイモンは警備のためにずっと扉の前にいたはずだ。つまり彼も飲まず食わずで任務に当たってくれていたことになる。
「問題ありません、マリー様。僕は鍛えていますので!」
デイモンはニカッと明るく笑ってくれる。その笑顔にほっとしながら、マリーは窓の外を見る。
書庫で知った事実がまだ胸の奥にくすぶっている。侯爵夫妻は確かにマリエッタを愛していた――その想いが、温かくも切なかった。
「……マリー様、止まってください」
不意にデイモンが立ち止まり、前方を警戒するように目を細める。
「おや、マリー様。またお会いしましたね!」
低く落ち着いた声が響いた。
顔を上げると、そこに立っていたのは神官オーガスだった。前に会ったときとは違い、その表情にはどこか気まずさが滲んでいる。
昨日、マリエッタの話を聞いていて忍びなくなったときに、ヴィンセントが外に連れ出して以来だ。
「ここでお会いできて良かったです。先日は、無礼を働いてしまい申し訳ありませんでした」
予想外なことに、オーガスは静かに頭を下げた。
「え……?」
マリーが首を傾げると、彼は苦笑しながら続ける。
「侯爵令嬢について軽率なことを口にした件で、神殿に戻ってからも上官に厳しく叱責されまして。……それだけではありません。私はかのご令嬢がどんな経緯でそうなったのか、詳しい事情を知らずに偏見を抱いていたことを恥じています」
オーガスの言葉に、マリーは少し目を見開いた。
(……意外です。あのときはあんなに、マリエッタのことを悪し様に言っていたのに)
その上官とやらが、先代聖女とマリエッタの確執について話してくれたのだろうか。謁見に臨んだときに聖女誕生を手放しで喜ばなかった神殿の関係者も、処刑されたマリエッタのことを悼んでくれていたのかもしれない。
マリーの戸惑いが通じたのか、オーガスは肩を竦めて苦笑する。
「神に仕える身でありながら、事実を知らずにひとりの令嬢のせいにするなど愚かでした。そして、なぜ最初の謁見であのような空気だったのかもようやく理解しました。マリー様にも肩身の狭い思いをさせてしまい申し訳ありません」
深く頭を下げるオーガスを見つめ、マリーはそっと目を伏せた。
「……謁見でのことは、わたしは気にしていません。お互いに知らなかったのですから、仕方がないことです」
「それでも……先日私がその方の尊厳を傷つけたことに変わりはありません」
オーガスの真摯な言葉に、マリーは少し考え――そして微笑んだ。
「では、こうしましょう。わたしに謝るのではなく、マリエッタ様にも祈りを捧げてくださいますか? そうしたら、きっと彼女も浮かばれると思うのです」
「……なるほど」
オーガスはしばらく考え、そして小さく頷いた。
「わかりました。そして私は誓いましょう。神の御名にかけて、もう二度と無知ゆえに誰かを傷つけることはしない、と」
「ありがとうございます」
そう言ってマリーが微笑むと、オーガスは困ったような、しかしどこか晴れやかな顔をした。
「そうそう。今日は昨日の続きのお話を陛下にしようと思って参ったのです。謝罪ももちろんさせていただくつもりですが」
「昨日の続き、ですか」
「はい。聖女の力の回復に関する重要な話がありまして」
オーガスは真剣な表情で頷き、マリーへと一歩近づく。
周囲には誰もいないが、殊更に声を潜めている。
「聖女の力について調べたところ、どうやら睡眠や食事以外での回復の手段があることがわかりました」
「まあ、回復の手段が?」
マリーが首を傾げると、オーガスは淡々と説明を始めた。




