18 気づき
前話「17 神官」の前半部分について、間違って載せていた部分があるので再投稿しています。そちらを読み直していただけると幸いです…!
「幸い、ユイ様にはご自身の治癒の力がありますので大事に至らなかったようですが……本当に恐ろしいことです。マリー様にはそのようなことがないように、警備はしっかりとされてくださいね」
優しく微笑むオーガスは、マリーのことを思って言ってくれているのだろう。
それはわかるのに、彼の言葉を心が弾く。
ぐるぐると、世界が回っているような気さえする。転移門をくぐるときに似た、足下がぐにゃりと歪んでいるような感覚。
毒。夜会。王太子の婚約者。痛みと、冷たい視線と、声にならない叫び――。
ふいに胃の奥からせり上がる嫌な感覚に襲われ、マリーはぐっと口元を押さえた。
気持ちが悪くて、吐きそうだ。
だけど、ここで吐くわけにはいかない。息を整えようとするが、思考がぐるぐると回り続ける。
そんなマリーの異変にいち早く気付いたのはヴィンセントだった。
「……シオドリック!」
「はい、陛下」
短く名前を呼ばれると、シオドリックは即座に動いた。
「神官を外へ連れ出せ」
「わかりました」
「えっ? どうしてですか?」
静かだが有無を言わせぬ命令に、シオドリックはオーガスを促して部屋を出ていく。オーガスはきょとんとした顔をしていたが、ヴィンセントの視線を受け、何も言わずに従った。
「ではマリー様。またの機会に。神殿にも来てくださいね!」
オーガスが笑顔でそう言って扉が閉まると同時に、マリーは小さく息を吐いた。
顔から血の気が引き、手はかすかに震えている。
ヴィンセントはそんなマリーをじっと見つめて何かを言おうとしているようだったが、結局何も言わずに静かに席を立った。
マリーは唇を噛みしめ、ぐるぐると渦巻く思考を止められなかった。
前世の記憶が浮かび上がり、胸の奥が冷たくなる。
ふと、目の前に静かに湯気を立てる紅茶が差し出された。
「……陛下?」
顔を上げると、ヴィンセントが何も言わずにカップを置くところだった。紅茶の優雅な香りがふわりと広がり、心なしか落ち着くような気がする。
「カモミールとレモンバームが入っている。神経を鎮め、心を落ち着かせる効果がある」
ヴィンセントの低い声が静かに響く。その声音はいつもと変わらないはずなのに、どこか穏やかさが感じられた。
マリーはぼんやりとカップを手に取る。そっと口をつけると、ほのかに甘く、優しい香りが広がった。震える指先を隠すように、ゆっくりと口へ運ぶ。
(……このお茶、どこかで)
微かな既視感に、マリーは瞳を瞬かせる。
「少し顔色がよくなったようだな」
ヴィンセントがふと、視線を落とす。その指先が僅かにカップの取っ手に触れる仕草に、マリーは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
この味を知っている。
――このお茶は、かつてマリエッタが好んでいたものだった。
子どもの頃のヴィンセントに「眠れないときや気持ちが落ち着かないときに飲むといい」と勧め、何度か一緒に飲んだ記憶がある。
思わずヴィンセントの顔を見つめると、彼の赤い瞳が静かにこちらを見ていた。
「……ゆっくり飲んでいい」
短く告げられた言葉に、マリーはもう一度ゆっくりと口をつけた。温かさが指先からじんわりと伝わってくる。
しばらくして、ようやく小さく息をつき、そっとカップを置いた。
「……神官殿は偏った知識をお持ちのようだ。力を使った後の副作用などについて知ることができたら良いと思ったのだが……今の話は君に聞かせることではなかったな」
「いえ……」
自嘲気味に呟くヴィンセントに、マリーはそっと首を振った。
オーガスは彼の信じる話をしただけだ。
マリエッタのことを、当時も誰も信じてはくれなかったから仕方がないのかもしれない。マリエッタは処刑された罪人だ。
聖女の力を奪ったようなものだと揶揄されていても……どうすることもできない。
ヴィンセントはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「マリエッタ嬢は、そんなことをする人間ではない」
その声には、確信が込められていた。
マリーは思わず顔を上げる。ヴィンセントの赤い瞳はまっすぐにこちらを見つめていた。
「彼女は、人を傷つけることなどしない。誰かを陥れるような狡猾さも持っていなかった」
彼は、カップを指でなぞりながら、静かに続ける。
「聡明で、礼儀正しく……そして、少し抜けているところがあった」
そこで、わずかに唇の端が持ち上がる。
「甘いものが好きで、疲れるとすぐに眠くなっていた。眠いときはよくこめかみを揉んでいたな……」
マリーの指が、思わず自分のこめかみへと向かいかける。しかし、すぐに気づいて手を下ろした。
「誰かのために動くことを当たり前のようにしていたが、自分のことには無頓着だった」
ヴィンセントの言葉の端々から、かつての彼がどれほどマリエッタを大切に思っていたかが伝わってくる。
空を漂いどこか遠くを見つめる視線は、きっとマリエッタのことを思い出しているのだろう。
「そんな彼女が、毒を盛るなどありえない」
断言するような声音に、マリーは小さく息を呑んだ。
ヴィンセントはゆっくりとカップを置き、赤い瞳を細める。
「……だからこそ、何があったのか知りたかった。だが、王城にいたはずの彼女の記録は、曖昧にされていて、調査に手間取ってしまった」
マリーは喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。
ヴィンセントは、マリーの様子を一瞥し、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
「処刑に至るまでの不自然な手続きについてをなんとか洗い出し、関係者は処罰した。だが、彼女の名誉を完全に回復するにはまだ足りない。……本当に情けないことだ」
「ヴィンセント陛下……」
静かに告げられたその言葉が、マリーの胸に重く響く。
ヴィンセントが自分を信じてくれていたという喜びがこみ上げてきて、マリーだというのに不覚にも涙がこみあげてきた。
いけない、そう思うのに
ヴィンセントの言葉が胸の奥に染み込んでいく。
マリエッタを信じてくれるその一言が、マリーの心を強く揺さぶった。
自分が覚えている過去の記憶では、誰もマリエッタをかばってはくれなかった。
ただ王家に利用され、都合が悪くなれば切り捨てられ、最後には誰にも必要とされなくなった。でもここに、自分を信じてくれる人がいた。
それが、どうしようもなく嬉しくて、マリーは気づけば涙をこぼしていた。
「……っ」
慌てて袖で拭おうとするが、ぽろぽろと溢れてくる涙は止まらない。こんなところで泣くなんて、と焦るのに、心が温かくて止められない。
マリーが慌てて袖で涙を拭おうとしたその瞬間、ヴィンセントの大きな手がそっと彼女の頬に触れた。
「……なぜ君が泣くんだ。袖でこすると痕が残るぞ」
「も、もうしわけありません……っ」
ヴィンセントは驚いたように目を瞬かせたあと、静かにため息をついた。
そう言いながらも、彼の声はどこか優しい。ヴィンセントは手元にあった布ナプキンを取ると、そっとマリーの頬に触れる。
「拭くから、じっとしていろ」
その手つきは驚くほどに丁寧で、乱暴なところなど微塵もない。
そう言って、彼は迷いなく親指でマリーの目元をぬぐった。その動作は驚くほど優しい。
あの頃はまだ華奢だった彼の手が、今はこうして大人のものになり、自分の頬を包み込むほどに大きくなっていた。
ヴィンセントの骨張った手に思わず視線を落としたマリーは、なんだか胸の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚に襲われて慌てて視線を上に戻す。
「……ありがとう、ございます」
マリーが小さな声でそう呟くと、ヴィンセントはふっと視線を逸らし、いつものように不機嫌そうに眉を寄せる。
「礼を言うなら、まず泣き止むように」
厳しい言葉とは裏腹に、彼の指先はとても優しく涙を拭ってくれていた。
マリーはヴィンセントの赤い瞳をじっと見つめる。
「マリー、やはり君は──」




