サルサよりサノサ
例えツッコミは今や実質的に電気代を安くした、いやさせられたテレビにおいて多く見られる芸である。レンズの前で起こった出来事に対して、歴史窓の中から類似している事柄を拝借して言語という媒介を通して発信することで笑いが生まれる。しかし、その出来事と同じ瓜は人類による客観性を志した表層の歴史だけでなく、それより下層と照らし合わせても一つとないはずである。では、笑いが発生する許容範囲は一体どこなのか。抑、出来事は一体どのように捉えられているのだろうか。まず出来事という概念を抽象の玉座から引き摺り下ろしたい。私は、出来事は大きく二つに分類することが可能だと考える。一つ目は、外殻としての事象だ。出来事の前後左右に存在している、いや存在していた因果の存在を一度断ち切り、その事象の触れることのできる部分にのみ着目してみる。二つ目は、内殻としての事象だ。先ほどとは反対に、その骨組みを一度取っ払い、その中なのか前後左右なのかは今を生きる我々には認知できないが(にふい音が聞こえそうだが)、因果に着目してみる。このようにして一方的による客観的な出来事の解釈が一段落したが、それはもちろん、眼前で発生する出来事を必ず因数分解することを意味しない。出来事という概念を理解するためにバラバラにしたものの、実社会ではこれらを総合的に判断して、目の前で起こっている出来事は捉えられている。こうしてやっと我々の抽象との戦いは千秋楽を迎えることができたのだ。
しかし、ここで新たな問いが生まれる。例えツッコミは出来事の外郭を中心につっこんでいるのか、はたまた内殻に対してつっこんでいるのだろうか。理想とされるべきは両者から同等分を持ってくることであるが、それは当人の器量だけでなく本当の意味での客観的観察者が存在しない(精神的な意味では存在する、もしくはすると信じられているが)という意味でも常に非ない程に困難なことである。ではなぜ笑いが発生しているのだろうか。観客それぞれは人面を所持する土偶である訳ではないのだから、その基準には何らかの差異があるはずである。にも関わらずコンセンサスが取れていることは不可思議なことであり、まして芸人自身が適当な配分を知らないのに、その虚像の正解で笑いが生まれているのは、果たしてお笑いと呼べるのだろうか。
もちろんその誤差が小さいのだから芸人なのだし、それが誤差の範囲であるからこそ笑いが生じているのだろうが、正解のない暗闇の中で生み出した虚像の結果が人の最も明るい感情である笑いとは皮肉なものである。