11 夜の庭園
王宮の夜はひっそりと静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のように、長い廊下には人影がなく、冷たい月の光だけが窓から差し込んでいる。
(なんだか落ち着かないわ)
エイダと庭園でひとしきり盛り上がった後、夕方に部屋に戻ってしばらくするとシオドリックがやってきた。
また何かあったのかと身構えたら、彼にはこれまでのことを勢いよく謝られた。
マリーの世話に対してわざと手を抜いた者、暖房器具を隠した者、掃除を怠った者、それから花壇を荒らした者については早急に処罰すると言っていた。
最初とはまるで違うシオドリックの言動に、マリーは目を白黒するばかり。そして彼の指示で運ばれてきたのは、これまでとは正反対の食事だった。
新鮮なサラダに柔らかな白パン。よく煮込まれたシチューとデザート。できたての食事はどれもあたたかで美味しく、さすが王宮の料理人だとマリーも舌鼓を打った。
贅を極めているわけではなく、素材の良さが活かされたすばらしい食事だった。
ワインをどうかと勧められたが、マリーは固辞した。ワインは嫌な思い出があって飲むことができないのだ。
それから湯が運ばれてきて、マリーは丁寧なメイドたちに身体の隅から隅まできれいさっぱり洗われて、それからマッサージまで施されてしまって今に至る。
とってもほこほこだ。
(なんだか、居心地が良くなった気がする。マクナイト様のおかげかしら)
王宮基準がよくわからないが、今夜の待遇は伯爵家よりも豪華だった。そのことだけは確かだ。
おかげでいつもよりもたくさん食事を摂ったマリーは、お腹がいっぱいになりすぎて眠れない事態に陥っていた。
出された食事を残してしまっては申し訳ないと、少し張り切りすぎたかもしれない。だから、仕方ない。
エイダもデイモンも下がったあと、マリーはこっそりと部屋を出た。
昼間に一度訪れたあの庭園で夜風にあたっているうちに、きっと身も心もすっきりするだろう。そう思ったのだ。
「やっぱり、この庭園はとても素敵ね」
月明かりに照らされた庭園は、昼間とはまた違う表情を見せていた。
白や薄紫の花々が夜露に濡れ、星のように輝いている。花壇を囲む石畳の道には、淡く光る魔道具のランプが並び、辺り一帯が幻想的な雰囲気に包まれている。
まるで目の前にも星空が広がっているかのようで。白い花がランプの光で柔らかに照らされている様はとても幻想的だ。
この白い薔薇とリリーをもう一度見たかった。
マリーは満足げに花に触れると、そっとその花弁に顔を近づける。
高貴で優雅な……大好きな香り。ティンダル家の庭にも薔薇が咲いてはいたけれど、やはりここの薔薇は手入れも一級品だからかより香りを強く感じられる。
(……誰か、いるわ)
ふと、庭の奥のベンチに目をやると、人影があった。
銀色の髪が月光を浴びて輝いている。その背中にはどこか寂寥感が漂い、彼が誰なのかすぐにわかった。
「ヴィンセント……?」
マリーは小さく呟いた。そこには確かにヴィンセントがいる。
彼は遠くを見つめたまま動かない。手元に持つランプが微かに揺れている。
(……どうしてこんなところに一人でいるのかしら)
マリーは音を立てないようにして、その横顔をじっと見つめた。
冷酷で恐れられる皇帝の面影は、そこにはない。どこか寂しげで、幼い頃のようにあどけなくも見える。
ただ、一人で過ごしたい夜に、こうしてマリーと会ってしまってはきっと気分を損ねてしまうだろう。
彼が聖女の存在を疎ましく思っていることはよくわかっているつもりだ。
その静けさを壊したくなくて、マリーは息を殺して後ずさろうとした。
しかし、その瞬間、ヴィンセントがゆっくりとこちらを向いた。
「誰だ」
低く響く声に、マリーは思わず立ち止まった。
「………聖女か。こんな夜更けに、何をしている?」
ヴィンセントの視線は確実にマリーを捉えている。いまさらごまかしはきかないだろう。
「申し訳ありません。少し、眠れなくて。お昼に見た庭園が素敵だったので、また見たいと思ってしまって……」
そう答えると、ヴィンセントはしばらく無言のまま彼女を見つめる。
赤い瞳が月明かりに反射し、マリーにはどこか儚げに見えた。
「庭園が好きなのか?」
その問いかけに、マリーは小さく頷く。
「はい。ここにいると、不思議と心が落ち着くような気がして。特にこの薔薇とリリーがとても好きです」
嘘偽りのない気持ちを伝えることにした。昔から心を慰めてくれた花々が、こうしてまたきれいに咲き誇っていることがうれしい。
「……」
勝手に庭園に来たことを咎められるかと思ったが、ヴィンセントからはそうした気配は全く感じられない。
ヴィンセントは小さく息を吐き、再び目を逸らした。
「……それなら、好きなだけいればいい」
ベンチから立ち上がると、それだけを言い残してヴィンセントは庭園から去って行く。その背中には、どこか影が差しているようだった。
マリーはヴィンセントがいなくなった後に、静かにその場に座り込む。
あの少年時代の明るいヴィンセントをすっかり変えてしまったもの。第二王子だった彼が王の責務を背負うことになった経緯。それから聖女に対する風当たりの強さ。
「わからないことだらけね。私も」
ここに咲く花々だけは、昔と変わらない。
マリーという存在の中に、かつてのマリエッタの記憶があると知られてしまったら、どうなるのだろう。
夜空を見上げながら、マリーは彼の背負うものと自らの責務についてぼんやりと考えを巡らせた。




