雑味のすくない隠し味
サブスクライブというものがある。
定額制で多くの作品を視聴できるという代物だ。いや正確にはサービスだ。
「天皇の料理番」という作品をみる。
論理的な知性から生まれた非論理的な伝導性は、最近のビジネス書のような雑味を隠しきれない隠し味が如何に無意味であるかを思い知らせてくれるものであった。
ここで一つ感じたことがあった。
普通の欠落が生み出す普遍的価値の矛盾は如何にして説明できるだろうか。普通のことができず、料理という一物を天から与えられた杉森は、全方位にありふれた普通を持つ消費者の舌に鼓を打ったのだ。他の例でも言える。前提として良いも悪いも、悪意も差別もあるわけではないのだが、自らのエクスプレッションにより多大なる名声、もしくは多くの付加価値を創出する人々の中には、個性を強く持ち合わせている者が一定数いる。サヴァン症候群には天才が多いと通説で言われていることからもある程度の共通認識は確保できると信じているが、これが自己中心的な群衆思考の餌食にならないことを祈るばかりである。話を戻すと世間でいうインクルーシブな意味合いでの平均的能力が比較的小さな円を描く人々には、特定領域に関してその平均値を大幅に上回るタレントを持ち合わせていることがあるのである。またその突出した才能が具体化した所謂"作品"には、私を含めた多くの多角形を丸にしようと胡麻を擂るしか能のない、出来もしない作業に明け暮れる凡庸たちが尊大なる評価を授けるのである。円周率の終わりさえ求められない私たちが完成した鋭角を築いたものたちを同じ観点で評価する資格はあるのだろうか。そこには矛盾が発生してはいまいか。
まずはその鋭角の才能について考えたい。もちろん海馬から筋肉への伝導性という点もあるが、最も根底的な点はその感受性ではないだろうか。発生した一つの事象に対しても各個人によってその印象は異なる。というか異なってもらわばければ困るのだ。ただその受け取り方に一定程度のレンジがあることは確かだ。主観に過ぎないため良い悪いは述べることができないが、当該の者たちは中央値付近というよりは、もっと外れ値に近い印象を持つことが多いのであろう。しかしこの外れ値が具体化された時、人は躊躇いもなく自らの印象を踏み破り、大きな喝采を捧げるのである。通常は外れ値は結果を惑わす要因として除外される。しかし、今回の場合だと覗かれるどころかむしろ外れ値に有意性を見出している。この点に関して疑問となるのは凡庸共の主観だ。そもそも自分よりも秀でた作品を評価する眼力が備わっているのか。備わっていなくとも、比較的多くの人が名目的な審美眼を持ち合わせているのか。マーケットから見て優れたマイノリティには一体どんな力が込められているのか。ここを考えたい。
この力は大きく二つあると考えている。一つ目は共通項の多さだ。例えば絵画など、作品として表現されるものの多くは、国や文化に関わらず多くの人が日常的に手に触れ、目でも触れるものであるため一定程度の基礎体力が身についていると考えられる。もちろんそれが眼力に繋がる訳ではないが、少なくとも手で触れているからこその描写の難しさやアイデアの独創性などは感じやすいのかもしれない。(感受性だけでなく、神経伝達の面もあるかそこは今回は触れない)二つ目は独創性だ。前者と被る点もあるものの、やはり自分及びそれと似た主観からは派生することのない描写や構成はインプレッシブなものであり、新たな気づきを与えてくれることもあるだろう。上記の点から力についてその表層だけでも汲み取る努力を見せた。しかし、力の解明にはなぜそれらが良いものとして認知されているかがわからない。多くと異なる独創的なものとして存在する理由は一応明らかになったものの、それが評価につながる理由までは辿り着けなかった。もしも独創性が評価へ直通するルートがあるとしたら話が面倒くさくなる気がするが何かしらの人を魅了する力があるのは確かだろう。そして、円を磨いているからこそ得体の知れないその隠し味の正体には気づくことができないのかも知れない。隠し味を求めようとも思ったが、想像以上に雑味が出てきたのでここで終わりたい。




