15 追憶
──マリーはどこか懐かしい風景の中にいた。
鮮やかな白薔薇が咲き誇る庭園。
穏やかな風が花々を揺らし、その香りが空気を満たしていた。その中央に置かれた小さなティーテーブルと二脚の椅子には、彼女ともう一人の人物が座っている。
目の前にはまだ幼い頃のヴィンセントがいた。
『マリー義姉さま、お茶が冷めてしまいますよ』
彼の声は幼さが残りつつも、どこか威厳を感じさせるものだった。
少年らしい顔立ちに銀の髪が陽光を反射し、赤い瞳が真っ直ぐに彼女を見つめている。
(ああ、これは夢なのだわ)
マリーは漠然とそう思う。この風景も、幼いヴィンセントも、マリーではなくマリエッタのものだ。
どこか懐かしく寂しい、前世の。
『あら、ごめんなさい。少しぼーっとしてしまいましたわ。ふふ』
ヴィンセントに向かい合うマリエッタは、眠気を感じたのか、指先でこめかみを揉んでいた。
きっと昨日も遅くまで勉強をしていたのだろう。マリーとして眺めるマリエッタは、確かに造形は美しく整っていたが、隠しきれない疲労が滲んでいるように思える。
『せっかくヴィンセント殿下にご一緒していただいているのに、申し訳ありません』
マリエッタは微笑みながら、手元のカップを持ち上げる。その仕草は貴族らしい優雅さを保ちつつ、どこか気取らない自然体のものだった。
ヴィンセントはその姿をじっと見つめている。
『……マリー義姉様は、お疲れですか?』
『そうですね、少しだけ。でも、大丈夫です』
マリエッタはカップをテーブルに置き、周囲を見渡した。
『それよりも、この庭園は本当に美しいですわ。白薔薇もリリーも、とても丁寧に手入れされているのですね』
彼女の視線は花々に向けられ、優しくそれを愛でる。白薔薇の純白、リリーの清楚さが陽光の中で輝いている。
『どなたがお世話をされているのかしら。とても素敵だわ』
『実は、僕もお手伝いをしているんです!』
『まあ、殿下が? それで、この花たちはとても優しく咲いているのですね』
マリエッタが微笑むと、少年は頬を赤らめる。少年らしくふっくらとした頬が色づいて、とてもかわいらしい。
ヴィンセントは小さく頷いた後、少し照れくさそうに視線を逸らした。
『マリー義姉様がこの庭を気に入ってくださるなら、それだけで十分です』
『まあ、それは嬉しいですわ』
マリエッタはふんわりと笑みを浮かべ、少年の頭を優しく撫でた。
『殿下はとても優しい方ですね。将来が楽しみですわ』
ジェローム殿下の代わりにやってくる年下の第二王子との時間が、マリエッタにとっては癒やしだった。
たくさん話をして、時には勉強を教えて、いつの間にか本当の姉弟のように親しく穏やかな時間を過ごすことができていた、この時だけ。
ヴィンセントは頭を撫でられながら、目を細めている。
あたたかな、ひだまりのような時間。
“侯爵令嬢マリエッタ”でも“次期王妃”でもなく、ただ一人の“マリエッタ”として過ごせる貴重な時間。
(ずっとこんな時間が続けばいいのに)
夢の中のマリエッタがそう願った瞬間、風景がふっと揺らいだ。
マリーは驚いて周囲を見回すが、庭園もヴィンセントも、すべてが霞のように消えていく。
『……マリー様!』
ヴィンセントの声が遠くから聞こえたような気がしたが、それも次第に薄れていった。
***
「っ!」
目が覚めたマリーは、自分のベッドの中で深く息をついた。
胸の奥に残る懐かしさと、ほんのりとした切なさを抱えながら、夢の中で見たヴィンセントの赤い瞳を思い浮かべる。
「あれは、マリエッタの記憶だったわ……」
あのあと彼女がどうなったか、自分がよく知っている。
ヴィンセントとの穏やかな時間は永遠には続かなかったし、もしかしたらあれが最後のお茶会だったのかもしれない。
罪を告げられてから、ヴィンセントに会うことはなかった。
見張りの兵士が、第二王子は隣国に留学したと話していたのをかすかに聞いたような気がする。
良かった、と思った。
自分が処刑される姿を、あの大切な“弟”には見られたくないと思ったから。
小さく首を振り、夢の感覚を心の奥にそっとしまい込む。
「マリー様! 目覚められたのですね」
傍にいたのはエイダだった。以前とは違い、彼女の顔には明らかな安堵と喜びが浮かんでいる。
「エイダ……? ということは、城に戻ってきたのね」
まだぼんやりとした気持ちで、マリーは笑顔のエイダに応える。
ゆっくりと身体を起こすと、エイダが素早く果実水を手渡した。爽やかな香りとほのかな甘みを感じながら、こくりと飲み干す。
思ったよりも喉が渇いていたみたいで、すぐに一杯目を飲み干してしまった。
「マリー様、出立された日から三日も眠っていらっしゃったんですよ」
「まあ、三日も?」
「とっても心配いたしました~! お身体の方は私がしっかりと清拭しておりますし、お着替えもしておりますので安心くださいませ!」
「そ、そう……それはありがとう」
寝ている間に身体を拭かれて着替えまで……と思うと少し複雑だが、貴族であればよくあることだ。
少しだけ戸惑ったが、エイダは自分の任務を遂行しただけ。なんの問題もないと思い直す。
「……ご無事で本当に良かったです。聖女様がいらっしゃらなければ、瘴気はあの村だけでなく、もっと広い地域に広がっていたかもしれないそうです」
エイダは空のグラスに二杯目を用意する。何事もなかったかのように再び手渡されて、またそれを飲んだ。ものすごく美味しい。
「そう……役に立てたのなら良かったわ」
喉を潤したマリーは心から微笑んだが、ふと気づくと部屋の雰囲気が以前と変わっていることに気づいた。
殺風景だった調度品の上には花瓶に生けられた美しい花が飾られている。
あれは、あの庭園の白バラとリリーだ。部屋の中もよい香りで満たされている。
「マリー様、お加減はいかがですか? 身体の痛みなどはありませんか? お腹は空いていませんか?」
そう尋ねられ、マリーは自らのお腹に手を当てる。言葉にされると、俄然お腹が空いてきた。ペコペコだ。
「ええと……とってもお腹が空いているみたい」
自分にしか聞こえない音で、胃が「くう」と鳴った気がする。恥ずかしさで頬を染めながら、マリーはおずおずとエイダに告げた。
「わかりました! すぐに食事のご用意をいたしますね!」
エイダは部屋の外に急いで駆けてゆく。パタパタとした足音が離れていくのを聞きながら、マリーはほうとため息をついた。
瘴気に魔獣。浄化に魔法。そのどれもが鮮やかに思い出せる。瘴気は想像よりもずっと重く濁っていて、魔獣はただただおそろしかった。
『聖女』という存在の重さが今さらずしりとのしかかる。
(急に自分と関係ない国に召喚されて、家族も友人もいなくて、聖女としての重い役割を求められる──ユイは、苦しくはなかったのかしら?)
自分が聖女の役目を担うようになったからか、マリーはそんな風に思った。
マリエッタは、端的に言えばユイを憎んでいた……はずだった。
彼女が現れたことで愛する婚約者は心変わりをし、あろうことか、マリエッタはユイを害そうとしたと冤罪をかけられ、処刑されてしまった。
ユイのせい。全て、ユイが悪い。そう憎みながら死んだはずだ。
(ユイもあのとき、十六歳。異世界から来た彼女は、誰かに護ってもらわないといけないひとりの女の子だったのに……どうしてあんなに敵のように思ってしまったのかしら)
頭の中がぐるぐるとした思考に支配される。
ユイは、突然知らない力が宿ってこわくはなかっただろうか。
知らない人たちに囲まれて、おそろしくはなかった?
どうしてだか、今さらユイにそんな言葉をかけたくなる。
(ヴィンセントの様子も変だけれど、彼だけじゃないわ。この国がユイのことを恨んでいるの……?)
役割を果たさなかった聖女。それはユイのことだろう。
もっと詳しいことが知りたい。その気持ちは、前世のように彼女を疎ましく思う気持ちからではなく、きちんと理解したいと思ったからだ。
本当は……マリエッタが見えなかった世界がそこにあるのかもしれない。
それこそが、マリーとして改めて生を受け、聖女の力を宿されたマリーの運命なのかもしれない。
マリーはぎゅっと自分の身体を抱きしめる。
ユイにも、マリエッタの死にも。ちゃんと向き合わなければならないのだと、使命のように感じた。




