その1
ケイオスは焦っていた。それはもう心底焦っていた。
といっても、別にトイレを我慢しているわけではない。そもそも魔力がエネルギーの源である魔族は、食物を必要とはしないゆえ、排泄も必要とはしないのである(食べられないわけでもないのだが)。
全ての魔物を従え、世界樹の管理を担う魔王様は、顔色も真っ青で脂汗を顎の下から滴らせて硬直し、指の一本たりとも動かせずにいた。
彼の魔力をもってすれば、恐ろしいものなど何も無い――はずだった。今この状態にしたって、その強大な魔力にモノを言わせて相手を屈服させればいいだけの話。
しかし彼にはそれが出来ずにいた。
「ガッコウ? 何それ」
穏やかな昼下がり。マクガルディ家を訪ねたのは、久しぶりだった。少し見なかった間にルディアスは背も伸びて、雰囲気も変わったように思う。あどけないばかりだった表情に少し落ち着きのようなものが見て取れる。
どこかへ出かけて帰宅したばかりだったのだろう、なにやらカバンを背負い、鍵を扉に差し込もうとしているところに声をかけた。
どこへ出かけていたのかと尋ね、帰って来た答えが、
「学校に行ってたんだ」
「同じくらいの年頃の子供が集まって、勉強するところだよ」
自室にカバンを置き、制服から普段着へと着替えを済ませ、白い猫を伴って庭に出てきたルディアスの手には、筆記用具。分厚い冊子とノートを数冊、庭のテーブルへ広げる。目を落として冊子に走らせていたかと思うと、羽ペンがインクツボをつつき、何事かをノートに書き始める。
なるほど、勉強か。しかしルディアスは、家庭教師とやらに勉強をみてもらっていたのでは無かっただろうか。
ふと疑問に思って尋ねてみると、冊子を開きながらルディアスが手をひらひらと振った。
「今でもケッヘルさんは時々来て勉強をみてくれてるよ。――ていうかケイオス、前にここ来てからどれだけ経ってると思ってるの?」
言われてみて、人間の時間で考えてみる。太陽が何回のぼり、世界樹の活動周期が――云々。
傍で猫が「くぁぁ」と欠伸した。
「……ざっと、3年?」
「そう、3年。もう僕のことなんか忘れたかと思ったよ」
「たった3年じゃないか」
ノートの上を走っていた羽ペンが、ぴたりと止まった。落としていた視線を上げて、まっすぐケイオスを見上げてニッコリと笑った。
「そう。その3年で、父さんは病死、母さんは旅先で行方不明、僕は中等部に入学して学校に通って、クリスおばさんはお子さんが亡くなってショックでお手伝いさんを辞めて、ケッヘルさんは結婚したんだよ。ちなみに僕は今、両親の遺産のおかげで何とか一人で暮らしていけている。」
……笑顔が、一度だけ面識のある彼の母親とそっくりで恐ろしい。
カチカチに硬直したケイオスをみて、ルディアスはため息を一つつくと再びノートに視線を落とした。
「人間にとっての3年はね、キミたち魔族の3年とは重みが違うってことをよく覚えておくといいよ。僕はこれから宿題に集中しなきゃならないから、もう帰ってくれる?」
そんなことがあって、どのくらい時が経っただろうか。
あんなことがあってから、余計に彼の家へ行き辛くなった。いっそこのまま、ルディアスも自分のことを忘れただろう。そう思って、いや思い込もうとして、それでもどこか割り切れぬままに時を過ごしてきた。
魔族の寿命は長い。それを統べる魔王たる自分の寿命は、人のそれとは比べ物になるまい。
その悠久の時を過ごす自分と、ごく普通の人間であるルディアスの時間感覚が違うのは、仕方の無いことなのかもしれない。しかし案外繊細というかヘタレで打たれ弱い魔族の王サマ、先だっての出来事に対して甚く凹んでいたのだった。
同じような思いをするくらいならば、もう二度と会いに行かなければいい。いやいやしかし、彼の両親との契約が――ううう。
そんな風に悩みこんでいる間にも時間は着々と過ぎてゆくことに、彼は思い至らなかったのだった。