19 冤罪
ヴィンセントが何かを言いかけた、そのときだった。
扉が軽くノックされ、間を置かずにシオドリックが部屋へと入ってくる。
「ヴィンセント陛下、神官に神殿に戻るように言いつけて戻って参りましたが……」
そこで彼の言葉が止まる。
シオドリックの眼鏡越しの視線がマリーへと向けられる。
頬にわずかに残る涙の跡、そして、その涙を拭ったと思われる布ナプキンを手にしたヴィンセント。その距離は、いつもよりも近い。
シオドリックはほんの一瞬、目を細めると、静かに眉をひそめた。
「……状況を説明してもらってもいいですか? 陛下」
落ち着いた声色だったが、その言葉の裏に何か探るような気配が滲んでいる。
(な、なにか誤解をされているような気がするわ!)
マリーは慌てて立ち上がると、シオドリックの視線に戸惑いながらも口を開く。
「あ、あの、これは……ただ、陛下からお話を伺っていて……その、少し感情が昂ってしまっただけで……!」
ヴィンセントもまた、無表情ながら僅かに咳払いをしながらシオドリックに視線を向ける。
「取り乱していたわけではない。聖女殿が話を聞いて、思うところがあっただけだ」
シオドリックはじっと二人を見つめたあと、ふうっと軽く息をついて、「そうですか」とだけ言った。
マリーは落ち着きを取り戻すと、意を決したようにヴィンセントを見上げる。
涙はもう乾いて、少しだけ頬がカラカラとするけれど……今、どうしても話を聞いておきたいと思った。
「あの、陛下。その……マリエッタ様が亡くなられたあとのことについても……聖女として、知っておきたいのです」
心臓は変わらず早鐘を打っていて、事実を知るのがこわい気持ちも当然にある。
だけれど、十六年前と様変わりした王宮の様子と、聖女ユイ、それからマリエッタのことについてもどうしても知りたいと思うのだ。
ヴィンセントは赤い瞳を静かに細めた。しばらくマリーを見つめた後、ゆっくりと頷く。
「……いいだろう。君が知りたいと言うならば、話そう」
ヴィンセントは静かに目を伏せ、ゆっくりと話し始めた。
ユイの召喚から始まるその話を、マリーは黙って聞いている。ヴィンセントから聞く話は、マリエッタの頃に知っていた話となにも齟齬はない。
聖女召喚に沸いたあの日を、マリーの頭は忘れてくれない。
「私が国に戻った時、マリエッタ嬢が聖女ユイを夜会で毒殺しようとした──それが先代聖女が堕落するすべての始まりだとされていた」
「……っ」
マリーの指先がわずかに震えた。やはり、それが公には事実として扱われているのだ。
「夜会で毒を盛られたユイは一命を取り留めたが、それ以降は衰弱が続き、外に出られなくなった。その事件の罪により彼女は処刑された」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
知っているはずなのに、ヴィンセントの口から語られると、まるで初めて知ることのように胸に突き刺さる。
そして脳裏には、あの日の出来事が鮮明に蘇っていた。
──夜会の日、マリエッタとユイは玉座近くに隣り合うようにして席が設けられていた。聖女のための夜会で、かつては社交界の華と言われたマリエッタの近くに来るものはほとんどいない。
ただぼんやりと、席に座っていた。
まるで婚約者のように見つめ合って仲睦まじくダンスをするユイとジェローム殿下を眺める。
周りもそれが当然であるかのように祝福し、見守っている。続けて三回以上ダンスをするのは婚約者や配偶者だけだとか、そういうことを指摘する者はいないのだ。
『もうっ、へたくそで緊張するからダンスは一度だけだと聞いていたのに~!』
『はは、すまないね。ユイ』
頬を膨らませたユイと、そんな彼女を慈しむような目で見つめるジェロームが席へと戻ってくる。
さすがに連続で三回も踊れば、不慣れなユイは疲れてしまうだろう。
そうぼんやりと眺めていると、マリエッタの前に無言で手が差し出された。
こちらも何も言わずにエスコートされたマリエッタは、婚約者であるジェロームと形だけのダンスをする。
この頃にはもう、会話がなくなったことに何も思わなくなっていた。
本当に、人形のようだった。
ダンスが終わると、珍しくジェロームに導かれるままに席に戻り、ユイと合流する。
この前はその場にマリエッタを捨て置いたのに、今日はどういう風の吹き回しだろう。
『喉が渇いただろう。マリエッタも、ユイも』
ジェロームに以前のような優しい笑顔を向けられたことに、マリエッタは少しだけ安堵した。
『では、お飲みものを。殿下の分もお願いしますね』
マリエッタはいつものように、そばにいた給仕にそう頼んだ。こうした夜会では、マリエッタが気を回して飲みものを準備させるのが定例となっていたからだ
言いつけられた給仕が、赤のグラスワインを持って戻ってくる。
同じトレイから受け取ったそれを、マリエッタはなんの疑いもなく飲んだ。ユイが飲んだグラスにマリエッタは指も触れていない。
だけれどその後、グラスワインを飲んだユイは、吐血かワインか分からないものを吐き出して、ぐしゃりとその場に倒れた。
『ユイ! ユイっ!』
顔面蒼白のジェロームが、ユイに駆け寄る。
その様子を、マリエッタはただわからずにじっと見ていた。何が起きているのか、まるで分からなかった。
バタバタと慌ただしくなる夜会の会場。さっきマリエッタにワインを持ってきた給仕はいつの間にかいなくなってしまっている。
決死の顔でユイに呼びかけるジェローム、生気のない顔をしているユイ、それから立ち尽くすマリエッタ。
その時、ユイの身体がまぶしく輝いた。閃光のような光がユイとジェロームを包み込み、目がくらんだ。
光がなくなったあと、ジェロームの腕の中にいるユイの頬は桃色に色づき、規則正しい呼吸をしていた。
マリエッタは胸を撫で下ろす。どうやらユイは、自らの治癒の力でなんとかなったのだと安堵した。しかし──
『マリエッタ! ユイに毒を盛ったのか!』
そのさげすむような視線と、周囲の空気を、一生忘れることはないだろう。
その日マリエッタは『王妃になりたいがために聖女を殺そうとした』という謂れのない罪を負うことになった。
「マリエッタ嬢がそんなことをする訳がない。なのになぜ、当時はその理論がまかり通ってしまったのか」
「ええ、そうですね。責任感の強いハフィントン侯爵令嬢が、私利私欲のためにそんなことをするとは思えません」
過去を思い出しうつむいていたマリーの頭上に降ってきたのは、マリエッタの無罪を主張する心強い声だった。
ヴィンセントだけでなく、シオドリックまでもが同意して頷いている。
「そもそもハフィントン侯爵令嬢は奉仕活動などもされていた御方です。そんな彼女に対して『生まれが貴族ではない聖女を苛めている』という噂が立つことの方がおかしい!」
眼鏡のポジションを決めたシオドリックは、鼻息荒く言葉を紡いでいる。
なんというか、それがすごく熱くて。
「……しかし、当時の事件を知る者が、すでに誰もいないんです。給仕を担当した使用人も毒の解析をした薬師さえきれいさっぱり。それこそが逆に、マリエッタ嬢が貶められた証拠だと思うのですが……くっ、南部の瘴気さえなくなれば……」
シオドリックはとても悔しそうだ。
(当時マリエッタにワインを渡した人物。彼がもういないということ?)
彼の剣幕と話の内容に驚いて、マリーは目をぱちぱちと瞬きする。
あのときは周りが全て敵に見えたけれど、こうしてマリエッタのことを支持してくれた人もいたのかと思うと、心が少し軽くなった。
「シオドリック、続けてもいいか?」
「はい、陛下。申し訳ありません、熱くなってしまって」
ヴィンセントの言葉に、シオドリックは何事もなかったかのように姿勢を正す。
「……もうひとつの問題は、その後だ」
彼の瞳がわずかに陰る。
「令嬢が処刑された後、王太子ジェロームは聖女ユイを婚約者として迎えることとなった」
「婚約者に……」
マリーは思わずぽろりと口に出してしまっていた。
そうなるだろうと思っていたが、実際にやはりそうなったのかと思うと、胸がざわつく。きっと彼女なら、皆に歓迎されただろう。
「彼女は体調不良を理由に外に出ず、王宮で贅の限りを尽くすようになったが……肝心の聖女としての務めはほとんど果たしていなかった。有力貴族の病気を癒やし、見返りをもらうようになった」
オーガスが言っていたことと同じだ。
そしてそれは、瘴気を祓うという最初の目的がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
「各地で瘴気の被害が出始めていたが、王太子は聖女の派遣を嫌った。結果として聖女ユイは一度も瘴気を祓うこともなく、王宮にとどまったままだ」
マリーは息を呑む。
想像しただけで、それはとても退廃的なことに思えた。
「それは……周囲が許さないのではありませんか?」
召喚された聖女であっても、次期王妃となる身の上。彼女に求められるものは一層増えたことだろう。
マリーの問いかけに、ヴィンセントはゆっくりと頷く。
「当然、聖女としての役割を果たせないことに対して王宮内で不満が高まった。さらに……マリエッタ様がいなくなってからというもの、ジェローム殿下は以前のように業務に励むこともなくなった。次第に怠惰になり、国政に対する関心を失った彼に対する風当たりも強まっていった」
「それは……なんというか」
「彼の功績は、全てハフィントン侯爵令嬢のお膳立てによるものでしたからね。彼女がいなくなれば、当然その実力が露見します」
マリーが戸惑うと同時に、シオドリックが息巻く。
確かにマリエッタが彼の執務の手助けを申しつけられることは多かったが、次期王妃として彼を支えるのは当然で、それが生き甲斐だと思っていた自分もいたことは事実だ。
(マリエッタの世界は、随分閉じていたのね)
客観的に見れば、そう固執することもなかったのかもしれない。
マリーとして生まれ、家族と領民たちの愛に包まれて育ったからこそ、抱ける気持ちなのかも知れなかった。
あのときのマリエッタにとっては王太子の婚約者であることが全てで、そうでないマリエッタなど無価値だと思っていたのだ。
自由な世界があることを、知っていたら何かが変わっただろうか。
「……それで、ヴィンセント陛下が即位されたのですか?」
「私が隣国から戻ってきたときには、日陰者だったはずの私が王位継承者として担ぎ出されるようになっていたからな」
「あの頃は、大変でしたね……」
自嘲気味にそう言ったヴィンセントが、真っ直ぐにマリーを見つめている。シオドリックは当時の苦労を思い出したのか、本当にげっそりとした顔をした。
マリーはパチ、と瞬きをする。ヴィンセントが歩んできた道は、険しかったに違いない。
十八才の若さで国を統べることになったヴィンセントは、きっと苦労が絶えなかったことだろう。
そんなヴィンセントがどうしてこんな風に丁寧に、マリーに説明してくれているのかはわからないが……。
(任務をこなしたことで、ひょっとしたらヴィンセントに信頼してもらえたのかもしれないわ)
そう考えると、マリーの胸はじんわりと温かくなった。




