*閑話・忘れられない面影①
ヴィンセント視点・三話続きます!
「このお茶は、とてもよい香りがしますね」
八歳のヴィンセントは湯気の立つカップを手に取りながら、静かに言った。
白磁のカップに淡い緑の液体が揺れ、ほのかに甘くさわやかな香りが立ちのぼる。
「カモミールと、レモンバーベナが入っているの。落ち着きたいときや、夜に飲むとよく眠れるのですよ」
向かいに座るマリエッタ・ハフィントン侯爵令嬢はにこりと微笑みながら、カップを傾けている。
その仕草はとても優雅で、幼いながらに見とれてしまう。
兄ジェロームの婚約者として紹介された侯爵令嬢は、身分が低い妃から生まれ、日陰者としてしか扱われてこなかったヴィンセントにも礼儀正しく優しかった。
いつも優しく声をかけてくれるし、こうして兄の代役として招かれた茶会でも嫌な顔ひとつせずにヴィンセントにいろいろなことを教えてくれる。
本来であれば、婚約者であるマリエッタは誰よりも尊重されるべきなのだが……このところ、兄は召喚した聖女とやらに夢中で、マリエッタのことを顧みない。
兄のその態度が伝染しているのか、彼の周囲のものたちもマリエッタのことを軽く扱うようになっていることは、ヴィンセントにも分かった。
だが、自分自身も軽んじられている第二王子だ。
彼女に救いの手を差し伸べることもできず、ただこの時間が彼女にとって穏やかに過ごせればとそればかり願っている。
マリエッタが愛飲しているというその紅茶を手に取ると、いつもとは違った香りがふわりと届いた。
「そうなのですね。……では、眠れないときに飲むとよいのでしょうか?」
ヴィンセントはマリエッタに尋ねる。
「ええ。ヴィンセント様も試してみてください。お薬に頼るより、ずっと身体に優しいのですよ」
「そうなのですね。僕も試してみます」
マリエッタの言葉に、ヴィンセントはそっとカップを口元へ運ぶ。
少し熱いが、口の中に広がるやわらかな風味に、自然と表情が和らいだ。
(マリー義姉様は、よく眠れていないのでしょうか)
ヴィンセントはそっとマリエッタを盗み見る。
白磁のような白い頬に、少しだけ疲れの色が見える。笑顔もどこか覇気がないように思えて、ヴィンセントは胸のざわめきを感じた。
彼女は多忙で、朝からジェロームの執務の手伝いをして、妃教育として様々なことに取り組んでいると聞いている。そしてジェローム本人は、仕事のほとんどをマリエッタに任せて、神殿に入り浸っているのだ。
王妃がこうして強制的に茶会の時間を設けているのに、彼が直前にいつもキャンセルしていることを知らないのだろうか。いや、知っていて敢えてやっているのか……。
あまりにも完ぺきすぎる令嬢、マリエッタに対して、王妃が必要以上に厳しくしていることは前からひっそりと噂されていた。彼女が王太子妃となる前に、上下関係を教え込む意図があるのだろう。
(こんなに頑張っていらっしゃるのに、どうして兄上は……!)
ヴィンセントの小さな胸に怒りの炎がじんわりと宿ったとき、ふと、マリエッタが目尻のあたりを指で押さえるのが見えた。
「マリー義姉様……? どこかお加減が悪いのですか?」
「あら、ごめんなさい。わたくし、少し眠くなると、こうしてこめかみを押さえる癖があるのです。無意識みたいなのだけれど……ふふ、お恥ずかしい姿をお見せしましたね」
「……そうなのですね。マリー義姉様、無理はされないでください。お茶会も早く切り上げてお休みいただいても大丈夫です」
ヴィンセントは彼女の癖をじっと見つめながら、小さく息を吐いた。
本当はまだこうしてマリエッタとの時間を楽しみたいが、彼女が無理をしてまで参加することはない。
もう開催されたという事実だけはあるのだから、早く終わって彼女を心休ませることができればそちらの方が良いとも思える。むしろ、そうすべきだ。
静かな庭園に、春風がやわらかく吹き抜ける。揺れる白薔薇の花々を前にして、マリエッタは愛らしく微笑んだ。
「ヴィンセント殿下とこうしてお話をして、ゆっくりお茶をいただいて寛ぎすぎてしまいました。ヴィンセント様がよろしければ、もう少しこうしていたいですわ」
「ぼ、僕は、マリー義姉さまがいいのであれば……」
「ありがとうございます、ヴィンセント様。わたくし、この庭園でのお茶の時間がとても好きですの」
「っ!」
白薔薇と彼女の姿が重なり、ヴィンセントは瞬きをした。
彼女の口から紡がれた『好き』という言葉にどうしようもなく心が騒ぐ。自分に向けての言葉ではないと分かっているのに、鼓動は早まり、変な汗をかいた。
(──今なら、了承してもらえるかもしれません)
ヴィンセントの脳裏に、そんな策略めいた想いが芽生えた。
拳にぎゅっと力を入れて、ごくりとつばを呑み込む。
「マリー義姉様!」
「まあ、どうかいたしましたか?」
よっぽど思い詰めたような顔をしていたのだろう。マリエッタは目を大きく開けて驚いた顔をしている。
先程お茶を飲んだばかりだというのに、口の中はカラカラだ。だが、この機会を逃せば彼女にこんなお願いをすることはできないという判断があった。
「今度、兄上の生誕を祝う夜会が開かれますよね。僕も、その夜会に参加していいと父に言われたんです」
「まあ、そうなのですね」
通常、成人していない貴族子女は夜会には出ることはできない。だが今回は、兄の誕生祝いの夜会ということで、父に頼んで特別に許可をしてもらっていた。
別に、兄を祝いたい訳ではない。ヴィンセントが夜会に出る目的はただひとつだ。
「マリー義姉さま。僕のファーストダンスのお相手をしていただけませんか?」
言えた。言い切った。
マリエッタの反応を知るのがこわいが、今目を逸らすわけにはいかない。
こんな機会はまたとないだろうと、ヴィンセントは理解していた。
来年には成婚し、マリエッタは王太子妃となる。ヴィンセントが成長すれば、こうして無邪気にダンスの相手を申し出ることも叶わないだろう。
マリエッタに弟のように思われていることは、ヴィンセントも子供ながらに理解していた。
でも、それでもいい。
彼女が幸せになることを見届ける覚悟は出来ていて、それでも思い出がほしいと思ってしまっただけだ。
「──光栄です、ヴィンセント殿下。でも、本当にわたくしでよろしいのですか?」
「っ、マリー義姉様がいいのです!」
思ったより大きな声が出てしまって、ヴィンセントはカッと顔に熱が集まるのを感じた。恥ずかしい、だが。
「ふふ、ありがとうございます。殿下に恥をかかせることのないよう、しっかり練習しておきますね」
マリエッタはそんな自分にも微笑みかけてくれた。嫌々引き受けたようには見えないと思う。そう、思いたい。
(やった……! マリー義姉様とダンスが踊れる!)
早速自分も練習をしなくては。
ソワソワとした気持ちでお茶を飲む。
「マリー義姉さま、無理はなさらないでくださいね?」
「殿下、ありがとうございます。わたくしが頑張れば、この国の皆がより幸せに暮らせるのですもの。どんなことでも学びたいと思っています」
「……はい」
マリエッタは、どんな時も自分以外を優先させる。
きっとヴィンセントも、彼女にとって守る存在のひとりなのだろう。
兄にそんな彼女を守ってほしい。願わくば──あと八年早く生まれていたらと何度思ったことだろう。
「次にお会いするのは夜会ですね。楽しみにしています」
ヴィンセントはなんとか作った笑顔をマリエッタに向けた。
「はい。わたくしも」
マリエッタがそう微笑み返してくれるだけで、今のヴィンセントには充分だった。




