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幸いなことに、小学校裏門のすぐ近くに猫場があった。
それを狙ってボストンバッグの落下地点を決めたわけではなかったが、無意識のうちに、わたしはそこまで考えて計画を進めていたのかもしれない。
毎年時期が決まってはいなかったが、春と秋には子猫が生まれた。
子猫は普通に可愛くて、人懐っこいのも、警戒心が強いのもいた。
相手が子猫ならば、ある程度の距離まで近づくのは簡単だった。
だが、知性に優れた動物は人の心に敏感だ。
それに子猫のすぐ側には親猫がいる。
親猫の子猫に近づく何ものかに対する警戒心にはただならぬものがあって、こちらにその気がなくてもフギャアァァと喚いて素早い威嚇を仕掛けてくる。
子猫がボケたトロい子で、目の前に差し出されたエサなどを不思議そうに首を捻りながらぼおっと見つめているような場合でもお構いなしだ。
ましてや、子猫を捕まえて殺そうなどと考えている不謹慎なわたしに気がつかぬわけがないだろう。
だが賢いといっても動物はどこまでも動物であって、頭が良いと言われる大型犬だって、せいぜい五、六歳の人間の子供並みだ。
それが子猫だったら、人間の赤ん坊とそんなに変わらないだろう。
いや、動物だけに、まるで無防備な人間の赤ん坊よりは賢いのかもしれないが……
とすると、生贄は人間の赤ん坊の方が手に入れるのは簡単だろうとわたしには思えてきた。
もっとも動物だったら、たとえそれが見つかっても器物ソンカイだし、飼い主がいなければ、それにだって当てはまらない。
だが、人間の赤ん坊だったら殺人罪だ。
わたしはまだ子供だから警察に捕まっても死刑になることはないだろう。
前に母が調べていた小説の資料の中にそれと関連する内容のものもあって、早ければ一年しないでカンベツショだったか、少年院だったか、から出てくることもあるらしい。
それはともかく、わたしが赤ん坊を殺したら、母はわたしのことをどう思うだろうか?
迷惑なのは間違いない。
なにせ、赤ん坊を殺した犯人が自分の子供なのだから……
だけどメリットだってあるだろう。
その殺人事件が報道されれば母は有名になれるはずだ。
有名になれば母自身に興味を持つ人も現れて、小説が売れるきっかけを掴めるかもしれない。
もっとも、その時点で世間の人たちが求めるのは殺人者となった子供の母親としての手記だろうから母の苦労がすぐさま報われるわけではないが、とにかくきっかけだけは掴めるはずだ。
母は精神的に強い人だから、他人にとやかく言われても壊れてしまうことはないだろう。
むしろ、それをバネに自分の選んだ道を突き進んでいくのではないかと思える。
それとも、そうではないのだろうか?
母がこれまで味わってきたような苦労は実は世間ではありふれたもので、いくら気丈な母といえども四六時中赤の他人から自分の子育てを非難され続ければ、やはり精神的におかしくなってしまうのだろうか?
わたしにはそうは思えなかったが、人の心など、すぐに変わってしまうものだ。
わたしが自分や母のために食事を作ったりしはじめた頃、わたしは何人かの友だちを失った。
学校が終わるとすぐに家に帰ってしまい、休みの日だって洗濯や掃除に追われてほとんど家から出なくなったことが原因だった。
もちろんわたしの事情と心の内を無言で察し、わたしを遠くから見守ってくれる友だちもいた。
けれども最初、わたしが友だちだと思い込んでいた大半の小学校の仲間たちは、わたしの中で友だちから単なる知り合いにラベルが貼り変わった。
元々わたしは気難しいところがあって仲の良い友だちがそれほど多くいたわけではない。
それでも幼稚園や小学校からずっと一緒の近所の子供たちの誕生会には出席したし、互いの家に遊びに行ったり、呼んだりもした。
もっとも、わたしの家に来たところで母がいないので友だち二人か三人でただ遊ぶだけだ。
その家の母親がその場で作った焼き立てのホットケーキも入れたての紅茶も出てこない。
だが、それが面倒がなくて楽しいと言う友だちもいて、叱る人がいないので夜暗くなるまで気づかずに過ごしてしまい、相手の親に心配されて、もう少しで困ったことに巻き込まれてしまいそうになったこともあった。
その子たちとは結構楽しく遊んだ思い出があるのだが、その中の一人は二年前に親の転勤で転校し、付き合いも絶えた。
最初の数回は手紙のやり取りもあったのだが、それも時とともになくなった。
年賀状と暑中見舞いだけは今でもやり取りが続いているが、それで友だちと言えるかどうか?
わたしには、かなり微妙な気がした。
もっとも彼女とだったら、会えばまた普通の友だち関係に戻れるように――もしかしたら一方的だったかもしれないが――、わたしは強く思っていた。