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わたし母が好きだった。
だが、同時に怖れてもいた。
その怖れは暴力的なものではなかった。
母は人に向かって手を上げるような人ではなかったからだ。
わたしが怖れたのは母に捨てられてしまうことだった。
母がわたしにまったく感心をなくしてしまうことだった。
だから、わたしは働く母の邪魔にならないように幼い日々を生きた。
怖ろしいことを想像しても泣かなかった。
祖父の家に泊まったとき、夜一人でトイレに行くのが怖くても我慢して一人で行った。
違う家の子供がその子の母親のまわりを笑いながらグルグルまつわりついているのを見てもマネをしようとはしなかった。
もちろん母の表情がそれを許したときは別だ。
だけど、そんなことは滅多になかった。
母の側から見れば、わたしが祖父の家に預けられた方が好都合だったと思う。
だが母はわたしと一緒に祖父の家に泊まりに行くことはあっても、予定が入ったとき以外、わたし一人を祖父の家に置き去りにすることはなかった。
それは母の意地だったのかもしれない。
ある程度物事がわかってきてからは、わたしはできうるかぎり母の手伝いをした。
邪魔にならない子供であることを常に心がけた。
簡単な料理ができるようになってからは自分用の朝食と夕食をこしらえた。
母が休みの日には、母にも料理を作ってあげた。
食器洗いや後片付けも行った。
部屋の片付けや掃除もした。
母が自分で洗うと断ったもの以外の洗濯もした。
母の肩が痛そうなときには肩をもんだ。
母の神経がイラついているときには、息を詰めて、できるかぎり静かに過ごした。
母はソコツでズボラあっても賢い人だったので、わたしの行為は認めていたと思う。
けれども母はわたしの目の前で子猫を殺すような人だった。
激しい言い争いの果てに、能力を見限った父をアパートから追い出したような人だった。
こうと決めたら、必ずそれを実現させるような人だった。
いまはまだ母は普通の人で、仕事だって誰にでもできるような雑誌社の使い走りをしているに過ぎない。
けれども、まだいっぺんも売れたことはないとはいえ、母の作品はわずかではあったが種々方面に注目を浴びてきているらしい。
家にも遊びに来る母の同人誌仲間が話しているのを聞いたのことがある。
母がこの先、自分の実力と運で成功の階段に足をかけるのか、あるいはこのままザセツしてしまうのか、わたしにはまったくわからない。
わたしは母に成功してもらいたいと思う反面、そうなって欲しくはないとも思っている。
成功の階段に足をかければ、もちろん母はそれに向かってまい進して行くことだろう。
そのとき、わたしは母の足手まといになってしまう可能性がある。
わたしが自分の足を引っ張っていると悟れば、母はためらいなくわたしを捨てることだろう。
わたしが憎いのではなく、わたしがいても自分に益がないからだ。
自分がお腹を痛めて産んだ子供なのだから、母がまったくわたしを可愛いと思っていないとは思えない。
だが、それと自分の成功を秤にかければ、当然成功の方を選ぶだろう。
それがわたしの母という人だった。
母がいつも怜悧で笑顔を見せないというのではない。
母の心に自己犠牲という言葉が存在しないというだけだった。
そして、わたしはそんな母の子供だった。
わたしは自分も母のような人間にならなければならないと思っていた。
恨みや妬みではなく、好きならばより簡単に、好きでも嫌いでもなければまったく関心を持たずに、人や動物やモノをためらいなく捨てられるような人間になりたかった。
わたしは母ではないし、まだ子供だったし、それにもちろん別れた夫も子供もいなかったから、そのままの意味で母のようになれるとは考えていなかった。
けれども、わたしはわたしなりに母に近づきたいと願っていたのだ。
できることなら、わたしが母に捨て去られる前に……
そうすれば、わたしはその辛さに耐えて前に進むことができるだろう。
そうしなければ、わたしはわたしが忘れ去られた無意味な絶望の中に沈むだろう。
そういうことだ。