キャンパスの記憶
俺の名前は、水沢暢。
いきなり評価が下がるかもしれないけど、一浪して大学に入学している。
それはどうでもいい……俺にはどうしてもこの大学に入学したい理由があった。
そして、1年が経過した今でも、それは変わらないと思っている。
入学後、俺の大学生活は、全てにおいて順調に進んでいた。
そんなある日、目の前に印象的な女子が現れたのである。
偶然だったけれど、講義を受ける俺の隣に、彼女は座っていた。
「初めて見かけたけど、同期生?」
俺は、講義の終わりに彼女に尋ねてみた。
彼女の表情は、ほんの少しだけ止まったように見えたが、次の瞬間には微笑みが浮かんでいるのがわかった。
「今年入ったので、そうかもしれないです。同じですか?」
それが、初めて彼女とした会話だったと思う。
その日を境に、彼女のいない生活は無意味なものに変わっていった。
6月20日、その日の俺は、講義を受けた後アルバイト先の飲食店で業務中だった。
「水沢くん、悪いんだけど残業してもらっていいかな?」
そう言ったのは、店長の相澤さんだ。
このあと、俺は彼女と約束していて無理だと思ったのであるが、店長の相澤さんは俺の様子には無頓着なまま続けた。
「バイトの清水さんが急に来れないって言ってきてね。2時間でいいから頼むよ。もちろん、残業代は出すから。」
俺としては、断りの返事をする機会を奪われたかたちだった。
運が悪いのだろうか……何故か分からないが、その日に限って彼女と連絡が取れなかった。
やっと連絡が取れたのが、アルバイトの残業が終わった頃だ。
俺から残業で行けないことをメールで受けとった後、彼女は友達と一緒だったらしい。
そして、その時に俺から離れる原因となる男性と、彼女は知り合ったのである。
彼女と別れてから、しばらくの間、俺は何もする気になれないでいた。
食事も、美味しくないから、適当に食べていたように思う。
「元気ないよ、水沢くん。失恋でもしたみたいだよ⁉︎」
アルバイト先の店長が何気に言った言葉が、あの時ほど辛辣に感じられたことはなかった。
しばらくすると、俺はなんとか元気を取り戻していた。
だから、久しぶりに、気分転換に音楽のコンサートに行ってみようかと思った。
この歌は、君には届かないかもしれない
だけど、他の人が君に届けるだろう
だから、僕はもう何も考えないでいられるんだ
聴き慣れた歌詞の一節を、俺はみんなと一緒に口ずさんでいた。
コンサートが終了する頃には、長く続いた重たいものが消失しているのを感じて心地よかった。
コンサートの余韻を味わいながら会場を出ると、俺は、会場前の広場を大通りに向かって歩いていた。
その時、不意に背中を押されたのだと思う……いや、何故かわからないが叩かれたようにも思われた。
「水沢くん⁉︎そう、水沢くんだよね!」
振り返ると、驚きの消えない俺の様子を見て微笑んでいる、小柄な女性が目の前にいる。
「…………」
小柄な女性は、続けた。
「久しぶりに水沢くんを見かけて、力が入っちゃった。」
俺は、まだ、この女性が誰なのかわからないでいた。
それに気づいたのか、女性は改まったような表情を見せると、次のように話しはじめた。
「あれ⁉︎もしかしたら覚えてないのかな?中学のとき同じクラスだった白井沙也……ほんとに覚えてないのね!」
白井沙也の名前は覚えていたが、目の前にいる垢抜けした女性とどうしても一致しない。
面白そうに俺を見ている白井沙也に、俺はやっと言葉を返したのを覚えている。
「白井沙也?ずいぶん会ってないからな……印象が全然違うと思って、驚いたよ。」
そう言って、俺は改めて白井沙也の記憶をたどりながら、確認していた。
中学生の頃の白井沙也は、あまり目立たない地味な存在だったのであるが、今の彼女は全く正反対に見えた。
偶然にも、白井沙也は俺と同じ地区に住んでいることがわかり、その日は連絡先を交換するとそのまま別れたのだった。
白井沙也と遭遇してから、1週間が過ぎようとしていた。
その間、俺は白井沙也について、ぼんやりと考えを廻らせていた。
白井沙也は、都内のアパレル店で働いていた。
理由は知らないけれど、大学進学はしなかったらしい。
家庭的な事情などではなくて、単純に、大学進学よりも働く方を選んだということである。
『彼女がいきいきとしてるのは、そのためかもしれない。』
ぼんやりと、俺はそんなことを考えていた。
しばらくすると、白井沙也から連絡が入った。
それは、その日から数えて2日前になる。
「金曜日の夕方から、外で少し話さない?夕方まで仕事だから、その後だけど。近くに美味しいスイーツのお店知ってるから。私の好みだけど、よかったらどう?」
決して、スイーツに釣られたのではないが、俺は白井沙也からの申し出を心地よく承諾した。
それに、金曜日には、アルバイトがない。
その日、大学の講義を受けたのち待ち合わせまで時間が十分にあるのが分かると、俺は少し予定を変えることにした。
不意に、白井沙也の働くお店に立ち寄ってみようと思ったのである。
途中で、手土産にするドーナツを買うと、のんびりとした足取りで目当てのお店に向かった。
白井沙也の働くお店は、大きめの雑居ビルの1階にあり、おしゃれな雰囲気の店舗が並ぶ、小綺麗な通りに面していた。
来る途中で買ったドーナツの包みにためらいがちな視線を落とした後、俺はお店のドアを少し恐る恐る開いた。
中に入るとすぐに、従業員の女性が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。」
俺は、挨拶を返して少し控えめに奥の方を眺めた。
「何かお探しですか?」
笑顔で尋ねる従業員の女性の声に安心して、今日お店に来た用件を伝えた。
従業員の女性に、俺が用件を伝え終わるやいなや、白井沙也が姿を見せた。
「あら⁉︎水沢くん、お店に来たのね!」
そう言うと、彼女は従業員の女性と話しはじめた。
「そうなの?じゃあ、うちのパーティーに一緒にどう?」
従業員の女性の声が聞こえてくる。
「でも、いいんですか?」
白井沙也が尋ねている。
「かまわないわよ。彼と話して、その後にパーティーだと面倒でしょう?それに、彼は見た感じ悪くないし。」
従業員の女性が、俺のこと言っているのかと思って、ドーナツを買ってきて良かったのかな……そんなことがふと浮かんで消えたようだ。
そのようにして、白井沙也の働くお店人達と知り合う機会が、俺に訪れたのである。
パーティー会場には、白井沙也の働くお店の人の他に、各方面からの客が招待されていてとても賑やかだ。
「好きなもの取っていいのよ。楽しんで帰ってね。」
白井沙也、それからお店の人達とひとしきり話した後で、店長の市川さんはそう言い残して席を離れていった。
俺は白井沙也と話し込んでいた。
「ところで、水沢くん、付き合ってる人はいるの?」
話しが弾んだ後になってから、白井沙也が尋ねてきた。
その頃、俺もすっかり打ち解けており、素直に返事をしていた。
「最近、別れたばかりだよ。」
「そうなんだ。じゃあ、聞かない方がよかったよね。」
白井沙也は、申し訳なさそうにそう言って少しの間黙り込んだ。
「白井は、どうなんだよ。」
俺は、特に意味はないのだが、何気なく尋ねてみた。
「付き合っている人はいるけど、別れようと思うの。最近は、一緒にいても楽しめないし……」
俺は、つかの間別れた彼女のことを思ったが、それはすぐに消えたようだった。
しばらするとお店の人から呼ばれたのを機に、『少しの間待ってて』と言い残して、白井沙也は、席を離れて別の席へと向かった。
白井沙也が席を外している間、俺はパーティー会場に来ている人達の様子を眺めたりしながら、しばらくひとりで席に座っていた。
ふと、ひかえめな印象の女性が、こちらの方へ歩いてくるのが視界に入った。
偶然、その女性と視線が合ったのだが、次の瞬間、斜向かいに位置している一つ奥の席に腰を下ろしたようだ。
『女性が微笑んだように見えたけれど、俺の気のせいだろうか?』
最近自分に起こった一連の出来事が、一斉に蘇る。
そして、別れた彼女と白井沙也、たった今現れた女性は、それぞれが繋がっているように思えたのである。
白井沙也とお店の人達と別れて、自宅にたどり着いたのは、深夜を回っていたことを覚えている。
そして、ソファに座ると静かに思いを廻らせた。
パーティ会場で出会った女性の印象は、俺の頭から離れなかった。
『長瀬夏美だったな……』
翌朝になって、俺はベッドの上で目を覚ますと、携帯にメールが届いているのに気づいた。
長瀬夏美からである。
「おはようございます。水沢さんが、同じ大学の人なのでびっくりしました!昨日は、お疲れ様でした。」
そのときの俺は、滅多に見られないような、だらしのない表情をしていたのかもしれない。
昨夜の長瀬夏美の控えめな笑顔が、鮮明に蘇るようだった。
『いいえ、学生です。都内の大学に通っています。』
俺が身分を尋ねたとき、長瀬夏美はそのように答えた。
パーティー会場で、俺なりに勇気を出してなんとか話しかけてわかったのだが、長瀬夏美は同じ大学に通っていて、1学生上の文学科に在籍しているということだった。
それからは、俺と長瀬夏美との会話が弾んだのは言うまでもなく、すんなりとLINEの交換まで済ませることができたのである。
12月になると、周りはクリスマス一色に変わったように見える。
白井沙也のパーティー会場で出会った夏美とは、既に告白まで済ませていて現在では付き合っている状態だ。
俺は、夏美と過ごす予定のクリスマスをどうしたらいいものか、あれこれ考えを廻らせていた。
このように話していると、もしかしたら何もかもうまくいっているのかもしれないと思ったりもする。
でも実際には、夏美と付き合うようになるまでには、少なからず悩んだ末、迷うことも多かったと思う。
結局は、学業と交際のバランスということになるのだろうが、相手あってのことだから簡単ではなかった。
夏美との良い関係性を維持できず、学業も付き合いもほどほどに維持するだけで精一杯だった。
夏美と知り合って3ヶ月ほどは、学業に集中することができなかった。
夏美に夢中になってしまったようだ。
どれだけ頑張っても結果はおもわしいものではなかった。
かといって、そのときの俺は、夏美に割いている時間を削ろうと思うこともできなかった。
それは、別れた彼女のことを無意識のうちに引きずっていたからかもしれないし、白井沙也から受けた影響によるのかもしれない……
考え事をしていると、夏美からメールが届いた。
「週末の予定を変更してもいいかな?ごめんなさい。懐かしい友達と急に会うことになったの。」
俺は、直ぐに返事を送った。
「そうなんだ。懐かしい友達なら仕方ないな。じゃあ、翌日に変更する。」
「ありがとう。翌日なら絶対に大丈夫だから。」
再び、夏美からメールが届いた。
俺は、そのまま携帯電話をテーブルに置くと、今取り掛かっている論文の気がかりな点について、少し調べようと思った。
白井沙也とは、週に一度くらいメールで話しをしている……というより、週に何度か会っている。
既に、ご推察されている方もいるかもしれませんが、しばらくすると、俺は白井沙也の働くお店でアルバイトをするようになっていた。
かって、俺が飲食店でアルバイトをしているのが話題になったとき、白井沙也からお店でのアルバイトを提案されたかたちだ。
「失恋したなら仕方ないけど、他の理由なら辞めないで欲しいな。水沢くん、よく働いてくれるから。」
俺が、アルバイト先の飲食店でアルバイトを辞めることを申し出たときに、店長が言った言葉だ。
厳しい店長だが、失恋に寛大なんだ?っておかしかったけれど、ともかく別れた彼女と同じことを繰り返したくないと思ったら決心がついた。
白井沙也の働くお店では、全てにおいて新鮮に感じることが多かった。
アパレル店では、従業員の人は言うまでもなく、来店するほとんどの人が細かい部分まで着こなしを注意しているのがわかる。
いわゆる、外見に気をつけることの意味が、店長をはじめ周囲の人たちを通してしばらくすると見えてくるのである。
また、この人たちと会話していると、それは会話の中身にも繋がっていて自分に不足していた基本的な部分について、理解できるように思われた。
何よりも、社会人としての白井沙也の働く様子を見ることが、自然に自分との違いを教えていたと思う。
ただのアルバイトという割と気楽な考え方から、俺は一歩先へ進むことができたような気がしたのである。
クリスマスが近くなり、夏美と一緒に過ごす時についてさらに考えるようになっていた。
また、夏美から送られてくるメールでも、クリスマスを楽しみにしていることが見てとれて嬉しかった。
この頃には、傍目にもわかるくらいに、心配していた学業はすっかり落ち着きを取り戻していた。
学業は、それだけでは成り立たないようだ。
クリスマス当日、俺は予約しているお店に向かっていた。
だが、不意に電車が止まってしまったのである。
周囲の人たちと同じように、俺には一瞬何が起こったのかわからなかった。
しばらくしてわかったのであるが、どうやら事故が発生したらしい。
俺は携帯を取り出すと、すぐに夏美にメールを送っていた。
ところが、その時夏美の乗っている電車も、同じような事故で止まっていたのである。
そのことを知ると、俺と夏美は、思わず失笑してしまったのだった。
電車が再び動きはじめると、俺と夏美は予約したお店を諦めて、それぞれ別な場所へと向かっていた。
その場所は、有名な待ち合わせの場所で、たくさんのカップルが活用するといわれている。
向かう途中で、俺はかって夏美と交わした会話を思い出した。
『この切符は、俺が付き合う人に渡そうと決めていたんだ。受け取ってくれるよね?』
夏美は、俺の住む駅までの切符を、黙って見ていた。
それから、顔を上げると笑顔になっていた。
『うん、ありがとう。』
それは、俺が夏美に告白をしたときのことだ。
待ち合わせ場所の近くまで来て、夏美からメールが届いた。
その瞬間に、少し先にある待ち合わせ場所にたたずむ夏美が目に入った。
俺は、不思議な気持ちがこみ上げてくるの感じていた。




