*閑話・忘れられない面影④
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マリーと夜の庭園でしばしの時間を過ごした後、ヴィンセントの執務室の中は静寂に包まれていた。
明かりをつけることなく、ソファーに深く腰掛ける。
(……あの令嬢は、何者なのだろうか)
ヴィンセントは椅子に深く腰を下ろし、窓の外に広がる夜の帳をじっと見つめる。
闇に沈む王都の灯りは、どこか遠い昔の記憶を揺さぶるようだった。目を閉じれば、ほんの少し前の出来事が鮮明に蘇る。
――執務室での会話。
取るに足らない存在だと思っていた聖女マリー。
彼女は王家の都合で連れてこられた、新たな聖女というだけの存在だった。
初めて出会ったとき、その華奢な姿はあまりにも頼りなげで、すぐに潰れてしまいそうにさえ思えた。
聖女に対する嫌悪感はすさまじく、ようやく立て直したこの国に、また新たな波乱を生むのかと疎ましく思ってしまったことは事実だ。
王宮で働く者は皆、聖女に翻弄されたこの十六年間の歩みを知っている。彼らがそれを態度に出してしまうのも、仕方のないことだと思い、はじめは咎めなかった。
(マリーには悪いことをした。彼女はあんなに真っ直ぐで懸命なのに)
誤解だと、すぐに分かった。彼女はいつも真っ直ぐで、与えられた使命に誠実に向き合い、困難の中でも怯まずに進もうとする。
その意志の強さは、どれほど苦しい状況にあっても揺らぐことはなかった。
誰かのために力を尽くし、損得なく手を差し伸べる姿――それは、かつて自分が知っていた人と重なるものがあった。
(――マリエッタ。君に会いたい)
その名を心の中で呼べば、今もなお胸が痛む。
消えてしまった少女の幻影と、目の前にいる聖女マリー。そのふたつの存在が重なり合い、ひどく心を揺さぶる。
ヴィンセントの脳裏に浮かぶのは、執務室でのひと幕だ。
微笑むマリーを見て、『マリエッタが生きていたら、こんな風に笑っていただろうか』と本当に無意識に考えてしまっていたときは我ながらひどく驚いた。
決死の表情で任務に向かうその小さな背中を見た瞬間、ふと手を伸ばしそうになった。
彼女の肩に触れ、その華奢な体をそっと支えたいと思った。
だが――その衝動を、ぎりぎりのところで抑え込む。
(違う、彼女はマリエッタではない)
そう分かっているのに、マリーが見せる些細な仕草が、懐かしい痛みを呼び起こす。
『陛下の御威光のもと、王国が繁栄と平和に満ちることを心より祈念いたします』
最初の疑問は、マリーが謁見の場で見せた完璧な礼儀作法だった。
彼女の身分からすれば、ここまで完璧な礼儀作法を身につける環境にはいないはずだった。
ヴィンセントは思わず眉を寄せてしまい、つぶやきが漏れてしまった。
ティンダル家は社交をほとんどしない。そしてヴィンセントが知る限り、マリーは特訓を受ける時間すらなかったはずだ。ヴィンセントは無表情を装いながらも、冷静にマリーを観察する。
背筋を伸ばし、足を揃えて優雅に座る姿は、まるで教本から抜き出したかのように洗練されていた。それは、かつてのマリエッタが当たり前のように身につけていたものとまったく同じだった。
庭園に咲く花々の中で、マリーが特に気に入っているとシオドリックから報告があった場所は、あの白薔薇とリリーが咲く庭園だった。
ヴィンセントが王になってから、一度は朽ち果てていたあの庭園を最初から造り直し、マリエッタと過ごした庭園を再現させた。
夜になると、いつもあの場所で彼女を想う。
マリーがあの場所に現れたとき、一瞬マリエッタが現れたのかと思って呆然としてしまった。
夜空の下でも輝く金の髪と大きなブルーの瞳。いつもはかなげだったマリエッタと違い、マリーは強い意志を持った目をしている。
なにか、遂行すべき使命があるような……その振る舞いに、いつも心動かされる。
「彼女のあの仕草は……偶然なのだろうか」
ヴィンセントはそっと思い返す。
眠気に負けそうになったとき、無意識にこめかみを揉む仕草。
頬に手を添えて瞬きを繰り返しながら、ぼんやりと瞬間的に意識を飛ばす姿――それは、マリエッタが見せていたものと同じだった。
――マリーのすべてが、記憶の中のマリエッタと重なって見える。
彼女にマリエッタの話をしたのは賭けだった。なんとなく抱いていた違和感の正体を知りたくて、思わず彼女にあんな話をしてしまった。
「……泣いていたな」
ヴィンセントのつぶやきが、暗い部屋に落ちる。
ぽろぽろと真珠のような涙を流したマリー。
マリエッタはヴィンセントの前で泣くことはなかったが、今思えばあのときの彼女も十六才だったのだ。
自分よりずっと大人に見えていて……きっとつらいこともたくさんあったはずなのに、それでもマリエッタはヴィンセントの前ではいつも笑顔だった、
マリエッタに誇れるような人であれるように。マリーが頼れるような人間でありたいと、想ってしまった。
「まったく、馬鹿げている。自分の都合のいいように考えるのは、兄と同じではないか」
ヴィンセントは自嘲気味に呟くと、浅く息を吐き出す。
これは過去ではない。マリーはマリエッタではないのだから。
自分が心のどこかでそう願っているからといって、マリーに贖罪を求めることは間違っている。
(……そして、マリーはなによりも平穏な生活を望んでいる)
彼女といると心地よく、心が深く落ち着くのを感じる。
彼女の清らかさがそうさせているのか、勝手にマリエッタの姿を重ねている自分の浅ましさがそうさせているのか、ヴィンセントには判別がつかない。
彼女が過酷な運命に巻き込まれたとしても、今度こそ――必ず守る。
瘴気を祓わなければ、この国に未来はない。それを果たして、マリーを聖女の理から解放することがヴィンセントにとって最善の道に思える。
「マリーを必ず家族の元へ帰す」
ハフィントン家の無念を知っていて、やはりそれを重ねてしまう。あんな悲劇は二度と起こしてはいけないのだ。
マリエッタを慈しむ気持ちとマリーに惹かれる気持ちが心の中にあることを理解しながら、ヴィンセントは静かに拳を握りしめた。




