四
「ほら、美咲。こっちにいらっしゃいよ」
酒でいくらか顔が赤くなった春子が、美咲を呼び付ける。
それに美咲は、怯えながら答えた。
「どうしたの、お母さん」
「やめとくれよ、母さんだなんて。あたしゃこれっぽっちもあんたを娘だと思っちゃいないんだ」
春子は声を荒げた。
「…何かご用ですか?春子さん」
「気味の悪いガキだね。とにかく、そこの酒屋で酒買っといで」
「でも子供は…」
「葬式後の片付けに親戚が来てるとかなんとか言えばなんとかなるさ。ちっとは頭使いなよ」
もはや口から泡を飛ばして怒鳴る春子。
そこには数日前の葬式で見せた、おしとやかな女性は微塵も感じられなかった。
別に今に始まったことではなかった。
元々春子は酒癖が悪く、夫婦揃えば喧嘩は絶えなかった。
そして、美咲は中学生ながら敏感に感じていたが、春子は浮気をしていた。
幹夫もそれを感じていたらしい。
夫婦喧嘩の要因の半分は春子の酒癖と男癖によるものだったかもしれない。
美咲にとって、幹夫は心のよりどころだった。
春子の横暴な振る舞いに耐えられたのも、幹夫がいたからだった。
確かにどうしようもない父親だったが、美咲には優しく、そして頼れる父だった。
幹夫亡き今、美咲にとって一番の不安は春子の存在だった。
もう自分を守ってくれる存在はいないのだ。
下手をすると、虐待にも遭いかねない。
なんとしても生き残らなければ…。
「毎度ありがとうよ、嬢ちゃん。父ちゃんのことは気の毒だが、お母ちゃんとしっかりやっていくんだよ」
酒屋の親父が愛想よく美咲に声をかけた。
美咲は気丈に振舞った。
「ありがとうございます。女二人で何かと迷惑をお掛けすると思いますが、よろしくお願いします」
「おお、挨拶のできるしっかりした嬢ちゃんだ。きっといいお母ちゃんに育てられてんだなあ。お母ちゃんに迷惑かけないようにな」
にっこりと無邪気に笑う酒屋の親父に、美咲はそれ以上何も言えなかった。
外を歩けば父親のいない哀れな子供。
よい母親に育てられ、なんとか生きている状況。
家に帰れば母にとって邪魔な存在。
外で聞く理想的な母親とは遠く離れた存在が、美咲の帰りを待っている。
いや、正確には美咲の運んでくる酒を待っていることだろう。
玄関に近づくと、家の中から動物のうめき声がした。
よく聞けば、それは春子の喘ぎ声だった。
幹夫が死んでから、春子は美咲の前でも露骨に男を連れてくるようになったのだ。
美咲は玄関先にそっと酒を置くと、足音も立てずに家から遠ざかった。
美咲は近くの川原をゆったりと歩いていた。
悲しみよりも、憎しみの方が強かった。
今まで決して順風満帆とはいえない家庭だったが、確かにそこには安らぎがあった。
その安らぎを奪ったのは、他でもない犯人である。
美咲は考えていた。
私は、そんなに高望みをしたのだろうか、と。
ただただ、普通の家庭というものに憧れていただけなのに…。
それは罪だったのだろうか。
自分には、幸せになる権利はないのだろうか。
美咲は、思春期の少女らしからぬ復讐の念駆られた。
自らの手で、ささやかな幸せを奪っていった者に復讐を…
空には黄昏時の、沈んでいった太陽の名残が微かに感じられた。




