黄昏に吹かれて(3)
レインがオーファン・エオラス区に店を構えたのは今から二年ほど前のことであった。
それまでレインはストレンジャーと呼ばれる者であった。
幾つもの街と街を行き来し、未だ手つかずの自然の中で暮らした経験から、レインはエオラスこそ、自分が求めていた場所だと悟った。その時は、まだ人生の序盤であったというのに、すでにレインは周りで起こる一つ一つの出来事に一喜一憂することがなかった。
古樹が連なる、古の森に暮らす者。高く連なった、鉱脈豊かな山脈に住まう者。雪と氷の大地で懸命に生き続ける者。およそ、この大陸に生きる様々な種族の国へと訪れたレインは、次第に自身の価値観を決めるであろう感受性を薄い膜として縮めていた。
それは、奇しき運命を背負った亡国に住まう者、人間の手が及ばぬ場所で過ごす半人半獣の者達、血を求める者達、決して人と相容れぬ種族――――人間によって住処を奪われた種族との、幾つもの出会いが原因だったのかもしれない。
その種族の殆どがレインを、人間を忌み嫌っていた。
憎悪と嫌悪に満ちた瞳で、レインを国から追い出そうとする種族が殆どであった。しかし、時にはレインを友好的に迎え入れてくれる種族と出会うこともあった。その中には、最初は友好的に振る舞い、信用させてから命を奪おうとした種族もいたが。彼らと向き合う度に、得るものも確かにあったが、失ったものはもっと多かった。
価値観。
まだ少年と呼ばれる年齢で漂流した、レインは様々な出会いからそれを再構築した。
アンテナを張り、鋭敏な触手を縦横無尽に差し伸ばして、あらゆる価値観を小さな内宇宙に迎い入れる。忘却することもなく迎い入れたそれはレインを疲弊させたが、彼は決して駆けることを止めなかった、生きるがために駆け抜けた。
そしてレインは騎士と出会った。
まだ年端もいかぬ、同世代の騎士は、レインが忘却した夢物語のような疾走感を有していた。
――――起きなさい、もうお昼よ。
夢の中で掛けられた騎士の言葉がレインを目覚めさせる。
窓から差し込む陽光に眩しさを感じながらレインはベッドを降り、体を伸ばしながら欠伸をし、体を左右に振ってから扉を開いた。同時に、料理の匂いがレインの鼻腔をくすぐって逃げていく。どうやら匂いの発生源はリビングからであるようだ。
「また迷惑を掛けたみたいだな」
レインはぽつりと言うと、リビングに向かう。
そこに居たのは一人の女性だった。
すらりとした体に、整った顔立ち。そして、大きな目は海を湛えたかのように深い青だった。真っ直ぐに伸びた髪の色は、鮮やかな金色だった。
「やっと目を覚ましたみたいね」
女性は寝坊癖のある弟の面倒をみる、姉のような口調で言った。
「おはよう、エリィ。調子はどう?」
レインが聞いて、
「心配しなくとも、私はすこぶる健康よ」
彼女、エリィーゼ・クロムハーツは笑顔で頷いた。
その直後に、
「こんな時間になるまで寝ているなんて、随分とお気楽ね」
軽く睨みつけて言った。
「なるほど、帝国が誇る機甲兵をドラゴンが完膚なきまでに叩きのめし、脅威を感じた帝国は王国、アールヴ、ドヴェルグと共同戦線を張ろうとしている。ドラゴンの存在はアールヴが認証済み、しかもアールヴが会談に参加する構えを見せたから、王国、ドヴェルグも参加表明をするしかない…………と」
エリィーゼは、食事を終えたレインにドラゴンのことについて説明していた。
すでに王国領の街にその事実が伝えられ、王国が行ってきた商品の買い取りに対する真実が国民に明かされていた。最も、レインが先日訪れた友人からそのことを聞いていたとは知らずに。
「アールヴの情報によると、ドラゴンはホルム峡谷の近くに潜伏しているとのことよ。王国はホルムの要塞に物資と食料を運び、ゴブリンが南下しないように防いでいる。十三騎士団の内、すでに三つの騎士団が要塞にいるけど、まだゴブリンの攻撃は一度も行われていないわ。でも、毎晩、ホルムに火が集まっているの。どうやらゴブリンの方も、ドラゴンは先兵を集めているみたいね」
「ドラゴンが動き出す前に打開策を講じなければいけない、と言うことだね」
「そうよ」エリィーゼは頷いた。「けど、肝心の打開策が浮かばないのよ。ゴブリンに対しては心配していないけど、ドラゴンが大きな壁になっているわ」
「ドラゴンを倒す術がない……か」
ぴくりと眉を上げるエリィーゼを意に介さず、レインは抑揚のない声で続ける。
「無花果の刀匠でもドラゴンを討つ武器は作れない。ただの鉄ではドラゴンの鱗を切り裂けないからね。せめてミスリルがあればなんとか…………それでも厳しいか」
「それにミスリルはドヴェルグの領土でしか採取できないわ。剣聖一人の武器を作るだけでも、ドヴェルグと気の長い交渉をしないといけない」
「この案はあまり現実的ではないね。でも、ドラゴンを倒せるものを用意することはできる」
それを聞くと、エリィーゼは少し驚いたように、眉をひそめた。
「どう言う意味? いいえ。貴方が言うのなら、その可能性はあるのかもしれないけど……」
「一応、ある程度の考えはあるよ。僕だけじゃない。他の無花果の刀匠二人もドラゴンを倒す策を考えているだろうね。でも、あの二人は僕と違って武器の大量生産が出来る。その分、僕のものより質は劣るけどね。でも、それでも普通の鍛冶屋が作るものよりは比べ物にならないぐらい良質だ。今回の件で、王国から鎧や盾の発注をとても多く請けている可能性がある。もちろん、その依頼は終わっていないと考えるのが妥当だろうね」
「正解。レイン君が四百人分の武器を作る合間に、あの二人はその三倍以上のものを作ってしまう。そう考えると、今、あの二人の生産作業を遅らせるわけにはいかない。…………今回の戦いには一般兵…………国民が徴兵される可能性があるのよ。多くの武器が必要になるわ」
「どうするにせよ、王国の武器に関して知っている無花果の刀匠の誰かが、会談に出席しないといけない。今、手が空いているのは僕だけだ。必要なら、会談には僕が出るよ」
「でも、レイン君は公の場が苦手でしょう? 三大種族、しかも帝国を含めた四ヶ国での会談に、情報屋が来ない、なんてことはないわよ? それでも良いかしら?」
「…………それは考えてなかった」レインは正直に答えた。「やっぱり他の人にして欲しいな」
「意気地なし」半眼でエリィーゼは言った。
それを聞くと、レインはただ苦笑いを浮かべることしかできない。
半眼のまま、エリィーゼは呆れたと言わんばかりに溜息を吐いた。
「でも……実際に王国から依頼されたらどうするの? ミスリルでも効果は薄いのでしょう?」
「元ストレンジャーを甘く見ないでほしいな」
「寝坊癖がある人にストレンジャーなんて務まるのかしら?」
遮るように発せられたエリィーゼの言葉にレインは、
「二日も寝ていなかったら、誰でも寝坊してしまうものだよ」
と言い訳するしかなかった。
「ま、まあ、話を戻すと、ストレンジャーだった時、僕は各地の遺跡を調べることもしていたんだ。ドラゴンの記述が見られた遺跡は全部で十二個。その中でドラゴンを倒す、と言うよりもドラゴンと対峙している絵があったのは一つしかない。そこを調べれば、なんらかの手がかりがあるんじゃないかと僕は思っている」
「太古の存在であるドラゴンに対抗する為に、古代の産物を使うと言うことね」
「でも、幾つか問題がある」レインは一旦そこで言葉を切った。それから厳しい口調で話を続けた。「そこまでの道のりがひどく大変なんだ。王国十三騎士団……聖騎士クラスの中で、腕利きの上位騎士だとしても危険な場所なんだ。特に、そこの生態系が独特だから、その場所に精通してないと、とても辿り着けそうにないなんだ。なんだって、死都の森を抜けないといけないからね」
「死都の森ですって?」エリィーゼは叫んだ。「死都の森の先って……そんな場所、一つしかないじゃない」
「ああ」レインは答えた。「奇しき運命を辿った亡国、風の民の都さ」
だが、エリィーゼは返事をすることもできなかった。ドラゴンは現れ、敵である帝国との会談が決まり、守るべき国民を兵士として徴兵してしまう……。騎士としての使命を果たせない中で、知り得た一縷の望みは不確実なものである。それを聞いたら、もうどうしてよいのか分からなくなったのだ。けれども、そこで自分の大切な人を思い出した。
「貴方が言う遺跡には何があるの? 本当にドラゴンを倒せるだけのものがあるかしら?」
どこか祈るような思いでエリィーゼは尋ねる。
すると、レインの口調が和らいだ。
「僕の考えでは、あそこには――――」
次の言葉に、
「嘘でしょう?」
エリィーゼは叫んだ。王国十三騎士団の全員が頭を捻っても出てこない案をレインが言ったからだ。同時に、なぜ目の前の青年がそのような事を知っているのか、と言う疑問が頭に浮かんだ。と、その時、
「でも、二つ問題がある」レインが言った。「一つは、まだその遺跡にいる保証はないと言うこと。もう一つは、王国が……四ヶ国の主席がこの案に賛成するとは限らないと言うこと。結構無理がある案だからね。それに、重要な時に精鋭を失うから、防衛の為の戦力が下がってしまうんだ。敵は、ドラゴンだけじゃないからね」
「他の三ヶ国が…………帝国がこの機に乗じて侵攻してくると言うことね」
「三ヶ国の中から特定して言われるなんて、帝国はよほど信頼されてないみたいだね」
「それはそうよ。あの国に皇帝はもういないわ。政治の実権を握っているは軍部よ。信用なんて出来るはずないわ」エリィーゼは軽く息を吐いた。「この話はこの辺で終わりにしましょう。で、レイン君が言うように、貴方の案はあまり良い案として扱われないでしょうね。一応、国王様に進言した方が良いかしら?」
「無花果の刀匠がドラゴンを倒す術を考えている、と言うぐらいで良いよ。寧ろ、詳細は言わないで欲しいな。少しだけ、僕に考えがあるんだ」
「でも、予め貴方の案を熟考させた方が良いのではないの?」エリィーゼが尋ねた。
「どうせ他の国も考える時間を求めるからね。それなら同時に言った方が効率が良い気がするんだ。それに、この案が価値のあるものなのか、と言うことが僕にも分からないからね」
「レイン君にも、考える時間が必要と言う訳ね。……それなら、それで構わないわ。会談出席者に選ばれたら教えるわ」
「ありがとう。そうしてくれると、ありがたいな」
「それなら、善は急げ、ね。王都まで三日は掛かるから、すぐに準備して向かわないと会談までに間に合わないわ」
そうエリィーゼは言うと、早足で玄関に向かう。レインに別れの挨拶をすると、鍛冶屋を後にした。そして――――。
王国、帝国、アールヴ、ドヴェルグの四ヶ国で行われる会談にレインは参加することになった