01 転生
「マリー、これを厨房に持って行ってちょうだい。このベリーをジャムにしたら、とってもおいしいでしょうね」
柔らかい日差しが差し込むティンダル家の庭で、伯爵家の次女であるマリーは母の言葉に笑顔で頷いた。
「はい、お母様。任せて!」
ベリーがたっぷり摘まれた籠を受け取れば、爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。
そのまま食べると少し酸味の強いこの真っ赤なティンダルベリーは、ジャムにすると絶品なのだ。
ちょうど収穫の時期で、ティンダル領の者たちにとっては春の訪れを感じる楽しい季節だ。
(今年もまた、素敵な一年になりそうだわ)
《《前世》》での苛酷な体験を思えば、こうした穏やかな日常は夢のようだ。
──本当に数奇なことであるが、惨めに死んだマリエッタは、こうして新しい生を与えられた。
王都中央の喧噪など無関係の、穏やかな地方貴族ティンダル伯爵家に娘として生まれ、優しい家族とともに平凡な生活を送っている。
貴族という肩書きはあるものの、ティンダル家の家族関係もハフィントン侯爵家のような関係性とは異なる。
父も母も互いを思いやっていて未だに仲睦まじいし、マリー自身も姉と兄とも仲がいい。家族みんな仲良しだ。
庭園には母の趣味でベリーが植えられ、収穫期になればみんなで摘み取って、それからジャムにする。
スコーンを焼いてクロテッドクリームとジャムをたっぷり載せれば、もうご馳走だ。
幼い頃から、ずっとそうしている。
マリエッタであった頃の殺伐とした十六年間とまるで正反対の、穏やかで長閑な暮らし。
かつて願った『次は静かに暮らしたい』というマリエッタの願いを、憐れに思った神様が恵んでくれたのかもしれない。
(前世を思い出したきっかけは、嵐の時だったわね)
ベリーの香りに包まれながら、マリーは記憶を取り戻した日のことに思いを馳せる。
空は雲一つない快晴で、そのときの天候とは対照的だ。
あれはマリーが六歳の頃だっただろうか。
季節外れの嵐がこの地にやってきて、布団をかぶって怯えていたマリーは雷の大きな音に驚いてベッドから転がり落ちた。
その衝撃で、前世のことを思い出したのだ。
混乱するマリーをよそに、容赦なく稲妻がまた部屋を照らす。
その光で鏡にはマリーの姿が映った。そしてそれはマリエッタによく似た小さな少女の姿だった。
太陽のような金色の髪、空のように澄んだ青い瞳。
マリエッタが持っていた色の特徴と同じではあったけれど、顔立ちはわずかに異なる。
作られたドールのように整っていてもどこか冷たい容貌だったマリエッタと違い、マリーは天真爛漫で丸い大きな瞳が印象的な女の子だった。
姉兄と外を駆け回っているせいで、肌もほのかに焼けていて健康的だ。
(マリエッタ……わたくしは、私は……そうだ)
マリーはぺたりと鏡に触れる。
当然ながら鏡は無機質でひややかで、ただそこにあるだけ。でも手のひらはじんわりと熱を持つ。
あのときの願いが叶ったのだ、と。小さなマリーは、人知れずそんなことを思った。
──前世の記憶は、成長するにつれ少しずつ蘇り、今や完全に取り戻していたが、それを胸の奥に秘めている。
伯爵家での暮らしは、マリーにとって新鮮なことの連続だった。
かつての厳格な妃教育に縛られていた日々とは、まるで夢のように遠い。
広大な庭には色とりどりの花が咲き誇り、緑豊かな野原が広がる。
朝日が柔らかく差し込み、露に濡れた草原を裸足で駆け抜けると、まるで自由の風が心まで洗い流すかのようだった。
『走るのがこんなにも楽しくて、空がこんなにも青いなんて!』
マリーは、かつて厳しい礼節と形式に縛られていた自分を思い返しながら、自然の息吹に身を委ねた。
今や彼女は、義務や重圧から解放され、ただ自分自身であり続ける喜びを知っていた。
また、町へ出かける日には、賑わう市場の色彩豊かな風景が彼女の目に飛び込む。
石畳の路地を歩くたびに、商人たちのにぎやかな声や、手作りの雑貨、果物や香辛料の香りが、彼女に新鮮な驚きをもたらした。
『あ、マリー様だ!』
『マリー様、この果物を食べてごらん。とっても甘いからね!』
気さくに町の人に声をかけられ、手渡された甘い果実をその場でかじる。マリーは、好奇心と期待に胸を膨らませ、毎日の発見に心を躍らせた。
かつての厳しい王宮生活では感じることのできなかった、自由と温かさに満ちた日常。
それは確かに、空っぽだったマリエッタの心も満たしてゆく。
(このまま、こののどかな伯爵領で静かに暮らせたらいいな)
マリーの願いは、やはりそれだけだ。
前世での苦しみや屈辱を忘れることはできないけれど、もう過去のことだ。
それを乗り越えた今、この平穏な人生を大切にしたいと思う。
──だが運命は、そんなマリーの願いを許さないらしい。
***
その日、空はどこまでも広がり、澄んだ青が眩しいほどに鮮やかだった。
小鳥たちのさえずりが風に溶け込み、遠くの雲は春の陽気に押されるようにゆっくりと形を変える。
新緑の香りを乗せた風が頬をかすめ、生命の鼓動が空気中に満ちているように感じられた。
今日もいい日になりそうだ。そんな予感すら感じたのだが。
マリーがいつもどおりにベリーのジャムを持って領地の救護院に顔を出すと、普段とは違う緊迫した空気がその場を支配していた。
「無理だ、間に合わない!」
「非常に残念ですが、わたしでは力添えできません……。傷が重く、もう助からない」
「そんな……!」
患者用ベッドのある部屋の前で、大人たちが悲痛な顔でそんなやりとりをしている。
(……なに、かしら)
その不吉な言葉に、マリーの胸はざわめいた。
奥の部屋からはすすり泣くような声も聞こえてくる。
「ああ、マリー様、いつもありがとうございます」
マリーに気がついた救護院の職員が足早に駆け寄ってくる。
「こんにちは。何かあったの? なんだかバタバタとしているようだけれど」
「ああ、実はですね……」
その人は、領民の子供が旅程を急ぐ貴族の馬車に撥ねられて重体となったのだと説明してくれた。
その貴族は慌ててその子をこの救護院に搬送したという。
そして、打ちどころが悪く、子供はもう処置のしようがないのだとも。
(なんということなの)
マリーは覚悟を決めて室内へと足を進める。
男の子の顔色は土のようになっていて、呼吸も浅い。
大きな病院へ行けばまだなんとかなったかもしれないが、田舎の辺鄙な伯爵領では大した設備もない。
その子の家族は寝台の周りで、全てを覚悟した苦悶の表情を浮かべていた。
「……マリーさまっ……! コーディが、コーディが起きないの……!」
ただ呆然と見ていたマリーに、悲痛な呼び声がかかる。
普段から領民と触れ合っているマリーは、伯爵令嬢とはいえ皆と気安い関係を築いている。
泣き腫らした顔でこちらを見るのは、その少年の姉であるキャロルだった。マリーよりひとつ下で、よく一緒に花を摘んだりして遊んだこともある。
「コーディだったの……」
まさに死の淵にあるコーディを前にして、マリーはゆっくりと彼に近づいた。