大切な時間
五月になったばかりの初夏の風が、ほほをなでる。
白い半袖シャツに黒の長ズボン。中学になって初の夏服は落ちつかない。おろしたての夏服が眩しい少年は、夏の気配や、着慣れない制服に身じろぎをし、真ん中で分けた短めの黒い前髪を、つまらなそうにさわる。
車のすれ違いが難しいほどの、細い道。右手には景観を損ねる工事中の看板。入れないよう黄色と黒で土手をかこっている。掘り起こされ、あらわになっている土手に顔をしかめた。
桜道が汚された。
土手には桜が植えられており、少年が生まれる前から、美しく可憐な花を圧倒するほどに咲き誇らせ、住民も弁当をたずさえては、長く続く桜並木の下で花見を楽しみ、大切にしてきたのに。
「ヨソの人間は勝手だ」
少年がぽつりと呟く。
土手の上には、精神科の病院が建つようだ。工事施工業者と、病院の責任者からの住民に対する説明は、市の建設承諾を取り付けた上での、説明会であった。
反対をしても時すでに遅し、
「市のほうの許可は、もう頂いておりますので」
その言葉のみを繰り返す説明会だったと、父親は怒りをあらわにして言っていた。
桜はきられ、掘り返され、土をならした後は、コンクリートで固めるらしい。
遥か先に三本ほど残っている桜のところまで、荒らされた土手をにらみつつ、歩き出した。
「大人って、つまんねぇ人間ばっかだ」
少年は、自分の中の黒いなにかを吐き出すように、声を出す。
「海斗、おはよ! 相変わらず疫病神と仲良しさんみたいな顔してるね」
あはは。と快活に笑い、少年――海斗の背中を全体重かけて押してくる。可愛いというよりも成長したらキレイ系になりそうな少女。
絶対、調子に乗るから。絶対、そんな事は口にしないが。
半袖のセーラー服。黒く長い髪は、風に遊ばれ、柔らかそうに波打った。
「いってぇな。それとなんだ! 疫病神って! おまえ、オレに失礼だろ!」
「やぁだ。おまえって……まだ名前覚えてくれてないの?」
印象的な切れ長の目が、いたずらっぽく細められ、顔が近付く。
「さ・く・ら。はい、言ってみ? さ〜く〜ら〜」
「……うるさいよ。分かってるよ。遅刻したくねぇんだよ」
海斗は顔を背け、口をとがらせる。
覚えてないわけじゃない。その名前を、この荒らされた場所で言いたくなかった。
早足で、緑が生い茂る桜の木から遠ざかる。
「……どうせ、子供だよ」
「は? 当たり前じゃん。中学生になったばかりだし」
ため息を吐いたつもりが、間違って心の声まで吐き出してしまったようだ。
大きくもない目を丸くして、あきれたように言ってくる桜――日下 桜。
小学校も、卒業間近に転校して来た彼女は、明るい性格で、すでに皆とも打ち解けている。
「勉強も出来て、運動神経もいいなんて……神なんて世の中にいねぇよ」
「あのさ、さっきから心の声がダダもれてるよ? 大体、神様なんて信じてないくせに」
別段、驚きもせず、否定もせず、あきれた声を返す桜。
「お礼は言っとくね。ソレ、私の事でしょう? あと美人で性格も良いってのが抜けてるけど、今回はカンベンしといてあげる」
桜のいたずらっぽい笑顔は、彼女に似合っている。
海斗はため息を吐き、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ほんと、イイ性格してるよ」
その言葉に、桜はまた楽しそうに、あはは。と笑った。
残された桜の木から、少し離れた左手に小さな駅がある。
「……そういえば、海斗と初めて会ったのが、この辺だよね」
明るい声の調子は変えずに、桜が狭い道のまんなかで、駅を背にして振り返った。
海斗は、そんな桜の顔が見ることができなくて、駅のほうに目を向ける。
「ここでオレと会うと、いつも言うよな」
「そりゃあね。って、さっきから気になってたんだけど。
あんた、いつから『オレ』って言ってんの!?
ついこないだまで、『ボク』って言ってたじゃん!」
ものすごい勢いでつかみかかり、長い黒髪が軽く広がる。
海斗は自分の顔が、その勢いと同じくらいのスピードで、赤くなるのがわかった。
「う、うるさいな! もう中学生だし、ボクだって変わるんだ!」
「あ、ボクって言った」
口の左端を持ち上げて、桜は笑う。
「今は、練習中!」
「へー。れん・しゅー・ちゅー」
いよいよ顔中がひきつり、桜は笑いをこらえることなく、大声で笑った。
それをふくれっつらで、海斗はにらむが心の中で安堵する。
桜が笑っているなら、それでいい。
桜と出会ったのは、たしかに駅前の、この場所。
そう、あれは三ヶ月前――
まだ固いピンクのつぼみを枝いっぱいに飾りつけた桜並木の下で、彼女は目を輝かせ、踊るように手を広げて、嬉しそうに笑っていた。
たしかに桜の木は、立派な枝ぶりで住民たちは愛してきた。
しかし、この町で見たこともない少女が、まだ咲いてもいない桜を見上げて大騒ぎしているなんて。
海斗は、変なヤツ。とつぶやくと、謎の少女が振り返った。
「こんにちは! この町の子?」
笑顔がよく似合う。
桜が、咲いたのかと思った。
まだ枝が赤くなって見えるだけなのに。
「ねえ、聞いてる?」
「……うん」
海斗はまばたきをして、のぞきこもうとする少女から一歩後ずさる。
「なんだよ、おまえ。見たことないけど」
「引っ越してきたの。ここってすごい桜の木があるんだね」
「まあね」
この辺りの行事として、年2回ほどゴミゼロと称して大人たちが草むしりするくらいだが、この桜並木をほめられて、悪い気はしない。
「おまえ、お父さんとかお母さんは?」
「一人で先にきたの。ここは桜がすごいって聞いてたから」
「まだ咲いてないじゃん」
海斗は、やっぱり謎だと言わんばかりに、あきれた声を出すと、少女は細い目をさらに細めて口をとがらせた。
「いいじゃん。わたし、桜の木が好きなの!」
海斗は少女の親が来るまで、この話が尽きない少女と一緒に待つことになってしまった。
漫画の見過ぎと言われるかもしれないが、ひょっとしたら桜の木が人にばけてるんじゃないかと、当時は本気で思ったのだ。
赤いワンピースに、白のカーディガン。風になびく長い髪。
住宅街になってはいるが、周囲は田畑で囲まれているようなのどかな場所で、キレイな格好をしている彼女は、少し浮いて見えたから。
少女は言った。
桜が咲く時期に、よく転校するんだ。
友達との別れはつらく、それでも行く先で桜が満開に咲いていると、自分を受け入れてくれている気持ちになれる。
だからさびしくても我慢ができたのだ、と。
やがて少女の両親が現れたことで、淡い期待はもろくも崩れ去ったが、少女は去り際に海斗を振り返って、いたずらっぽく笑う。
「あ、一緒に待っててくれて、ありがと。
ちなみに、わたし『おまえ』じゃないから。日下 桜だよ。よろしくね」
「ボクは、鈴木 海斗」
「じゃあね。カイト」
手を振って立ち去る桜を、海斗は見えなくなるまで見送った。
道は一本道で、同じほうへ行くのだが、海斗は動かなかった。
別れのあいさつもしたのに、後からついて歩くのも恥ずかしかったのもある。
しかし、それよりも――
海斗は、静かにたたずむ桜並木を見上げた。
「なんで、きられないといけないんだよ」
桜は、答えない。風が吹き、サワサワと小さな音を立てるのみ。
気は沈み、歩き出そうとした足も重い。
「桜をきる意味なんか、ないじゃんか」
でも、何をしたらいいのか、分からない。
それがよけいに海斗の足をにぶらせた。
「このこと知ったら日下、泣くんじゃないかな」
「早く言っとけばよかったのかな」
どんどん気持ちは沈みこむ。
夕ごはんのとき、そして寝る瞬間まで、海斗は悲しむだろう桜のことを考えていた。
「海斗。なにかあったの?」
朝、起きてきたときの様子を見て、母が驚いたように声をかけた。
「……なんでもない」
「わかった。じゃあ、気がむいたら言いなさい? お母さん、待ってるから」
どう言えばいいのかわからなくて、海斗は逃げるように顔を洗いに行く。
鏡を見て、思わず笑ってしまった。
泣きはらした赤い目。
涙の残る顔。
これじゃあお母さんも心配するか。と顔を洗う。
台所に戻ってくると、母は普通だった。いつもと変わらず味噌汁をよそい、ごはんを盛っている。
「お母さん」
「ん? 話してくれる気になった?」
海斗は母の手元を見て、思わず声をかけた。
母なりの冗談なのかもしれない。
「そんなにごはん、食べれないよ」
海斗の茶碗には、ごはんが大盛りを越えたカキ氷盛りになっている。
「やだ、面白くなかった? カキ氷盛りかよ! とか、絶対つっこんでくれるって、期待してたのに」
母は子供のように口をとがらせ、ごはんを炊飯器に戻す。
答えの出ない問題を、どうどう巡りに巡らせて、泣き寝入りしてしまった自分がバカみたいだ。と海斗は思う。
少しだけためらってから、なんでもないことのように声を出してみた。
「あのさー、あの桜並木ってさー。絶対に残せないのかなー」
「なに? それで泣いてたの?」
「泣いてない!」
母は、普通盛りにした茶碗を、海斗の前に置き、自分もテーブルにつく。
怒って大声を出す海斗に、母はお茶をついで海斗の前に置いた。
「……そうだね。お母さんは、難しいと思う。
説明会だってロクなもんじゃなかったし。でも、海斗は残したいのね」
母が優しくほほえんで海斗を見ると、大人しくうなずいていた。
「そうね。他の人にも方法がないか聞いてみるわ。
お母さんだって、あそこの桜は大好きだから」
そんな言葉に海斗の目が輝いた。すぐさま母は言葉を付け足す。
「海斗。きっとダメだろうけど、なにかしたいんだったら、力の限りやりなさい。
でも、けっして人を傷つけるようなことしちゃダメよ?」
「……どっちにしても、傷つけちゃうかもしれない」
「海斗、誰を傷つけたくないの?」
そこが海斗の泣いていた理由だろうと、母は聞く。
しかし、海斗は黙ったままだ。
「おはよー」
「あら、陸。もうそんな時間? 海斗、早く用意しなさいよ!」
慌てて母は立ち上がり、鍋を火にかける。
海斗と似たような髪型をした高校生の兄――陸は、浮かない顔の弟の頭をこづいた。
「おまえ、もうすぐ卒業式だろ? ずる休みすんなよ」
「いたいなー!」
洗面所に消える陸の後姿に文句を言い、海斗は食器をかたづけた。
ランドセルをかついでから、ちらりと台所を見ると、陸の茶碗もカキ氷盛りにされている。どうするのか見ていると、戻ってきた陸が苦笑いして、母に声をかけた。
「母さん、カキ氷盛りかよ」
「あ! 気付いた?」
嬉々として茶碗をさげる母に、こっそりため息を吐く陸。
兄ちゃんって、意外と優しいのかもしれない。と、海斗もこっそり思う。
「兄ちゃん」
「おい、まだいるのかよ。まじで遅刻するぞ」
多少驚いた顔で、椅子に座ったまま、陸が後ろを振り返った。
「あのさ。友達があの桜並木がなくなると、泣いちゃうかもしれなくて。
でも、ボクがそいつの泣いてるの見たくないときって、どうしたらいい?」
「女か? おまえも、なかなかやるな」
口の端を持ち上げて、面白そうに笑う。
海斗は顔が赤くなるのに気付かず、声をあげた。
「ち、ちがうよ! 友達って言ったじゃん」
「だれだよ。おまえの友達っつったら、桜がなくなっても泣くようなヤツいねーじゃん」
「やっぱ、聞くんじゃなかった」
ふくれっつらの海斗は、きびすを返して玄関へ向かう。
陸が、まあ待て。と追ってきた。
「その友達を見なきゃいいじゃん? それもできないのかよ」
「できない。たぶん」
陸は頭をかきながら、困ったように言葉を続ける。
「じゃあさ。アレが取り消しになるとは思えないけど、署名でも集めればいいじゃん。
なにもしないで終わるよりか、なんかしたって思えたほうが、ましじゃね?」
「……それって、どうやるの?」
「正式な文書とかって、あるかもしれないから。学校から帰ったら、ネットで調べてやるよ」
その言葉に、小学生の弟は顔を輝かせ、靴のまま家に上がりこみ、詰め寄る。
「まじで! 絶対? いつ帰ってくる?」
「いいから、学校行け! 遅刻なんかしたら、やってやらねー」
仲のいい兄弟のもとへ、見送りに出てきた母が憤怒の形相で叫ぶ。
「……海斗! 土足厳禁!」
「ごめんなさーい! いってきまーす! 兄ちゃん、絶対だからな!」
「あいよー」
適当に返事をしながら台所に戻っていく陸に、怒りの表情を消した母が、それを追いかけ、
「ちょっと! なに? やっぱり女の子がらみだったわけ?」
「そーみたいだね」
陸も否定せず、それ以上は言わなかった。
登校途中、赤いランドセルを背負った桜を見つけ、ためらいながらも海斗は声をかける。
桜は、桜並木がなくなることを、近所のおばちゃんたちに聞いて知っていた。
残念そうに笑う桜に、朝のできごとを話してみる。
「兄ちゃんがさ、ショメイ集めてみれば? って言ったんだ。
そしたら、桜の木が助かるかもって。やろうと思うんだけど、一緒にやろうぜ」
「ショメイって?」
「……知らない」
勢い勇んで出てきたものの、はたと海斗は我に返った。
桜のあきれた視線が突きささる。
慌てた海斗が、声を張り上げた。
「兄ちゃんが調べてくれるって言ってたから!
集めたら、なんとかなるかもしれないし!」
「おい、海斗! なにまた大きい声だしてんの?」
海斗のランドセルを上から叩き、楽しそうな声をかけてくる少年。
「なに、こいつ。見ないヤツだけど?」
ひょろっとした少年は、ジロジロとぶしつけに桜を見た。
「なに、こいつ。チョー失礼。海斗って、こんなのと友達なわけ?」
両手を腰にあて、眉をひそめる。
二人はしばらくにらみ合っていたが、先に声を出したのは桜だった。
「わたしより背が低いくせに」
「な! そんなの今は、関係ないだろ!」
より陰険な黒い渦が二人を取り囲む。
海斗が、困ったように声をかけた。
「あのさ、歩きながらじゃないと、遅刻するんだけど」
二人は無言で歩き始める。
しばらくその状態で歩いていたが、巻き込まれた海斗が真っ先に音をあげた。
「葉、いいかげんにしろよ。日下は引っ越してきたばっかなんだしさ」
「じゃあ今さっき、二人で話してたことって、なんだよ」
桜に背が低いと言われた少年――葉は、海斗にかみつく。
やつあたりであるが、身長に関しては、この三人の中で海斗が一番低かったりするのだが。
「桜並木がなくならないように、ショメイ集めようって話だよ」
海斗の言葉に、葉はあからさまにあきれた顔をした。
「いまさら、なに言い出してんだよ。無理に決まってんじゃん!
しかも、ショメイってなんだよ」
「無理かどうか、やってみなきゃわかんない。
って話をしてたんだから、あきらめちゃってる人に、なにも言ってほしくない」
そっぽを向いたまま、怒った調子で言う桜。
話がまたケンカ腰になっていく。
前髪をさわりながら、海斗はそれでも最初から説明してやった。
ただ、桜が関係する話はしなかったが。
「だからさ、兄ちゃんが調べてくれるんだって。
今日ヒマだったらさ、ボクんち来て計画立てようぜ? 三人で」
三人で。と言ったのは、失敗だったかもしれない。
「えー! なんでこいつが一緒なんだよ」
と、葉が反発するのと同時に、桜も抗議の声をあげた。
「えー! 無理っていう人となんてやだー」
より険悪にさせてしまったらしい。
小学校は、駅からほど近いところにある。
「おまえたち! はしれー、鐘が鳴るぞ!」
校門からは先生の声。
ちらりと桜と葉は視線をかわし、走り出した。
絶対に、負けない!
二人は並ぶ。しかし桜がすぐに抜きに出た。
先生の横を、そのまま通り抜け、足を止める。
「勝った!」
爽やかな桜の笑顔。くやしそうにうずくまる葉。
置いていかれた海斗は、それでも門が閉まる前には間に合った。
「……どうでもいいじゃん」
「よくない! わたしの勝ちだもん。あんた言うこと一つ聞きなさいよね」
ふんぞり返る桜に、葉はさすがに立ち上がった。
「そ、そんなこと、決めてないじゃんか」
「じゃあねー……」
葉を見て、口の端を持ち上げて笑う。
「あんたの名前を教えなさいよ」
「……は?」
あんぐりと口をあけて、葉は放心する。
海斗も、目を丸くしてから吹き出した。
卒業式の練習も終わり、三人は帰りも一緒に帰る。
ランドセルを置いてから、海斗の家に集合し、陸もしばらくして帰宅した。
「なんだ、忘れてなかったのか」
顔を輝かせて出迎えた弟に、兄も声をかけるが、後ろにいた葉と桜に目をやる。
変わらずひょろっとした葉と、見知らぬ髪の長い少女。
この子が……と、思わず笑いそうになるのを、陸はぐっとこらえた。
「海斗。まあ、がんばれよ」
「は? なにが? 兄ちゃんが調べてくれるんじゃないの?」
兄としての言葉だが、海斗はわけがわからない。
「ああ、それだけど」
と、一枚の紙を三人に渡す。
そこにはなにやら難しい漢字や言葉が並んでいる。その横には、名前や住所を書く欄も。
「詳しい先生がいてさ、説明したら作ってくれたんだ。
オレも内容確認したし、それでいけると思う。
それは、白紙のままとっておいて、コピーしまくって学校中に配れば?」
「すげー! じゃあ、コピー機貸してよ!」
どうぞ。と、海斗を自分の部屋に招きいれ、付いて行こうとした桜に声をかける。
「ちょっといい?」
「はい、おじゃましてます。日下 桜と言います」
軽く頭を下げてあいさつする桜。
少しためらい、前髪をさわると、桜はクスリと笑った。
「兄弟はクセまで似るみたいですね。海斗もよく前髪さわってます」
「あいつは、オレの真似をよくするからな。
えーと。日下さん? ここら辺の子じゃないよね。なんであの桜並木にこだわるの?」
桜は、目を細めて笑い、
「わたし、ここに引っ越してきました。
わたしの名前も桜だし、放っておけないと思って」
間違ってはいないだろう。だが、あの海斗がここまで積極的なのは初めてだ。
いくら一目ぼれしたとはいえ――本人は否定するだろうが――それだけの理由で動くだろうか?
「そうか」
陸は腑に落ちなかったが、それ以上聞くこともできず、うなずいた。
コピーして、たくさんの人に名前を書いてもらって、市の偉い人に渡す。
とにかくそれを紙に書いて、陸が壁に貼った。
「いいか? 小学校で配って、家族や協力してくれる人に名前を書いてもらえ。
先生……は、書いてもらえるかわからないけど、みんなに配れ」
「えー! 大変じゃん!」
陸の言葉に、葉が悲鳴をあげる。
少しだけ海斗も思ったが、桜の様子を見て、出遅れてよかったと思う。
「……じゃあ、やめたら?」
「やらないとは言ってないだろ! 大変だって言っただけじゃんか」
海斗は、桜がお母さんの怒った顔と同じだ。とも思ったが、口には出さない。
だって、怖いから。
険悪な雰囲気になるのを、陸が止める。
「今からそんなんじゃ、やめといた方がいいぞ。
葉、これは大変なことなんだ。相手にしてるのは、校長先生を雇ってる人間だからな。
しかも、いったん決まった工事を止めることが出来た話なんて、聞いたことがない」
陸の話を聞き、葉は海斗をにらみつけた。
「そんなの、やっても意味ないじゃんか」
桜もうつむいてしまっている。
陸は、ゆっくりと話を続けた。
「意味はあるかもしれないし、ないかもしれない。
これだけの人数が、あの桜がなくなることに悲しんでいるんだ。
ということは、わかってもらえる。
これだけの人数が、施工業者や病院側の説明に不服だったか、わかってもらえる」
一文を指さし、病院側の説明の仕方なども書かれていることを、三人に話す。
「せっかくだもん、やろうよ」
桜がぽつりとつぶやいた。
静かになってしまった部屋の中で、彼女の言葉は大きく響く。
「うん、やろうよ。
今なにもやらなくて、桜並木がなくなってから文句なんて言えないよ」
海斗も、内容がよくわからない紙面を眺めながら、うなずいた。
葉は、黙ったままだったが、やがて立ち上がる。
「葉、どうするの? やめるなら、紙は置いてって」
桜が低い声で、呼び止めた。
「……やるよ。ばあちゃんとかにも、書いてもらえるか頼んでみる。
ボクだって、あの桜並木はなくなってほしくない」
帰るね。と、分厚い紙の束を抱えて歩き出す。
陸は、その背中に声をかけた。
「おい! 工事までの期限はあと2ヶ月だから、せめて今月いっぱいには回収するって言うん
だぞ」
無言でうなずいて、葉は出て行った。
「わたしも帰るけど、明日の朝、紙を運べるようにカバン持ってくるから待っててね」
と、桜も帰って行った。
陸も同じ空間にいるのに、海斗は取り残されたように感じる。
どうしよう。ひょっとして、大変なことを始めてしまったんじゃないか。
そして、みんなを巻き込んでしまった。
そんな海斗を見て、陸はなにも言わなかった。
三人が、間違っていることをしているとは思えない。
病院側は、説明会の最後にわざわざ付け加えて、桜が散る季節など、業者を入れる費用が大変だから。とも言っていたからだ。
施工業者は、慌てて地盤を固めるためとか言ってたが、本音は病院側のほうだろう。
そんな人間を、あっさり認めた市の役人にこの署名を出しても、ただ額面通りに受け取るだけの対応をされるかもしれないことは話さない。
しかし、そうかもしれないし、ちゃんと読んでくれるかもしれない。
そればかりは、わからないのだ。
ただ、陸はニュースなどを見て、ちゃんとした対応はないだろうと確信している。
市民が騒いで、施工中止になった例は、見たことがない。
だが、なにを言っても無駄だ。と、あきらめて傍観してしまえば、役人も業者も、市民は納得して歓迎してくれていると思うだろう。
そして、同じことが繰り返す。
直ることなんかなくて、どんどんエスカレートするだろう。
いくらその辺で文句を言ったとしても、そのほうが無駄なのだ。
彼らには、届かないし響かない。
文句は聞こえるようにしてやらなければ、意味がない。
まだ悩む海斗に、陸はただ頭を軽くこづいてやった。
「がんばれ。弟」
「いたっ! 決めたことだもん、やるよ」
いつものように、ふくれっつらをする海斗。
少しだけ、冷たくなってしまった空気が、なごんだように感じた。
次の日からは、大忙しだった。
時間のあるときに、全学年のクラスに用紙を配り、近所にも配る。
一番緊張したのは、校長先生のところに行くときだ。
しかし校長先生は、署名をしてくれた上に、
「知り合いにも頼んであげよう。君たちは立派なことをしているんだよ。
これから、なにがあっても自信を持ちなさい。先生は君たちを誇りに思う」
とまで言って、何枚か引き受けてくれた。
校長先生が署名をくれたことで、他の先生たちは気軽に署名をくれ、同じように何枚か引き受けてくれる先生もいる。
もっと怒られるかと思っていた。
小学生が、なにをやってる。と言われるかと思っていた。
ダメだと思っていた分、拍子抜けもしたが、なによりも嬉しかった。
「なんかさー。みんな思ってたより協力してくれるんだな」
痩せてる体に、どこからそんな力が出るのか、紙の束が詰まったカバンを軽々と担いでいる。
学校のコピー機まで貸してもらい、増えた紙の束。
同じくらいの量を運んでいるのに、どうして疲れないんだろうとため息を吐く海斗。
「みんなが、どれだけあの桜並木が好きだったのかって。
わかるだけでも、わたしすごく嬉しいんだけど」
桜が手ぶらでスキップを踏む。
「ボクもそれ思った! なんか、これ始めてさ。良かったと思うよ」
いつの間にか、意気投合している二人。
海斗は、重みに辟易して声も出ない。
朝、海斗の家に二人が来たとき、陸と母の一言で、男二人が荷物を持つことになってしまったのだ。理不尽だ。理不尽極まりないと、二人は抗議した。
が、高校生と大人に勝てるわけがない。
そんなことを考えながら、前髪に手をやる余裕もなく、歩き続けた。
そして三人が思っていた以上に、署名は集まった。
大きな紙袋、五つ分。
近所の人たちだけが、かき集めてくれても、これほどは集まらない。
陸も高校で声をかけたし、ネットで募集をかけたりもした。
期限が短かったこともあるが、ここまでこぎつけられたのは、これだけの人数が同じ気持ちになってくれたから。
もちろん、名前だけ貸してくれた人も中にはいるだろう。
でも、三人は素直に嬉しかった。
応援の声もかけられたが、頭ごなしに叱られることもあったから。
いったん配り終えてしまってから、とたんに怖くなってきていた。
やっぱり間違っていたのではないか、迷惑をかけてしまったのではないか。と。
しかし、この署名の束は応援の証だ。
三人は気持ちが奮い立ち――市役所に電話したときは、縮こまってしまったが――勇気って、こういうことを言うんだな。と実感する。
お父さんや、近所の人たちにも手伝ってもらって、直に市長に渡すことさえできた。
「こんなに……君たち三人で集めたのかい? 大変だったね。
しっかり考えさせてもらうよ」
と、笑顔を絶やさない市長の口から言ってもらえて、すっかり安心してしまう。
これで三人は、約束を果たしてもらえる。と思ったのだ。
無事に卒業式が終わり、満開の桜並木に見送られることができた。
自分たちが、この桜並木を守ったのだと、誇り高い気持ちでいっぱいだった。
桜が散り、工事予定の前日から、工事が始まってしまうまでは。
その一報が入ったのは、農作業のために、朝早くからでていた林おじさんからだった。
日曜日に工事を始めるなんて、驚き以外なにものでもない。
海斗はパジャマのまま、慌てて家を飛び出した。
桜並木までは、そんなに離れていない。
角を曲がり、思わず足が止まる。
工事用の柵で囲まれ、大きな重機が土を掘り、チェーンソーで桜を切り倒している。
木のにおい、土のにおい、オイルのにおい。
遠巻きに、それを住民が見ている。泣いている人もいる。
海斗は、その場から動くことができず、声も出なかった。
うつろな頭の中で、
どうして?
と繰り返される。
桜と葉が、いつそばに来たのかもわからない。
立ちすくんでいる海斗の場所から、無残にも切り倒されていく桜の木を見て、二人は海斗の手をにぎった。
怒りよりも、信じられない気持ちでいっぱいだった。
駆けつけてきた近所の人たちの、なぐさめてくれる声も、三人には届かない。
どうして? なんで、こんなことしてるの?
海斗は、知らずに泣いていた。
立っていられなくなった桜は、その場にうずくまってしまった。
葉も、海斗の手を強くにぎったまま、歯をくいしばり涙を流す。
三人の母親が、家に連れ帰ろうと、彼らの肩を抱く。
海斗が、震える小さな声で母に聞いた。
「どうして? 約束、したのに……なんで?」
海斗の母も、桜の、そして葉の母親も、泣いていた。
「あんな大人に、みんなは、絶対なっちゃだめよ。絶対……絶対よ?」
春は、終わってしまった――
海斗は、嫌な思い出を振り払うかのように頭を振った。
学生カバンを小脇に抱えて、どうしても慣れない半袖シャツの、一番上のボタンをはずす。
「なんか全部変わったのに、オレだけ取り残されてる気がする」
思わずつぶやいてしまった言葉に、振り返った桜の顔は驚きを表していた。
長い髪をなびかせて、海斗に顔を近づける。
「変わった? 全部? バカ言わないで! わたしは絶対、変わらない」
言うだけ言って、肩を怒らせ、足早に先を行く。
あまりの形相に、立ち止まってしまった。
ぽかんと口を開け、海斗が見送っていると、後ろから思い切り突き飛ばされる。
「いってーな! おまえもかよ」
ギリギリのところで、転ぶことは回避できたが、文句を言いながら振り返るとそっぽを向いた葉が笑っている。
体制を建て直し、ふくれっつらで前髪をさわった。
葉も、少し怒った顔になり、そのクセを指さした。
「おまえが、バカなこと言うからだ。
そのクセも変わってないくせに……大体、ボクらが変わるか! バカ!」
葉も、先を行く桜に追いつかんばかりの勢いで歩いていく。
二人の攻撃ならぬ口撃に、海斗はただ目を丸くした。
あぜんと見送っていると、先を行く二人が振り返る。
いたずらっぽい笑顔が、二つ。
変わってない。変わらない。
「次は絶対、ボクが背中をどつく!」
走り出した海斗に、二人は笑う。
「無理無理! 追いつけるわけがないじゃん」
桜は、走りやすいように学生カバンを小脇に抱えた。
「そこまでは変われないだろー」
葉はそのままの体勢で、舌を出す。
変わりゆくモノ。
変わらないモノ。
――いつだって、一緒に乗り越えられる仲間たちと共にいたい――
読んでくださって、ありがとうございます! いかがでしたでしょうか?
実はこのお話の中の、病院側の説明で、
「市のほうの許可は、もう頂いておりますので」というのは実話です。
それと近所にある、病院とは別の場所にあった桜並木がきられてしまった事に、衝撃をうけたので、組み合わせてみました。
*時間シリーズとして書いた続編をまとめた、目次を作成しました。
下部『そこに在る時間』リンクから、気軽にのぞいてくださると嬉しいです。
*光太朗様から、とても素敵な『時間シリーズ』を書いていただきました!
みんなの特徴をいかんなく発揮してくださってます! 嬉しくて嬉しくて〜♪
後書きあとに、リンクを貼りましたので、ぜひぜひのぞいてみてくださいませ♪
二次創作、時間シリーズ(いただきもの)
・『ちょっとだけ憂鬱な時間』(光太朗様作)