偏った勝利宣言
まだ見ぬ土地も見慣れてきた。
住めば都とはよくいうが、元々田舎だから住めば田舎といったところか。なんだかネガティブに聞こえてしまうのは気のせいだろうか。
この紫にも入り混じらない不毛な土地に来てから気づいたことがある。もっと入り混じらないものがある。人種だ。ただ人種それぞれというわけでなく生息範囲に由来する言語グループについてだ。まあvice versaだが。決して差別的な表現ではなくずっと直接的な表現だと思っていただきたい。差別ではないだけでギネスみたいな色の感情はある。
ではそもそも私のような人間たちどのような目的を持ってこの地に降り立ったのかについて考えたい。意思も意識も少しは発展した現代なら能動的なジョン万次郎は少ないだろう。もしも前述前半部分が正しい場合のみだが。(これはまた別の問題であるので他の機会に考えたい)もちろん人の数だけ目的もあるはずだから、詳細なところは千も万もあるはずである。しかし、彼らには共通する事柄があると考えられる。異文化だ。まず異文化に関して、たとえこのような地に来ることが受動的な結末による者だったとしても、この地この場所を選んできているのだから何かしらの動機があるはずであり、そのマジョリティがこれだと言えるだろう。このような思考において少数派は議題の複雑化を推進するだけであるためは善悪とかではなく功利主義と同じ矢印を向きたい。また、少数派の部分集合である、いやそもそもベン図の外にいる、思考を持ち得ない資本主義の傀儡もまた除外したい。これは善悪とかも含めてである。また後で触れる。異文化という動機を大半が所持していると仮定したので、次に具体を調べていきたい。今回の場合、異国の学び庭にて直接赴かないと体験できないこと、人との関わりに限定したいと思う。順序が逆なのは百も十重承知だがこの現地の人との関わりが自身が焦点としたい箇所だ。ちなみに重さを足したのは意図的なものである。人との関わりについて逆行しそうではあるがボーダーレスの現代では意欲さえあればどこの国の人ともコミュニケーションを取ることは可能だ。しかし、そのような行為はここで述べている「直接赴かないと体験できないこと」とは意味が全く異なると考えられる。後者の例は自身の国について好き嫌いに関わらず興味を持っている人とのコミュニケーションである。そのため両方向の矢印だ。一方前者はどうだろうか。異国から来た我々は所詮知らない隣人でしかなくベクトルが初めから両方向を向くことは少ない。このような状況でも無理やり、または自身の国ではなく自分自身の魅力でベクトルを向かせるしか方法はない。身の回りにある武器でなく自分の拳を使わないと攻略できない人との関係、これこそが交流に関する異文化だと私は考える。少し脱線をして話題を飛び火させたいと思う。この考えに基づき、私は語学留学において異文化理解を唱えるものに賛同できない。語学を学ぶという上では、異国の文化を知るという上では、素晴らしい経験だと思うが、ベクトルは初めから両方向であることが多い。ここで発生する一方通行は単に人間性の相違や時には差別という点になってくる。
次に先ほど除外したマリオネットについて考えたい。異文化理解において相手のベクトルが向こうが向かまいがその努力の過程は異文化理解として経験値になるし、そのベクトルの反発が強ければ強いほど異文化理解を深めることができると思うが、マリオネットたちはその選択肢を捨て履歴書での一言のために数年間を過ごしているのである。個人の自由だから私が何か言う、することはもちろんないのだが、ここで出てくるのが冒頭の人種だ。異文化理解に挑戦した結果なのかは知らないが言語によるグループというものが私の大学では多く見られる。それは敵前逃亡をしているか、将又戦場に赴いていないかだ。これは矛盾していないだろうか。封建主義や共産主義とは異なり今は資本主義であるのだから資本という名の釣り餌に我々は食らいついていくしかない。神は見えない手で釣竿を引き上げたり、何もしなかったりするが、餌の周りは洗浄も同然であることは確かだ。つまりだ。資本主義の傀儡たちは資本主義の産物にして資本主義の中で生きていくための体づくりがを持っていではないか。現代的な武器を使うのだろうがそもそもの基礎ができていないし戦場での戦果がないかが実用性がまるでない。
ここまで大分主観的批判が続いたが、要は皆人それぞれだということだ。数年後絶対に負けるとは思わないが。