抑、論じて何になる
言語、特にそれらを他媒体に売り込む場合、生クリームが出来てしまう程にかき混ぜられた無機物が屡々見受けられるが、これらは所詮オリジナルの前頭葉で構築された独りよがりな暗号に過ぎない。この冒頭に関しては締めに触れるが、そもそも、受け身の相手に対して複数の工程を強いている時点で、それは既に文章ではなく無機物の羅列に過ぎないのである。では、そもそも、冒頭を例として挙げられる言語の本来的な役割とは何なのか。一つ目は、今のような不可解な事実・繰り返しを避けるためだ。それは富士の大地の外殻に染み込んでいるのか、内殻なのかは分からないが、刀にその道を示そうが示しまいが、我々が既に洗い流すことのできない感性の一つである。これは、この国特有の言語を操作する者としてのある意味責任でもあり、だからこそ比喩とか諺なんて遠回しな言い回しが生まれたのだろう。二つ目は、皮肉なことだが、情報の発信者がただ発信者に留まるのではなく、翻訳家・解読家として作用することだ。未知に対応するために、その道順を示してくれる。なぜなら、他人の家にある引き出しは強盗でもしないとわからないからだ。しかし、昨今を比較すると鏡合わせになっているではないか。もちろん前者が真だ。考察などとのたまわり、ありもしない虚無世界に感謝の手を伸ばしているものが多くいるが、これも多様化といえば許されるのか。ああ、これは誤りか。もちろん謝りではない。
私個人の意見としては、結果論に近しい気質を持っているからかもしれないが、趣味に辛抱できなかったのだから手段が目的となった場合、それは道端に落ちている石ころと同義ではないだろうか。しかし、それをダイヤモンドだと言って聞かない人が多数いるのも事実だ。
いやはや始まりに立ち返って考えようではないか?、え