第2話:ネクロマンス(中編)
街の目抜き通りを西に進み続けると、やがて緩やかな坂に差し掛かる。
この辺りから家屋の数も徐々に疎らと減り始め、その合間を木々が色の褪せた葉を茂らせるようになる。今となっては街も廃屋ばかりだが、とは言え枯れ木も山の賑わい。西の丘陵に近づくに連れ、レナコーンは物寂しさをより一層に増していった。
港から離れるに合わせて風も相応に乾いてゆき、孕む風の臭いもいよいよ死者の国レナコーン本来のにおい――死臭へと移り変わってゆく。
赤い外套の男は途中で足を止めた。
そしてこの風鳴に耳を澄ます。
「――――」
少女のすすり泣くような、あるいは含み笑いを連想させるような音が抜けていく。
「泣いてるのか、笑っているのか。いや、極まればどっちも一緒か」
街に漂う陰気がそう想起させているのかも知れない。あるいは真実として、この霧に紛れて何かが感情の発露を堪えているのかも知れない。
男は再び歩を進める。
街道は舗装された石造りから徐々に土の見える獣道へと移り変わり、左右を挟む僅かな家屋も、徐々に元気の無い草へと変わっていった。
レナコーンが死の都市として認知されるようになったのは、濃霧が街を覆うようになってから3年目。街人たちがある日、薬を蒔かれた雑草のように集団怪死を遂げた頃である。
――魚を取りに出かけた夫が帰らぬ。
――市場に野菜を売りに行った妻が戻らぬ。
――散歩に出かけた祖父が見当たらない。
――遊びにいった子供たちがいない。
すっかりと見通しの悪くなった街で、まずはそのような集団失踪事件が唐突に起きた。レナコーンに暮らす街人達は日中からランプに明かりを灯し、銘々に家族の名を呼びかけながら朧な街を彷徨う。しかし街中の何処を探せど、彼らの姿は見当たらなかった。
一体どこに行ったのだろうか。
夕暮れ前に街人達は酒場グウィンドリンに集まり、各々の情報を交換し、共有しあった。しかしながら取り立ててというものはなし。強いて挙げても西に向かった何人かが、少女のすすり泣きとも含み笑いとも知れぬ曖昧な風音を耳にした――その程度である。
進まぬ状況の中で日が陰り、不安の色はより一層濃くなる。
本当に、彼らはどこに行ったのだろうか。
やがて極めて消去法的な結論として、彼らは街の西へ向かう方針を固めた。ある者は主神ゼウスに手を組み、ある者は救神イースを拝み、銘々に祈るような気持ちを胸に抱いた。どうかこの結論ばかりはお許し下さいと。
やがて日が沈み、街を霧よりも濃い夜の帳が覆う頃、皆の終着地点は街外れの丘陵にあった。レナコーンの中で最も悲しく不吉な場所。最西にある風穴に設けられた地下墓地。街人の手に持った松明の明かりが照らしたのは、行方不明者たちがその入口に身を寄せるようにして果てた姿だった。
数はざっと50。
亡骸たちはまるでそこを目指して行き倒れたかのように、顔を土色にしつつも、手をその哀しい風穴の方に伸ばして転がっていた。
その死屍累々という有様に、ある者は悲鳴をあげ、ある者は呆然と膝をつき、ある者は逃げ出すようにその場を離れた。
疫病か。通り魔か。はたまた集団自殺か。
翌朝、一報を受けて駆けつけた帝国の調査団一個大隊により、街の隅から隅に至るまで大々的な捜索がなされた。しかし進展に繋がるような手掛かりはただの一つとして見つからず、彼らは顔色を失った。
――死因は不明。
調査同日という、早々と出されたにしては余りに信じられぬ結論であった。
しかし調査団によると、街人の遺骸にはこれと思しき傷も見当たらず、毒性反応も確認されず、しかしただ脈ばかりが停止しているという塩梅で、つまりは『ただ命がない』という不可思議極まる死に方だったという。
そうして付けられた結論は『怪死』である。
さらに死因が不明ならば犯人も不明。
街は一般民家や商業施設のみならず地下水道や停泊中の船舶、果ては墓地に至るまで草の根を分けた捜索がなされたが、手掛かりはなかったという。
翌日の日没前、ギリシア帝国の調査団はその結果に渋面しつつも、『当分、出来る限り外出は控えるように』という遠吠えにも似た言伝のほか、一個小隊の騎士を見張りとして送ると約束し、逃げるようにしてレナコーンを去っていったという。
第二の集団死が発見されたのはその翌朝である。
まだ身内の突然死を受け入れられないと嘆いていた未亡人が、あるいは父が、息子が。そうした遺族たちが、彼らの悼んでいた者達と全く同じ場所、同じ形態、同じ形相で果てていたのだ。地下墓地の入口で、行き倒れるようにして。
未だ埋葬さえも済んでいない第一の集団死に続く、第二の集団死。立て続けという言葉があるにせよ、あまりに間断のない死の連鎖。深い霧の中、それを目の当たりにしたレナコーンの街人達は静かに悟る。
ここはもうかつてのレナコーンではないと。
愚か、人間の住処でもないと。
ここは――他でもない。
――死者の国だ。
そうしてレナコーンから人の姿は霧のように消えてゆき、遠からぬうちに死者の国となった。
ほどなく、帝国より送られてきたのは一個小隊の騎士ではなく、禁忌区域として立ち入りを禁ずる触書であった。
街道がすっかりと途絶え、行く先が足に草のまとわりつく獣道と化した頃、霧の向こうより朧な人影が浮かんだ。赤い外套の男は足を止め、その正体を静かに伺う。
霧より滲み出るように現れたのは、闇に溶けるような黒の鎧を身につけた金髪の麗人――顔に道化の片面をつけたアンゼリカ・アトキンスだった。
彼女は外套の男を認めると足を止めた。
「こんにちは旅の人、またお会いしましたわね?」
外套の男は挨拶代わりに肩をすくめる。
「ああ、あんたか。てっきり死神かなんかだと思ったぜ」
「ふふふ。他所ではいざ知らずここではうってつけの社交辞令ですこと。――それにしても旅の人、この先にあるのは寂しく哀しく、そして古めかしいお墓だけですけれど、何かごようですの?」
ギルドの依頼に関して実地検分にきた――と正直に言っても良かったのだが、しかし額が10000Gという額だけに、余計な競合相手を増やす恐れがあることも思い至り、男は咳き込む。
「――まぁな、ちょっと野暮用だ。へへ」
男がそうして胡散臭く笑うと、「へぇ」っと女の目が細められた。
「もしかして貴方、私とご同業かしら?」
そう言って女の右手は、しなやかに腰の曲刀へ伸びた。その所作はどんな言葉よりも雄弁に物語る。もしも狙いが自分と同じであれば、これを旅の縁で済ますつまりはない、返事によっては首を刈り取ると。
静かながらも穏やかではないその意思表示に、外套の男は手を挙げ苦笑した。
「いやいや、ちょっと待て。ただの散歩だよ。散歩。死体にゃ指一本触れねぇよ。――で、死者の国で散策するとくれば、むしろ中心は市街より墓地だろ?」
アンゼリカはしばらく男の目を値踏みしたが、やがてその目を細めて
「――そう。それは随分と奇特なご趣味ですこと」
そして『既に抜き払っていた【左手】の曲刀』をヌルリと収めた。
外套の男の頬を、冷たい汗が伝う。
――本命は左かよ。見えなかったぜ、マジ。
「ところであんたの方こそ、そこまで気張るってことは目当てのもんでも見つけたのかい? 見たところ手ぶらみたいだが」
等といってみたところで、彼女が棺を担いで降りくる絵を想像していたのではないのだが。
アンゼリカは手の甲に髪を滑らせる。
「ええ。それなりの収穫は。最も生きてもいなければ死んでもいない玩具のようなものですけれどね」
「生きてもいないし死んでもいない? 何かの謎かけかい?」
男は腕を組む。
「いいえ、言葉通りの意味ですわ」
「まさか、上にはアンデッドでもいるのか?」
アンゼリカは笑う。
「さて? なにせここは死者の国。生きている者こそ特異な異端なところ。地下墓地の奥まで進めば、その程度の魔物はいるかも知れませんわね。ふふ」
そうして彼女は再び歩み始める。
徐々に距離がつまり、すれ違い様、
「――ところで、まだお名前を伺ってませんでしたわね?」
アンゼリカが肩越しに問いかける。
「ああ、互いにな?」
そして赤い外套の男も答える。
「ゲルニカと、そうお呼びください」
「XXだ」
「XX。――ただの空似と考えて宜しいのかしら?」
「ああ、この名前のせいで良く言われる。正直、帝国には悪いがいい迷惑だ」
「いいえ、名前など幾らでも偽れますわ」
微かにゲルニカが振り返る。
「しかし『人相』はそう簡単には参りませんわよね。――私が申し上げたのは人相の方ですわ」
――ねぇ、隊長。
と、囁くように言った。まるで含み笑いを堪えているかのような、そんな押し殺したような声で。
「へへ。名前だけじゃなくツラまで似てるってか。そいつは随分と恐れ多いが、ギリシア帝国の親衛隊隊長が、何を好き好んでレナコーンまで来るってんだ?」
「有り得ない話ではございませんわ。帝国から逃亡して最初に身を潜める場所として。ここはそう悪くありませんから」
「おおう、経験者は語るってかい? ――アトキンスの嬢ちゃん」
そうして男が――XXが微かに振り返った時、その喉元には湾曲した切っ先が煌めいていた。
「……疾いな。疾い。実に疾い。まさに一撃必殺だ。しかし一撃必殺は一撃で必殺しときな。同じ相手に三度も見せるもんじゃないぜ?」
そのとき冷たい音を響かせたのは、彼女の右目に突きつけられた黄金色の駆動銃の撃鉄。
アンゼリカが曲刀で首を引き切る前に、その引鉄が絞られるのは明白だった。彼女が目を細める。
「――小型の六連式駆動銃キャリッジリターン。これも空似かしら?」
XXはチェシャ猫のように笑う。
「さてどうする? ここで二人揃って死者の国で市民権でも取るかい? 俺は首なしであんたは脳なしだ。それともしばらくは先延ばしにしとくかい?」
――二つに一つだ。選んでくれ。
二人の間で交差する、切っ先と銃口。視線と視線。思惑と思惑。
しばし膠着状態が続いたが、
「そうですわね――」
アンゼリカが呟く。
「やはり空似と考えたほうが、今は宜しいですわね。お互いに」
そして曲刀を静かに引いた。
「ああ、お互いにな」
合わせるように、XXも駆動銃を外套の中に収める。それにアンゼリカが髪を流してから、やや視線に侮蔑を込めて言った。
「いくらここが身を潜めるにうってつけとはいえ、私の敬愛するオリハルコン隊長ともあろう方が、そのような見窄らしい身なりでこのようなところを補付き歩いているだなんて、そんな巫山戯た話がありえるわけありませんわね、ふん」
と。
XXは静かに苦笑する。
「けれども一応、それと憎らしいぐらいそっくりな方を、レナコーンの待合酒場で目撃した――ぐらいのことは教えて差し上げるべきでしょうね」
その笑みが凍る。
「――オリハルコン元隊長を今も血眼になって探しているであろう、私の可愛い可愛い――」
――従妹に。
アンゼリカはそれだけ残し、去っていった。
XXは、彼女が消えた後もしばらくその場を動けなかった。
そして幾ばくか経過した頃、踵を返して再び丘陵を目指し始める。
「何が身を隠すに最適だ、ったく。遅くても明日中じゃねぇかバカ」
ひとりごちた。
夢か現か幻か。曖昧模糊とした白く朧なレナコーンの街外れ。緩やかな山道とも取れる道なき道を進むことやや半刻。行く手を阻むように茂っていた草木が左右に分かれ始めたかという頃合いに、XXは、一軒家の影を認める。
レナコーンが港湾都市として栄えていた頃より、不浄の場として忌まれていた西の丘陵に、ぽつねんと存在する粗末な一軒家。そこには酒浸りの男とゼンマイ式の自立人形が、地下墓地の手入れで生計を立て、10何年と暮らしていたという。
XXはそこで足を止めて、人影を伺う。
『人』の気配は感じられない。
「さすがに今はもう廃屋――か」
呟いたのもつかの間。赤い外套に風を孕ませつつ、廃屋を脇目に歩を進めた。
墓場の守り手と言えばまだ聞こえはいい。しかし彼らの呼称には侮蔑が込められ、墓掘人、もしくは死体処理屋と呼ばれている。その侮蔑は彼らの仕事ぶりに起因したものなのか、あるいはそれともレナコーンが華やかであった頃、賑やかな暮らしぶりが市民にもたらした高慢さに起因したものなのか、それを知るすべは今やない。
死者を出さぬ村はこの世に一つとしてない。
故に墓守を村から欠くことはできない。しかし同時に、彼らが好き好まれることもまた決してない。丁度それは厠のようで、つまりここが不浄の地とはそういう意味合いでもあるのだろう。
「おわっとっと! ちょっとそこのお兄さん待った! 待った待った! 待つです! 待ってやるです!」
と。背景の一部としてやり過ごしたはずの一軒家より響いてきた、脳天気なのか鬼気迫っているのか、イマイチ判断に困る女の声。
「そこから先には! もうこのアタシの目の黒いうちは人っ子一人として行かせやしないんだぜ! 実際はブルーだけど!」
と続く、一方通行全開なセリフ。まるでこの物語への直接介入を訴えんばかりに厚かましく、そして騒々しくさえある声。その声の主に、XXは、口を『へ』の時に曲げて
「ああん?」
と、何か猫に喧嘩でも売られたかのような顔をして振り返った。
「そうそこの! そこのなんかこう、トッポイ感じのお兄さん! 貴方です!」
大きなスコップを肩に担いで、エプロンドレスを泥だらけにしたブロンドの女が、さながらまるで推理小説みたいに、こう、犯人をビシっと指摘する名探偵――のつもりになって大外れを喫し、後で赤っ恥をかく三枚目役みたいなノリで、XXの方をビシっと指さしていた。
「聞いて驚いて下さい! それと震えて下さい! この先にあるのはなんとレナコーン最恐のデンジャラススポット地下墓地なんです! そしてそこへ調子こいて観光しにいって戻ってきた人は、なんとなんとほとんどゼロなんです! だからここから先は、名ばかり待合酒場グウィンドリンで依頼を受諾しちゃったっていう命知らずさんしか通っちゃいけないことになってます! 参ったか! 参ったらそのままUターンするかこの警告に感謝してアタシの背中のゼンマイでも巻いて帰ってゆくといいです――」
XXは生暖かな視線を返しつつ、口は『へ』の字のままに言う。
「ああ、うん。その命知らずなんで通るぜ」
と。そう言うだけ言って、踵を返す。背後に聞こえる「ほえ?」という間抜けな声が聞こえて数秒後。
「ちょ! おま! 待って下さい! 人の話を――いや、自立人形の話は最後まで聞くってママに習わなかったのかい……った!!」
という、なんだか足を挫いたような声。振り返れば、今しがたまで威勢の良かったエプロンドレスの女が、うつ伏せに倒れて痙攣している。
「……」
震えるドレスの背中には、大きな手回し式のゼンマイが取り付けられていた。これは彼女が人ではなく機巧人形である証。身なりからして給仕型であることは間違いないだろうが、しかしその、慎ましさの欠片もなく、むしろ鬱陶しささえ伺える程の人間らしさからして、いわゆる彼女が普通の自立人形でないことは明らかである。
「った――かは」
そしてそれがたった今、ギリギリと錆びた金切り音を発しつつ、ゼンマイの回転を止めたところだった。
「く――。うぐうう……無念。志半ばにして果てようとしているトッポイ兄さんを止めようとした志半ばでアタシが果てることになってしまうなんて。無念。享年、見た目年齢的に18歳。将来の夢はギリシア帝国王妃の自立人形、ここで天寿を――」
「程よく寝覚めが悪くなりそうだな」
やれやれと引き返してきたXXは、その天寿を阻止すべく屈みこむ。そしてエプロンドレスの背中より突き出ている大きなゼンマイをギリギリと捻ってやった。
「どうだ?」
「も、もうひと巻きで復活です」
「わったよ」
今さら言うまでもないことではあるが、ここで。この物語のヒロインながらも、しかしイマイチ出番はない主要人物の紹介と相成る。
スコップ担いだまま西の丘陵にてぶっ倒れている彼女こそ、後にXXと共にその名を大陸に轟かせることになるゼンマイ系ブロンドハニー。将来の夢はお姫様。機巧鋸は淑女の嗜み。名は不立文字飛鳥。そんな彼女とXXとの、今一なファーストコンタクトである。
*
「見た限り完全自立型の自動人形みてぇだが、自分でゼンマイ巻くの忘れるぐらい今日は大忙しだったのか?」
「いやまぁ、忙しいっちゃ忙しいかもしれないですけど、そもそも休むっていうのは右や左の御主人様の考え方であって、アタシみたいな道具には縁のないもんですよ。ほら、ていうかむしろ、道具って使い込む方が味が出るとか言いません?」
「んーあーまぁ、どうだろうな。しかしもしもそうなら――オメェのその性格って使い込まれた結果そうなのか? その。給仕型にしちゃ随分と砕けた感じだが」
「え、いや、これは地ですぜ。にゃはは」
廃屋とも見紛うような荒れて寂れた一軒家の近く、シャベルを手にひたすら穴を掘り続けるゼンマイ式のメイドに、XXは問いかけた。
つい今しがた、過労を原因として動作不良を起こしかけたばかりだというのに、立ち直った彼女の掘削動作は全開。
一軒家のそばには、崖というほどでもない段差のある平地があり、そこには一人分の棺が丁度入るかという深さの穴が既に7つ用意されている。今朝から掘り続けているのだとすれば、相当な重労働である。しかしそれでも、彼女の振るうスコップは素早く力強い。
その振る舞いは、忠実な下僕たる給仕型としては理想的なのかもしれないが、しかし彼女から醸し出される尋常ならぬ人間らしさのせいで、随分と非道徳的な行いを強要されているような印象も受ける。
「――――そういや。まだ名前を聞いてなかったな」
彼女は一度手を止め、顔にかかった髪を払う。
「アタシはノヴァって言われてますよ」
言ってから再び、彼女――ノヴァは作業を再開した。
ノヴァ――転生や新生、羽化というような意味を持つ女性名詞。ギリシア帝国の女にはそう珍しくない名である。平和にして平凡、有り触れたそれ。レナコーンが失ったものの一つに違いないそれを、なおここで暮らす者が忘れ形見のように冠している。そのあり方はやや皮肉ではあるが、しかし決して嫌いではないと、XXはノヴァの横顔を見ながら思った。
何より、名前があるというのは良いことだ。
「ノヴァ――か、なかなか良いな。いつかレナコーンもそうなったらいいな。新生と言うより、回帰なのかも知れねぇが」
と、XXは靄のかかった景色を見るともなく見ながら言った。不吉な西端とは言え丘陵地、霧が晴れればここの眺めも悪くないはずだ。
ノヴァはしかし、ややはにかむように顔を左右に振って言う。
「いえいえ、ノヴァってそんなのじゃなくって、無存在って意味です」
ごく当たり前の口調で、彼女は――ノヴァは言った。自分の名の意味は価値と意味のない『無存在』であると。
「やっぱり紛らわしいですよね。へへ」
ノヴァは言い正す。花は枯れるものだし日は暮れるもの――まるでそんなごく当たり前のことを口にするかのように、
「――そうか。その名付け親は?」
黙々とスコップで穴を掘り続ける彼女に再び視線をやる。すると彼女は手を止めぬままに応えた。
「えへへ。名付け親だなんてそんな贅沢、アタシみたいな道具にあるわけないじゃないですか」
その笑顔は決して自嘲するような影のあるものではなかった。不相応な褒め言葉をかけられて、照れか冗談で受け流そうとするたぐいの、明るく、まるで人間のような笑みだった。けれどもだからこそ、XXにはそれが酷く不快だった。
無存在では決して出来ない、人としての内面が伺える明るい笑み、そんな笑みで無存在と言われたのが、酷く不快だった。
首のあたりを一度ガシガシっとかいてからXXは言う。
「ところで、さっきから掘ってるそれってなんなんだ?」
問いかけて見ればその時、初めてノヴァの表情に陰りが現れた。
「――まだ、死んでいない人のお墓を掘ってます」
と。
XXは、ここが墓守の家であることを失念していたわけではない。急な話題転換を図ろうとしたために、ついつまらぬ失言をしてしまったのだ。
墓掘りが穴を掘っていてそれが何の穴だと尋ねる。それほど意味のない問いもない。しかしいまはそれ以上に、彼女がそうした仕事を割り切ってやるような人格ではない、その事を知った上で聞いてしまったために、XXは頭をかいたのだ。
「おかしいですよね。御主人様たちって、アタシみたいなの作れちゃうぐらいスゴイくせに、でもほんとあっけないぐらい簡単に死んじゃうんですもん。アタシからしたら、ええ、うそ、っていうような、ほんとそんな小さな事故でも、一刻を争うぐらいの怪我を負ったりしますよね。ほんとおかしいです。――おかしいですけど、でも」
生きてるって、結局、死んでいく、ってことだから、それも良いじゃないかなと思ってるアタシもいます。
ノヴァはそう言いながら、自らの掘り進めた土穴を改めて見下ろす。
「ここに入るっていう時は、とても不幸で哀しい時だと思います。でも、最終的な未来の行き着く先、それがここにあるっていうその事自体は、ちょっとだけ羨ましいかもです。だって、それは今を生きられているっていう、一つの証じゃないかなって。そう思うからです。だからアタシみたいに、動きは止まっても死ねない、死ねないくせに『死にたくない』みたいなこと言って、ゼンマイを巻けばケロっと動き出す――なんていうのは、どうしようもなく生き物じゃないんだなと思います。――だから」
だから――やっぱりアタシには、『人間みたいな名前』が与えられても、『人間の名前』が与えられちゃいけないって思います。ノヴァはノヴァでも、ノーヴァディのノヴァで調度良いんです。
「へへ」
と、彼女はまた明るく笑った。
なまじ人の似姿をしているだけ、名前もなまじ人に似ていて良い。
けれども所詮は似姿だから、人の名前であってはいけない。
自分のあり方とはそういうものであると、そういう弁え方が、やはりXXには不快だった。そのうえで彼女が笑っていることに、彼は静かに舌打ちする。
「だからアタシは、生き物のように死んでしまった、このレナコーンが少し羨ましいです。いつまでも生きているだなんてそんなの、死んでるのと一緒ですから。そういう意味では、こうして死んでしまったレナコーンって、今だからこそ生き物だったって、そんな風に言えたりしませんか?」
ノヴァはまっすぐにXXの方を見てくる。XXは肩をすくめて、「さてな、そういう考えは持ったことねぇわ」と嘆息した。
「けどよ。もしもこの街が死んだんじゃなくて、ただ眠りについただけだったらどうするよ? あるいは、病で伏せってるだけとか」
え? と視線をくれるノヴァ。XXはただ目を細めて地下墓地の方を伺う。
「つまり、眠気が取れたら前のように起き出して、病が癒えたら昔みたいに騒ぎ出すってこった。レナコーンが、街が死んじゃいないってことだよ。それだと羨ましいか?」
ノヴァは静かにうつむく。
「――レナコーンが、戻ってくる。どうかな、アタシ考えたことなかったです」
ノヴァは自問するように目を閉じる。
「俺の役割はその見極めだ。そしてその鍵はあのシケた穴蔵の中にある。眠っているなら叩き起こすし、病んでるなら病巣に鉛をくれてやる。それも役割だ。死んでたら――まぁ、そんときゃそん時だ」
そうしてXXが外套を翻し、ノヴァの元を離れようとしたとき
「一応、アタシがここでお墓の手入れをしてる話をちょっとだけしても良いですか?」
呼び止めるように発せられた声に、「ん?」と振り返る。
ノヴァのその目は確かにこちらを見ていたが、しかし彼女の焦点はどこか別のところにあるように思われた。まるで自分に何かの面影を重ねていて、それを見ているかのように。
「レナコーンでは昔、亡くなった人は火葬にされていました。そして遺骨になったあと、貴方がこれから目指そうとしている地下墓地に安置されていました」
彼女は霧向こうに目をやって言う。
「それがこんなふうに埋葬にされるようになったのは、もう火葬を請け負っていた人がいなくなってしまったっていうのもあるんですが、でもそれ以上に、地下墓地で安らかに眠れるほどの広さが無くなったっていうのがあるんです」
ノヴァは続けて西を向く。視線の先もまた霧に覆われているものの、しかし彼女は確かに見据えていた。
「前にも、その前にも貴方と同じようなことを言った人がいて、数えるのもいやになったぐらいいて、それで、みんな――最後はここで眠ることになりました」
そして改まるようにして、彼女は手を体の前に行儀よく組んで言う。
「このままいけば、たぶんこの穴に入るのは貴方ですよ? それでも行きますか?」
と。
しばらくの沈黙があって、合間に小さな風鳴が起こる。
少女のすすり泣きとも含み笑いともとれる、哀しくうす気味の悪い音色。死者の国レナコーンが奏でる音色。それは病に苦しむうめき声か、あるいは眠るもののうわ言か。それとも死者が生者を妬んで引きずり込まんとする声か。ノヴァは恐らくそうだと言うだろう。
XXは静かに答える。
「俺はもう一度死んでる。墓穴には入らないぜ?」
と。
そう応えた時だった。
一軒家の扉がギィと開かれた。
*
墓掘りの家から出てきたのは、ベノワと名乗る老人だった。
身体は飢餓人のように痩せ、背は折れそうなほどに曲がっている。小刻みに震える指先や、やや舌足らずな物言い。そして焼けたように紅潮した頬など見るに、酒浸りの男に違いない。飯は抜いても酒は欠かさぬ、そういう典型的な中毒者の風体だった。
「せ、生者が二人目かぁ。こ、こんなことは久しぶりなうえに、こ、ここじゃぁもう最後の客人だ。へへ、汚えとこだがあがってけよ」
そうして男は、どこか上機嫌にXXを招き入れる。
「そうか? それじゃ、悪いが邪魔するぜ。聞きてぇこともあるしな」
XXは応じる。
扉の閉まり際に一度、ノヴァの方をチラと見やった。
しかし彼女はこの主人の言いつけ通り、不乱にスコップを振るっている様子だった。
薄暗く、そして一歩ごとに家鳴りのする廊下を進む。傷んではいるが、それなりに手入れのされている様ではある。ノヴァによるものだろうかと、そうXXは思った。
申し訳程度にダイニングと言えそうな一室に二人は入る。
朧なランプに照らされたそこは、微かな茜色に染まっていた。
鼻腔を掠める微かな腐臭――。墓掘りという職業柄によるものだろうか。
一瞥程度に室内を伺ったXXに、ベノワは席を勧める。
「レーデルバッカーがまだ残ってたな。へへ、こ、コイツを一つやってみねぇ」
朱色の酒に満たされた角瓶をテーブルにおき、ベノワは自らも向かいに座った。XXは差し出されたビンを受け取り、ラベルを改める。
「レーデルバッカー、この辺りじゃ見ねぇ銘柄だな。舶来品かい?」
XXは角瓶をベノワに返す。
「へへへ。ご明察。も、最もここはレナコーンだからな。な、何があって、何がなくたって、へへ。おかしくないぜ。へへへ」
酒を注ぐ手が震えて、ビンとグラスがカチャカチャと粗末な音をたてる。
「こ、この酒は。あ、あんたの前に来た客が置いてったもんだ」
「俺の前に来た客?」
「あ、ああ。数年ぶりに、い、生きたやつを、一日に二人も見たぜ。ヘヘヘ。き、今日は……、なんて日だ。へへへ。い、いや、あれは。あれは。も、もしかしたら」
ベノワの目が、酒の満ちてくるグラスに見開かれる。
「もしかしら、生きた人間なんかじゃなくて、し、死神だったかもしれねぇが。ああ、いや、やっぱりあれは死神だな。死神」
ベノワは聞き取りづらい声で言いながら、XXにもグラスを勧める。その物言いは語りかけるというよりも、独白のようにXXには思われた。
「ま、まぁもう俺には関係ねぇ。もう、関係ねぇ。こことも、こんな仕事とも明日にはオサラバだしな」
「そういや、最後の客とかどうとか、俺に言ってたな?」
ここじゃもう最後の客人だ、その意味は何だと率直にXXは問いかける。核心的な問いではあるが、既に酩酊状態の男にそこまで注意を払う必要もないだろうと、そう判断したのである。
ベノワは何度も頷く。
「ああ。ああ。ああ。そうだとも。へへへ」
乾いた喉を潤すような勢いで、ベノワはグラスの酒を空ける。そしてまたすぐに震える手で角瓶を掴み、グラスに注ぐ。
「さ、最初の客は、そう。死神で。死神は言ったんだよ。俺の首を差し出すか、表の、玩具人形を差し出せってさ。が、ガラクタってのはほら、あれだ。の、ノヴァだよ。ノヴァ。へへ」
XXは目を細める。
「首を差し出すか、ノヴァを差し出せ。だって?」
「そ、そうだ。そうだとも。へへへ。そうすりゃ、そうすりゃ一生かかっても使い切れない金をやるって、こ、ここを離れても、一生遊んでくれる金をやるって。へへへ。やっぱり、やっぱり、アイツは死神だ。へへへ。へへへへへへへ」
ベノワのグラスを持つ手が、笑いで震える。そしてそれが酒の酔いからでも可笑しさからくるものでもなく、恐れからくるものであることがXXには分かった。
「お、俺には分かるぜ。ここで、ここで。何人も何人も死人を見てきたんだ。当たり前みたいに見てきた。だ、だ、だからこそ分かる事がある。ありゃぁ、死神だ。そう、死神だ。ああいう笑顔で、人を殺せるヤツがいるから、死人ってのは減らないんだ。へへへ……っあ!」
震えるベノワの手からグラスが滑り、テーブルに転げる。朱色の液体を広げたながら転がり、グラスはそのまま床に落ちた。
ゴツンという、鈍い音。
木の床とは言え、ガラスの容器が落下したにしてはどうにも鈍い音。それをXXは怪訝に思い、朧なランプな灯りを頼りに足元を伺う。そしてそこ、グラスを受けたであろうものの正体に眉をひそめ、嘆息する。
「やれやれ、あのマスター。血の酒なんて出すからだよったく」
XXの視線の先、二人の着いたテーブルの足元にゴロリと転がっていたもの。それは腐敗し、顔の崩れた生首だった。
「へへへ、へ。やっぱり、アイツは死神……」
ゴロン、とそこで何かがテーブルの上を転げた直後、ベノワの声はピタリと止んだ。そしてXXは、改めて顔をテーブルに向けるまでもなく状況を理解する。
「……死神な。間違えねぇわ」
顔を上げた時、テーブルに転げたベノワの首は泣き笑いの表情を浮かべていた。椅子に腰掛けた首なしの遺体は、今更になって思い出したようにダクダクとした血をこぼし始める。
「しかし首に一太刀入れてここまで生かしておけるものかい。首なし騎士スリーピー・ホロウの名は伊達じゃねぇな」
そしてXXは、グラスの酒を一息に煽ってから席をたった。
*
待合酒場グウィンドリンの扉がカランカランと物寂しく鳴ったのは、陰鬱な霧のせいで昼ともさして変わらぬ暮の頃。音の主はXXだった。
モノ好きなマスターが「おかえりなさいませ」と会釈したが、XXはそれに構わず、アンゼリカ・アトキンスの着いているテーブルに真っ直ぐに向かう。そして手にぶら下げていた酒の瓶を、彼女の前にドンとやや乱暴に置いた。
「墓守の親父、殺す必要があったのかよ?」
第一声でそう問いかけると、アンゼリカは角瓶に貼られていた『レーデルバッカー』というラベルを認め、それで事情を察したかのように道化面の中で目を笑ませた。
「生かす必要こそありまして?」
火薬の爆ぜる音。同時にボトルラックの酒瓶が一つ割れた。
「言葉遊びじゃないぜ?」
場の空気は一変する。
まるで最初からそうしていたかのように、XXの右手は黄金色の銃把を握って、六連式駆動銃キャリッジリターンの銃口をアンゼリカの顔に向けていた。
硝煙の昇る銃口に、しかし彼女は怯えるどころかむしろ挑発するように目を弛緩させて言う。
「他ならぬあの貴方が、他でもないこの私に、ここまで踏み込んで激昂するまでの価値が、あのアルコール中毒者にありまして?」
弾みで殺す臆病者は、行為に及ぶ前に激昂する。しかし判断を下して殺す真っ当の殺人鬼は、行為の前にこそまるで眠りにつくように心身を弛緩させる。二人は何れも後者であったが、アンゼリカの方は冷静でありXXの方はそうではない。それが真実の状況を物語っている。
「命の価値が一山いくらにまで下がったのは、俺や嬢ちゃんが得物を手にした時からだよ。今に始まったことじゃねぇ」
「論点がずれてますね。命の価値がなくともその怒りには意味がある。どうしてかしら?」
ピキキっという、亀裂の走る音がした後、銃弾を掠めていた道化の面が割れた。
テーブルに砕け落ちる破片。
顕になる死神の素顔。
それを目の当たりにして、マスターは言葉にならない声で呻いて腰を抜かす。
XXもまた、そこに『残してきた面影』を見て息を呑んだ。
絹のように流れるブロンド、コバルトブルーの瞳、そして透けるように白い肌。まるでビスクドールでさえ、はにかんで目を背けてしまうような美貌。
彼女はそして、その内心を見透かすように笑う。
「どうかしら? 今はあの子と区別がつきます? オーランド家に送り出した私の実の妹にして仮の従妹と」
いまこうしてXXに対して微笑みかけているのは、他ならぬ元ギリシア帝国第0近衛師団スリーピーホロウ隊長、現ゲルニカの構成員にして帝国全土で指名手配を受けているアゼンリカ・アトキンスである。
しかしそれでも彼の心を深くえぐっているのは、うっとりと挑発的に笑うアリシア・オーランドの幻影だった。
「それにしてもこんなところでそんな理由で再会するだなんて」
彼女は銃口に構わずゆるりと立ち上がり、そっと顔を寄せ、XXにしか聞こえぬ声で言う。
「本当に、まるで乙女のように純真ですわね、隊長」
――あの子と過って私を抱いてしまったことが、あなたにとって亡国まで罪深いことだったなんて。
と。
歯ぎしりの音を立てたのはXX。
「俺にとってじゃねぇ。俺なんてどうだっていい。……アイツにだ。だからこそ俺は、アイツの顔に泥を塗った俺は、帝国を見限った最低のゲスになるんだよ」
何時になく冷めたXXの声に、「ふふふ」っと笑うアンゼリカ。
「破綻してますわね。贖罪し謝罪すべき相手が貴方を許し、今も血眼となって探しているというのに、なお貴方は彼女を苦しめている。矛盾してますわよね?」
「黙れよ。お前に俺とアイツの何が分かる?」
「それも、名誉回復のためのあらぬ風評まで振りまいて?」
「黙れ」
「確か『大事のための小悪だと割りきって帝国に従うのが嫌になってギルドに下った。オリハルコンは庶民の英雄になった』でしたっけ? あの子らしいまるで御伽話のような戯言ですわね。本当に健気だこと」
「黙れ――」
火花が散った。
瞬く間にXXの銃が叩き落され、首は二つの曲刀に挟まれる。まるで大きなハサミで首を切り落とすかのように。
これで詰みだった。
得物は取り落としているし、XXが殴りかかるほどの距離に彼女はいない。
「微動もなさらないで?」
アンゼリカは囁く。
「さもなければ知らぬ間に、首無騎士になってしまいますわ。隊長」
「殺せよ、首刈中毒」
「それは私が決めることですわ」
ぐいっと、XXは前に進む。
刃に圧がかかり、真紅の血が滴る。
アンゼリカがその雫に目を細めた。
「どうした? 殺しとけよ。いまの距離じゃ俺の拳がお前に届くぜ?」
「貴方に私が殴れるのならそうでしょうね」
「殴れるさ。俺は帝国すら見限ったゲスだからな」
「見初めた淑女のためならゲスにも下るという騎士の鏡に、私が殴れると仰るの? ――本当のゲスというのはね」
両の刃がヌルリと首の両脇を滑ってゆく。
「遠く離れた許嫁の面影を私に重ね、もう一度私を抱いてくるような、そんな殿方をギリシアではゲスと呼びますの」
そしてそのままアンゼリカは、XXに再び顔を寄せて吐息のかかるような距離で言う。
「ねぇ、オリハルコン隊長」
「その名は捨てた」
「貴方は今や一介の取るに足らないゲスですか?」
「ああ、その通りだ」
「解せませんわね」
アンゼリカはしかし言葉と裏腹に、大いに納得したというように笑んでから距離を置いた。そして曲刀を腰に収めてから、クルリと向きを換える。
XXはキャリッジリターンを拾い、同様に腰に収める。
「貴方こそ、私を撃ちませんの?」
振り返らずに彼女は問う。
「おまえを殺すのは俺の役じゃない。帝国の騎士だ」
「どこまでも騎士的にしてゲスな殿方。ますます解せませんわ。けれども代わりに、貴方があの墓掘老人――いえ、墓掘人形に対して『ここまで』心を揺さぶられた理由にも得心がいきましたわね」
そしてアンゼリカが真相を告げる。
「あのノヴァという機巧人形、どうしようもないぐらいに、そっくりですものね」
XXは眉をひそめる。
「明るくて、忠実で、一生懸命で、自己犠牲的で、優しくて、力強くて、間抜けで。そんな――季節を間違えて元気いっぱいに咲いてしまった大輪のような――フランシスカ・ストリータ。生まれる時勢を過って亡くなった、貴方の御姉様に」
――貴方はやはりどうしようもなく騎士だから。
――たとえまがい物であっても、家族の崩壊は見ていられない。
――主を失った機巧人形は、それこそ使い手を失った剣のように錆びて朽ちてゆく。
――きっと貴方はそれが見過ごせない。
――貴方はやはりどうしようもなく騎士だから。
XXは何も言わず、何も答えず、ただこう返した。
「なぜ墓守の親父を殺した?」
「堂々巡りの問いですわね」
「生かす理由がなくとも、殺す価値まではなかったろ?」
「いいえ。貴方の凍てついていた激情を覚すことが出来たのであれば十分に」
「言葉遊びは止めておけと言ったはずだぜ? 目的は何だ」
「ふふふ、人買いに聞くにしてあまりには野暮な問ですわね? 『子が親から離れないなら親を殺せば良いじゃない』ですわ」
ノヴァにベノワの死を知らせた時、彼女は取り乱しこそしなかったがXXの予想を超えて悲嘆した。機巧人形では決して有りえぬ涙を流し、主の死を悼んだ。そしてそれから数刻後、彼女は自らの手で丁寧に主を埋葬した。
ノヴァはそうして出来た新たな墓に、気持ちばかりにと野に咲く花を詰んで手向けた後、自らも此処で朽ちる道を選択した。
――アタシみたいな紛い物でも、たぶん、傍にいないよりかはマシだと思うんで。
と、そう言って。彼女はベノワを埋葬した傍にそっと屈んで、目を閉じ、自ら機構を止めて眠りについた。
XXは知っている。道具は使い手を失っても自ら壊れたりはしない。主を失って共に死を選ぶのは、人間にこそ見られる思い上がりだ。そして彼女にはそれがあった。
どうしようもなく自らを弁えていた彼女が、最後に涙と共に見せたもの、それは人間の持ちうる最高の思い上がりだった。
――ひでぇ破綻だ。
XXはそれに怒りを覚えて、ここまで戻ってきたのだ。
アンゼリカは言う。
「まぁ何れにせよ、あのようなアルコール中毒者には勿体のないほど出来た人形でしたわ。あの子は私が引き取って、しかるべき主人に仕えさせるべきだと、そう判断致しましたの。人さらいにしても最低限度の良心はございましてよ?」
「何が良心だ。それこそ思い上がりじゃねーか」
吐き捨てるようにXXは言った。
「そうかも知れませんわね」
アンゼリカは微塵も反論しない。
「けれどもそんなことはどうでも宜しいのです。私のこの考えが思い上がりであろうが、自己満足であろうが、勘違いであろうが、悪巧みであろうが、こじつけであろうが、あるいはいかさまであろうが――どうでも宜しいのです。どのような思いからにせよ、私は私の意志によってあの子を引き取ると決めて、あの子の親を殺害した――それ以上でもそれ以下でもありませんから」
「誰に売り飛ばすつもりだ?」
XXが背中に問いかける。
「質問が誤ってますわ」
アンゼリカは振り返り、仮面を失ってなお道化のように笑った。
「いくらで売り飛ばすか――そうでしょう? 隊長」
「アンゼリカ、お前……」
我知らず握り拳を作っているXXを、満足気に眺めて彼女は笑う。
「商人が商品について売値は言っても売先は言わない――そういうものでしょう? そしてより良い値をつけて下さるお客様に商品を差し上げる――そういうものでしょう?」
――そして人売り人買いも商人ならば、
――より良い『御主人様』とはより良い値を付けてくれる『御客様』。
――そういうものでしょう?
そして彼女は、これ見よがしに自身の指を口に入れ、そして何か黄金色に光る小さな金属を取り出した。
黄金色の古びた鍵だった。
彼女はそれを掌で弄ぶ。
「まさか酒瓶一つで、これまで家計を支えてきた機巧人形の駆動鍵を渡すだなんて、私が殺さなくとも何れ誰かに殺されていたのではないかしらね?」
XXは再び黄金色の銃を抜いて、銃口をアンゼリカに定める。
「そいつを寄越せ、アンゼリカ」
「いいえ」
「撃つぞ?」
「ご自由に。私を殺して奪う分には一向に構いませんわ。ただし私を生かした上で鍵を奪うつもりならばそのときは全力を以ってお相手致しますが、もしかして私の命を慮りながら私を相手に出来ると――そこまでこのスリーピー・ホロウの二対曲刀は鈍ったように御見えでしたか?」
XXは照準の先で小首を傾げる死神に対し、ギリっと奥歯を噛んだ。
「50000G」
アンゼリカが掌を広げる。
「それでこの鍵をお譲りいたしますわ」
何か言いかけたXXに対し、それを制するように言う。
「1Gも安くはなりませんわよ? あれほどの子は」
「――アンゼリカ。お前の目的は一体何だ?」
銃をゆっくりと下ろしたXXに、彼女は肩をくすめる。
「さて? 女の心はギリシアの秋空よりも移ろいやすいもの。観測してそこに意味を求める意味なんてございます? それよりも――いかがですか? 御客様?」
アンゼリカは笑う。今度はまるで、アリシアのような笑みで。
「もしも御客様のお気に召しませんでしたら、他の御客様にこの鍵はお譲り致します。また販売先の商品につきましてゲルニカは一切関与――」
「良いだろう。50000G、払ってやる。だから――あと一日待て」
言ってすぐ、XXはそのまま出口へと向かった。その直後に、アンゼリカの笑みは道化のように崩れる。
「流石はゲスに落ちたというだけありますわね、隊長。いくら落ちぶれたにせよギリシア大陸全土で指名手配中のこの私から、あんな人形を50000Gで買うだなんて」
「言ったろ。俺はゲスに落ちたと」
扉の前で一度止まる。
「マスター。精々振りまいてくれ、この噂をよ。オリハルコンはゲルニカから『人』を買ったってな」
言うだけ言って、XXは店を出て行った。
カランカランと物寂しい音がなる。
あとに残されたのは、どこかきょとんとした様子のアンゼリカ・アトキンスと、放心しているのか恍惚としているのか判然としない、マスターだけだった。
「こ、こういうことがあるから、ははは、ここのマスターは辞められないんですね」
興奮した様子で呟き始めるマスター。
「あ、あの赤い外套の男――ま、まさかオリハルコンだったなんて。き、救神イースの申し子、ダブルエックス・ストリータだったなんて。そ、そしてあの、アテナ様が、あ、アトキンス家の――次じょ」
そこまで言いかけてから、泣き笑いのようなマスターの顔はヌルリと胴体を滑り落ちた。そして一拍遅れて、酒場の天井を血風が染める。
自分の背後でなお血をあげる首なし死体、それには目もくれぬままに、アンゼリカ・アトキンスは溜息を吐いて右の曲刀『復讐』をヌルリと腰に収めた。
「あーあ、ほんとつれない殿方ですわね。自分の勘違いで私をその気にさせたくせに、私への愛は爪の先も程もありませんの」
そしてカウンターに置かれたままに成っていた、ガーネット・ティアのブレンドに用いるワイバーンの鮮血が入ったデキャンタを掴み、彼女は逆向にして喉をコクコクと鳴らして飲み始める。
「――っはぁ……。でも、ますますいい騎士になってましたわね、隊長。血浴でもしなければやってられませんわね」
一息に開けると真っ赤な口元をヌルっと拭い、空になったデキャンタを足元に放り投げる。ゴドンという鈍い音を木の床が立てた直後、いまなお突っ立ていたマスターの首なし死体は、輪切になって崩れ落ちた。
それからアンゼリカは、口からプっと黄金色の鍵を手に吐き出す。
「持ってけ泥棒騎士」
そのまま見るのも億劫だと言わんばかりにポイと後ろに投げ捨て、XXと同じくカランカランと酒場を出て行った。




