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我思うこの頃  作者: ジツリョクドリ
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受け身ではなく能動で

私は今生きている。

確かに、いや多分生きている。

心臓は休まず働ているし思考もはっきりしてる、なんなら気のせいかいつもよりもはっきりしている。

しかしなぜだろうか。生きている実感が、生を肌の一つ一つに感じることが最近ないのだ。

衣食住には苦労しておらず、人並みに贅沢もしてきた。勉強だって割とできるほうだ。悩みだって身もだえるようなものは特にない。

 ここで私はひとつの疑問が生まれた。何もないからではないのか?人生を生きる上では株価のチャートのように浮き沈みが必要なのでは?

人が死からもしくは現状を脱却して上に上がったとき、もしくは下に落ちたとき人は生を実感するのだろうか。漫画でもよく命知らずな行動をとって生を実感しているキャラクターがいる。確かに生きているから死が直面することがあるし、成功を収めて生きている自分の頭で考えた暮らしを手に入れ生を実感できることもあるだろう。しかしだ、では今の自分の状態は何なのだろうか。チャートの浮き沈みが激しい状態の山も頂点の時点で生を感じるというのであれば、リスクもリターンも少ない今の自分は生きていないのではないだろうか?正確には確実に生きてはいるが命に生かされているだけではなかろうか?

  しかし、いやしかしではない。もし今の私と同じ状態の人がいるのだとすればきっとその人も生きはおらず生かされているのだ。自分たちの手綱の先に命がついていて、命が先に歩いていくのに引っ張られて我々がついていっているのとなんら変わりはないのだ。非常に長い目で見ればやっていることは死人と大きく変わらない。四捨五入するか切り捨てるかの違いだ。

 では生きるためにはどうしたらよいのか。浮き沈みの激しい波に突っ込んでいってサーファーみたいにうまく乗りこなしていくしかないのか。

 ここでまた疑問が生まれた。ではなにをすればよいのか?なにをしたいわけでもないから生きていない自分が波に乗れるわけがあろうか。そんなものを作れるのであればきっと昔に作っていただろう。それがないから今この状況に陥っているのだ。ずるずるとこの状況を長引かせ駅に降り逃してしまった。ましてや自分がどの列車に乗っているのかもわからない。各駅停車でゆっくり進んでいくかもしれないし。快速で電車に揺られてうとうとしていたら終着駅についてしまっている可能性だってある。電車の内側からしか外を見ることができない我々にとって列車の種類を確認することはできないのだからゆっくりもしていられない。だから興味のあることが向こうから歩いて来るのをじっと待っていてはもったいないのだ。席をたって自分から歩きださねば。もちろん「なにか」はなかなか見つからないだろう。もしかしたら「なにか」なんて存在しないのかもしれない。けれど、もし何もなく何もなさないまま終わってもいいではないか。きっとその人生は既に生かされていた人生ではなく生きようとした人生に代わっているはずだ。

 そんなことを書きながら私も何かを探しにそろそろパソコンを閉じ椅子を立とうかと思う。いつ電車のアナウンスが聞こえてくるのかは誰にもわからないのだから。


 


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