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 思い返せば、結局あの頃のことと同じことをわたしはしているのかもしれない。

 約束の時間に数分遅れて、瀬川郁恵はわたしの指定したターミナル駅地下の喫茶店に現れた。

 後ろめたい気持ちがあるのか、自動ドアを通り抜けて、郁恵は後ろを振り返った。

 そこに知り合いでもいれば面白いとわたしは思ったが、郁恵がわたしの向かいに座ってもそれを口にはしなかった。

「済みません、遅くなってしまって……」

 恐縮した口調で郁恵は言った。

「家を出ようとしたら雨がパラついてきて、それで洗濯物を取り込んでいたら時間が経ってしまって……」

「構いませんよ」

 わたしは答えた。

「それで、まだわたしを雇うつもりはあるんですね」

 単刀直入に郁恵に尋ねた。

 すると郁恵は力なく首を縦に振った。

「それで、あの、主人は本当にあの女のところから戻ってくるのでしょうか?」

 郁恵の関心事は結局その一点にしかなかった。

 わたしは郁恵を哀れみも蔑みもしなかったが、可哀想だとは感じた。

 だが、それを態度には表さずに真面目な口調で質問に答えた。

「さあ、それがご主人の心の問題ならば、わたしには何とも答えられません」

 正直にわたしはそう言った。

 それ以外の言葉は慰めに過ぎなかった。

 わたしに出来るのは、郁恵の夫の最新の浮気相手になって現在の愛人の元から離れさせることだけだ。

 それは物理的なことであって心理的なことではなかった。

 それは肉体的なことであって精神的なことではなかった。

 もちろん、そうはならない場合も多々あったが……

 浮気相手からわたしが夫を奪ったその後の展開は場合や状況によって異なってくる。

 妻が夫と一緒にいるわたしの元へ乗り込んで来て修羅場を演じることもある。

 そのときは、わたしは自分を粗野で無能な女にして、半狂乱で泣き叫んで夫にわたしを恐れ、呆れさせ、妻の元へ返す手助けをする。

 もちろん夫は部屋から追い出してしまう。

 その先のことは預かり知らない。

 他には、わたしが夫の元を黙って去って行く場合がある。

 もちろん置手紙や電子メールを残してだ。

 その内容はどれも似たり寄ったりで、基本的には妻の夫に対する情愛を知って身を引くことにしたという設定だ。

 他にもあるが、子供や親の世話などがあり、妻が夫と縒りを戻したい場合はだいたいそんな感じになった。

 だが、最近は別の依頼も増えてきている。

 夫の浮気の常習に遂に我慢が出来なくなり、さりとて浮気の現場を上手く押さえられないときに、わたしを雇う妻もあった。

 正直言って、そういう場合は興信所に調査を頼めば良いと思うが、どこから聞いたのか、わたしのことを頼って来る主婦たちがいた。

 内容にもよるが、理由が正当で裏付けがあれば、わたしは仕事を引き受けた。

 そうでない場合は断った。

 断られて逆ギレする主婦もたまにはいたが、その場合には、わたしを知っていること自体が自分の身に危険が迫ることなのだと、知性のある女には遠まわしに、そうではない女には直接言葉で説明した。

 無論、それは嘘である。

 だが、その言葉を告げるときのわたしの態度と雰囲気に気圧されてか、その後トラブルに発展したことは一度もなかった。

 ふとしたきっかけで始めてしまった因果な商売だが、客があれば止めるわけにもいかなくて困る。

 けれども、わたしはいつまでもこんな仕事を続ける気はなかった。

 二十五歳を過ぎたら、都会の昼の中に隠れるつもりでいた。

 夜ではなくて、あくまで昼だ。

 無人格、無個性の昼の住民に戻ることが、わたしが自分で決めた足抜け法だった。

「場合によっては、わたしはご主人に身体を預けることになるかもしれませんが、崎原さんはそれに耐えられますか?」

 待ち合わせた喫茶店のテーブルの向かいで小刻みに身体を震わせている小柄で色白の主婦にわたしは尋ねた。

 それは、わたしが依頼主に必ず尋ねる質問だった。

 もちろん実際にそれが起こっても、わたしは依頼主にはそのような関係はまだ生じていなかったと嘘を吐く。

 依頼主が、信じる、信じないではなく、依頼主の心がその言葉に縋れるようにと配慮してだ。

 浮気上手な夫たちは、それこそ現場に乗り込まれるか、決定的な証拠を突き付けられない限り、のらりくらりと浮気を否定する。

 テクニックがあれば、それで妻を篭絡する。

 そういった場合、妻たちは大抵空閨にあるので、夫の誘いを断り切れない。

 またそこで断り切れるような女だったら、わたしの手などを煩わせずに、自分自身でさっさと事を進めるだろう。

 元々は彼女たちのせいではないのかもしれないが、わたしを頼る女たちは皆どこか精神を病んでいるように思われた。

 自分の判断が自分で付けられないようになっていた。

 独立して働きに出るには手に職がなく、また容姿は種々あったが、多くは若いとはいえない妻たちだった。

 時代は変わっても、この国の主婦たちの地位は真の意味で高くなったとは言えなかった。

「はい、大丈夫です」

 崎原郁恵は凛とした声でわたしに答えた。

 それから不安そうに、わたしにこう問いかけた。

「でも、埴生さんの方が主人に恋をしてしまうことは本当にないんですよね?」

 それに答えてわたしは言った。

「少なくとも、これまでのところそういった事態は起こりませんでしたし、おそらくこれからもないでしょう」

 わたしの答えに崎原郁恵が納得したかどうかはわからなかったが、彼女はしきりに首肯きを繰り返して、それを信じようとしているようだった。

「では、手続きをお願いします」

 わたしは事務的な口調でこれから発生する料金の説明と、その支払い方法を郁恵に告げた。

 それが済むと郁恵との連絡方法などを再確認し、わたしは彼女が先に喫茶店を出て行く姿を静かに目で追った。


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