*閑話・忘れられない面影②
*
それからしばらくして、ヴィンセントは父王に呼び出された。
夜会を明後日に控え、浮き足立つ気持ちでいた日の夜遅くのこと。普段めったに会話をすることはないから、こうして呼び出されると緊張する。
執務室で対面した父は、厳しい表情をしていた。
「お前の隣国アルヴェールへの留学が決まった。準備はすでに整えてある。明日の朝には発つのだ」
父の淡々とした言葉に、ヴィンセントの心臓が大きく跳ねた。
「……待ってください。あまりにも急すぎます。僕には明日、大切な約束が――」
「それは叶わぬことだ」
有無を言わせぬ口調に、ヴィンセントは拳を握りしめた。明日は、マリエッタと夜会で踊る約束をしていた。
初めての正式なダンスを彼女と――そう心待ちにしていたのに。
「なぜですか……?」
彼が問うと、父は静かに視線を向けた。
夜会に出席して、マリエッタとダンスを踊ることは父も事前に了承してくれていたはずだ。
最近夜会では遠巻きにされているというマリエッタのそばにいたいと思ったのに、なぜ隣国への留学をそんなに急ぐ必要があるのだ。
「お前は王家の人間だ。己の望みよりも、国の利益を優先することを学べ」
それが王族としての責務だと言わんばかりに、父は短く告げた。
この決定は覆らないだろう。ヴィンセントは奥歯を噛み締める。
王宮の中での地位も、権力も、なにもかもが遠く及ばない。
「ではせめて、近しい人に連絡を……」
「ならぬ。お前は第二王子だ。移動の情報が外に漏れることは避けたい。明日も招待客が集まる前に出立せよ」
「しかし、父上……!」
「ヴィンセント。お前に決定権はない。令嬢にはこちらから伝える」
父の言葉に、ヴィンセントの中で何かが音を立てて崩れた。
マリエッタに何も告げずに国を去るなど、そんなことが許されるのか。しかし、どれだけ抗おうと、決定は覆らなかった。
その夜、ヴィンセントは一睡もできなかった。
明け方、出立の支度を整えてから、ほんのわずかな望みに賭けてマリエッタのいるハフィントン侯爵家へと向かおうとした。
――しかし、それは許されなかった。すでに手を打っていた父が、ヴィンセントの馬車の利用を禁止していたのだ。
手紙を残すことさえ許されず、なにも出来ないままに無情にも出発の刻限を告げる鐘が鳴る。
重い足取りで馬車へと乗り込むヴィンセントの胸には、言葉にできぬほどの悔しさと、拭えぬ喪失感が渦巻いていた。
(マリエッタ様に、さよならも言えなかった)
こうしてひっそりと隣国に送られることに、いくらヴィンセントでも政治的な事情があることは分かる。
聖女に傾倒する王太子ジェロームに対して、懐疑的な声が一切ないわけではないのだ。
共に勉学を学んでいたシオドリックの生家であるマクナイト侯爵家は、この国に三つある三大侯爵家のひとつ。中立派であるマクナイト侯爵は、婚約者を蔑ろにするジェロームの姿勢を良く思っていなかった。
だから密かに、王に意見を陳情しているとシオドリックが教えてくれた。
ジェロームと過ごすより、シオドリックと過ごした時間の方が長い。放置されていたヴィンセントに、勉学の機会をくれたのもマクナイト侯爵だ。
きっと、ヴィンセントの存在がジェロームの即位の邪魔になると考えたのだろう。
(王位など、別に望んではいないのに)
ああでも、もし王位が手に入れば、あの美しい人の隣に立つことができたのだろうか。
アルヴェールでの留学期間はなんと十年。ヴィンセントが十八歳になるまで、この国に戻ってこれないという。
「マリエッタ様……マリー様、どうかお元気で」
どうせ誰もいないのだから、「義姉さま」と呼ぶのをやめた。初めて愛称だけで呼んでみて、そのくすぐったさに身をよじる。
馬車は無情にもぐんぐんと王都を離れ、手配された船に乗って国を離れる。
遠くなる故郷を前に、ヴィンセントはかの人の無事だけを強く願った。
*
「ラディアントで侯爵令嬢が大罪人として処刑されたそうだぞ」
ヴィンセントがマリエッタの処刑を知ったのは、アルヴェールに渡って一月と少し経った頃だった。
何気なく耳にした学生たちの会話に、心臓が凍りつく。
「……嘘だ」
そう呟いたものの、周囲の者たちは気に留めることなく、彼女の最期について噂を続ける。
「お、その新聞なら父がラディアントから取り寄せた新聞に詳細が書いてあったぞ。なんでも、嫉妬に狂って聖女を毒殺しようとしたとか」
「ハフィントン侯爵家も没落したらしいな」
ざわめく声のひとつひとつが、ヴィンセントの胸を鋭く抉る。
マリエッタが……毒殺? 処刑? 没落?
(ありえない。彼女がそんなことをするはずがない。あの穏やかで誠実で、正義感の強いマリエッタが、どうして――)
吐き気を堪えるようにして部屋に戻ると、友人でもあるシオドリックからの手紙が届いていた。
震える手で報せを確認しようとしたが、シオドリックが処刑を知って調べようとしたときにはすでに公式の記録には「マリエッタ・ハフィントン、王宮への反逆により処刑」としか記されていなかったそうだ。
理由も詳細も分からぬまま、ただ事実として彼女の死だけがそこにある。
「うっ……!」
その日は、何も食べることができなかった。眠ることもできなかった。ただ、喉の奥に鉛のような重さを感じながら、彼はただひたすらに考え続けた。
――なぜ、マリエッタが。
――なぜ、自分はこの場にいるのか。
――なぜ、彼女のそばにいなかったのか。
帰国を望んでも、叶うことはない。
父王はなおも「学びを終えるまでは戻るな」と命じた。何度嘆願しても、手紙を書いても、届くことはなかった。
……それでも、ヴィンセントは分かっていた。
もしあの時、自分が国にいても、当時の自分ではきっと彼女を救えなかった。
もっと自分に力があれば、マリエッタは、死なずに済んだのではないか。
(なんて……なんて無力なんだ。肩書きだけの第二王子なんて……!)
少年は、初めてその身分を呪った。
それからの彼はただ、生きるために生きた。感情を押し殺し、役目を果たすために学び、剣を振るい、魔法を研ぎ澄ませた。
力が必要だ。
いつか、国に戻るその日まで。
その時、すべてを知るために――。




