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「飼えないから殺すのよ。他に理由はないわ」
そう言って母は、わたしが見ている前で、わたしにも良くわかるようにゲージに入れた子猫をゲージごと川に沈めた。
子猫は最初必死にニャイニャイと鳴き喚いていたが、やがてゲホッと咳き込んで、その後は声が聞こえなくなった。
わたしが三歳くらいのときのことだ。
「やってみると結構大変なのね。手が痺れたわ」
母は子猫の入ったゲージを回収する気はないようで、あらかじめ用意しておいた大きめの石をいくつかゲージの上に載せて、それが浮かび上がらないように細工をした。
次に大雨が降って水位や水の流れが変わるまで、重石を載せられたゲージはその場に沈み続けているのだろう。
子猫の腐乱死体とともに……
何が起こったのかよくわからず、びっくりしているわたしの手を取ると母は帰路に着いた。
川から歩いて五分ほどの安アパートまでの比較的良く歩く道だった。
そんな経験があったためか、あるいはそんな経験をしたのだと頑なに思い込んでいたためか、わたしはどこかの雑誌の投稿欄に記載されたある体験談を読んだとき、それを自分なりにアレンジして実行してみようと決めた。
小学校五年生のときのことだった。
計画にはある程度の大きさのボストンバッグが必要だったので、子供のときから変わらず暮らしている安アパートから電車を乗り継いで約一時間の母の両親の実家に遊びに行った。
自転車でも行ける距離だが、ある程度大きなボストンバッグを載せて自転車を漕ぐ自信がわたしにはなかった。
わたしの身体は華奢で、背こそはクラスの男子のほとんどより大きかったが、それだけのことだった。
同じ歳の普通の女子くらいの体力はあったかもしれないが、スポーツに長けた女子の足元にも及ばなかった。
だが背が高いのは、わたしの計画の役に立つはずだ。
屋上のフェンスを越して物体を落下させることが、その背のおかげで、それほど困難とは思われなかったからだ。
背の低い女子では難しかっただろう。
だから普段は持て余していた自分の身体の大きさが、そのときばかりはありがたいと思えた。
「おじいちゃん、ボストンバッグを持ってない? わたし、欲しいんだけど……」
祖父母の家に辿り着くと、わたしのことが可愛いらしい祖母に出されたみかんジュースを飲みながら、やはりわたしのことが可愛いらしい祖父に向かってそう尋ねた。
理由は言わなかった。
聞かれたら答える準備はしてきていた。
だが、祖父はわたしに理由を尋ねなかった。
そのとき何故祖父が、わたしがボストンバッグを借りたい理由を尋ねなかったのか、わたしはいまだに理解できずにいる。
単純に理由を尋ねて、わたしの機嫌を損ねることを怖れたということなのだろうか?
「もう、あまり旅行することもなくなったからな」
祖父は言って、家の物置に仕舞われたいくつかのボストンバッグを見せに、狭い庭の端に建つ物置までわたしを促した。
祖父はそのとき六十歳を越えていた。
わたしが十一歳で、母が三十六歳で、ついでだが父が三十二歳だった。
祖母の年齢はわからないが、祖父より上だと母から聞いたことがあった。
祖母は祖父の後妻だった。
「温子は、どれがいいんだ?」
広くはないが畳一畳よりは床面積のある物置には種々のガラクタに混じって数個の鞄がひっそりと置かれていた。
「これにするわ」
わたしはその中に積んで置かれた茶色のボストンバッグを指差すと言った。
大きさは、長方向に立てると長さがわたしの胸くらいまであった。
わたしの肩以上もある形違いのバッグもあったが、重さを考えて選ばなかった。
「でも、本当にもらってもいいの?」
わたしが問いかけると祖父はにこやかに首肯きながら、こう言った。
「構わんよ。ばあさんと何処かへ行くときは殆ど手ぶらで出かけるし、それを使うことはもうないだろう」
祖父の口調から、ボストンバッグはその昔祖父の仕事に使われたのだろうとわたしは推測したが、問いかけてまで確認はしなかった。
「ありがとう。じゃあ、もらいます」
わたしは言って、祖父に埃を払ってもらったボストンバッグを担いで祖母のいる居間に戻った。
用事は済んだが、それですぐ去るのは何だか申し訳ない気がして、しばらくわたしは祖父母の玩具になった。
「しかし温子はそんなものを何に使うんだろうね」
帰り際に漏らした祖父の一言が、唯一の疑念のようなものだった。
祖父の家から最寄り駅までの数分間、何度も持ち方を変えながら、わたしは空のボストンバッグを運んだ。
好奇の目で見る大人たちもいたが、わたしの覚悟を見取ってか、駅まで運んでやろうという者は現れなかった。
今思うとそれは、わたしの自立心を尊重してというよりは、妙な子供との関わりを人々が嫌ったためかもしれなかった。
年代物のボストンバッグは革が立派で内装もしっかりしていたので、想像以上に重かった。
電車ではさらに好奇の目に晒され、子供嫌いの大人や若者たちから直接手を出されることはなかったが、視線で明らかに邪魔者扱いされた。
実際、狭い車内を子供一人分以上の空間を占領し、通路や階段をのろのろと歩くわたしは邪魔だったと思う。
時代が今より大らかだったので、いきなり蹴飛ばされたり、ナイフで刺されることがないのが幸いだった。
父親は数年前にアパートを追い出され、母親は働いていたので、実験終了のあのときまで親にボストンバッグのことを知られる心配はなかった。
母は毎朝わたしより早く家を出て、当然のように夜はわたしより遅く帰ってくるので、その日、家に帰ったときにもいなかった。
アパートの部屋の大きさは2DKだったが畳が団地サイズだったので、決して広いとはいえなかった。
わたしはボストンバッグを勉強机の下に押し込むようにして隠した。
ボストンバッグは祖父から正当にもらったものだし、実際問題として隠す必要はなかったのだが、仕事で疲れて帰ってくる母親に普段家にはない非日常のモノを見せて精神をおかしくされるのを怖れたのかもしれない。
次の日、朝早く登校して、学校での隠し場所を捜し求めた。
校門には警護担当の教師が立っていたが、わたしがボストンバッグを学校に持ってきても当然のような顔をしていたためか、詰問されることはなかった。
近年では都市部の小学校の登校時の教師による生徒の護衛が半端ではないと聞いている。
わたしの計画は十年以上も前のことで、しかも都市郊外だったから実行できたのかもしれないと今になって思う。
五月のお楽しみ会が近かったのも、教師の目を逃れる格好の理由になったかもしれない。
十一月に開催される学校祭は全校的なものでクラスごとに趣向を凝らした出し物が対抗形式で披露されるが、五月のお楽しみ会はクラス単位の演芸会みたいなもので対抗するのは同じクラス内の班同士だった。
校舎に入ると、わたしは教室にランドセルを置いて、ボストンバッグの一時置き場になるだろうと見当をつけた屋上までをボストンバッグを担ぎながら階段を昇った。
最初に確認したのは給水タンクの設置された屋上出入り口の上だったが、ボストンバッグを屋上タイルの上に残して梯子段を昇って覗いてみると、そこに隠すのは可能なように思えた。
その場所に大人が昇るのは、おそらく給水タンクの点検のときくらいのことだろう。
教師が酔狂で昇るとはとても思えない。
威勢の良い高学年の男子や女子ならば何かの機会に梯子段を昇ることがあるかもしれないが、そこにボストンバッグが置かれていても気にすることはないだろう。
まあ、情緒不安定の子供だったら、蹴りを入れたり、下に落としたりするかもしれないが……
ただし、雨が降ってきたらお終いだった。
給水タンクは長方形のコンクリートブロック二本の上に設えられていたので、その隙間にボストンバッグを押し込んで隠すのは簡単だったが、雨水が流れ出せば同じだった。
ということを見取って、わたしは梯子段を降りて逡巡した。
結局屋上の踊場の隅に置いてある、当時としてもほぼ形骸化していたナイロンザイルが仕舞われた非常用の袋の中にそれを隠すことにした。
ボストンバッグの上にナイロンザイルを置いてバッグを隠す手間は、ナイロンザイルが重いので諦めた。
だから、わたしがしたのは解いた袋の紐をもう一度中身が見えないように結び直しただけだった。
その隠し場所はいかにも子供の浅知恵だったが、とりあえずその日、ボストンバッグが誰かに発見されることはなかった。
いや、もしかしたらすぐに発見されていたのかもしれないが、少なくとも騒ぎにはならなかった。