第二章 一
晴れ渡る空を見上げて、土屋杏子は深呼吸をした。
校舎の屋上からの景色は、いつでも杏子を癒してくれる。
受験勉強の合間に、杏子はよく屋上に来ていた。
昼休みなので、周りには学生がちらほらと見受けられた。
杏子は伊豆の中でも有数の進学校に通っていた。
十八歳ともなれば幾分大人びていてもいいものだが、杏子はお世辞にも大人っぽいとはいえなかった。
しかしその純粋無垢な可愛らしさゆえに、男に苦労したことはなかった。
むしろ人気が有り過ぎて困るほどだった。
「杏子、どうしたの。ボケっとしちゃって」
後から友人の声が聞こえた。
ふり返ると、学校内でも杏子以上に人気のある美少女が微笑みかけてきた。
「なんだ美咲かあ。ちょっと外の空気を吸いに来てたのよ」
「この田舎だもの、どこだって空気は綺麗じゃない」
「気持ちの問題よ。なんとなく外のほうが開放感があっていいわ」
とりとめのない会話を交わしていると、始業前のベルが鳴った。
「次は…ええと、数学かあ」
杏子は露骨に顔をしかめた。
杏子にとって、数学は一番理解に苦しむ学問だった。
「ふふ、杏子ったらいつもそうね。楽しみなさいよ、せっかくなんだから」
美咲は容姿端麗なばかりか、成績も上位に位置していた。
担任からは、旧帝国大学系を目指すように助言されるほどだった。
また女子であるという偏見を押しのけ、女性は少ないとされる理系学科を志望していた。
急ぎ足で教室に戻ると授業が始まった。
杏子にとっては六十五分間の拷問の始まりだった。
数学科の教師が、厚ぼったい瞼をしょぼしょぼさせながら授業が進められていく。
受験生ともあって、生徒は各々が優先されるべき教科を勝手に自習していた。
それは教師の方も重々承知していて、彼のほうを向いている少数の生徒に向かって話を進めた。
そんななか、美咲はしっかりと教師の目を見て授業を受けていた。
私立文型を目指す杏子は、机の上に世界史の教科書を開いていた。
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不思議といえば不思議だった。
杏子が高校二年生のときに、美咲は突然大阪から引っ越してきた。
なんでも家族は一人もいないらしい。
親戚の家に暮らしているそうだが、なんとも突然すぎる話である。
両親を失ったのはつい最近のようであったが、付き合いが一年になる杏子にも、そのことを聞き出すことはできなかった。
美咲は特に浮く様子もなく、すぐにクラスに溶け込んだ。
彼女の言葉は標準語で、アクセントも他人と変わらなかった。
杏子の記憶が正しければ、美咲は越してきてから一度も大阪弁を喋っていない。
大阪の人間はいくら気をつけていても、なかなか大阪弁が抜けない。
大阪弁でないにしろ、アクセントが大阪出身を物語ってしまうのもしばしばである。
「美咲、一緒に帰ろ」
終業後に杏子が誘う。
「ごめん、今日も用事があるのよ。先に帰って」
こういう時の美咲の顔は、同性の杏子から見ても大人びていて、どきりとさせるようだった。
何か秘密を隠し持っているように見えたし、それを知りたいとも思わされえた。
「分かったわ。じゃあ、気をつけてね」
そう言うと、杏子は他のクラスメートを誘っていった。