善悪の根源に置いて
善悪の根源に置いて、ぼくは、感情を置きます。キルケゴールは、不安の概念について、不安は、自由の目眩である、と、説きましたが、この言葉を知った時、ぼくは、人らしい感情について思考せずにはいられませんでした。さんが仰るように、合理的で理性的な思考に基づく考え方をとるならば、その様になるとぼくも頷きますが、ぼくは、人はもっと単純なのではないか、という視点を持っています。もっと言うのであれば、人は、合理的で理性的な判断で物事を整理したい、若しくは、支配したいと不安を抱えている存在なのではないか、という思考であり、疑いです。わたしたちは、嘘をついている。気づかぬままに根底にある最も単純な心の動きに気づかぬようにいきているのではないのか、という疑いです。以前、ぼくは、さんと別の作品上でお話している際、動物としての人の根源的な基本の生き方とは、とぐるぐるしていたのですが、今のところのぼくの思考の答えに一番近いものは感情でした。感情と、一言で表すと少し嘘が混じるような気が致します。それは、もう少ししっかりしていない、快、不快に近いもの、感情の根源?のような発生元、というのか、そういったものをイメージしています。言語化まで至らないそれは、形ですらない、思いの発生のようなもの。つまり、何を申し上げたいのかというと、ストレスです。
良くも悪くも人は、人をもし殺めようとするなら身体に多大な影響を及ぼします。それは、社会生活を上手くいとめなくなる程の変質させるそれでしょう。(具体的には命の価値観や重さに対する認識は明らかに軽くなるように思います。自らの命に対しても)つまりは、それは、病や、毒と言って差し支えないとぼくは、思います。いずれ、自らの精神や身体に害を与えると人は本能的に知っている。だから、タブーとされるのではないか、なにかを殺める行為は、不浄とされ忌み嫌われてきたのではないか、そうぼくは、思考しています。答えになっていなかったら、申し訳ありません。