好きかどうかで結婚を選べるなら、私はあなたを選びません
「エリノア。婚約を解消しよう」
急に婚約者から告げられた言葉に、エリノアは目が点になった。
「……あの、この場をどこだと思っていらっしゃるのでしょうか?」
バークリー伯爵家主催のパーティーの最中だった。
招待されたため、二人で参加したものだった。
「バークリー伯爵邸だよ。だから、ここで告げるのが良いと思ったんだ」
「……は?」
エリノアは開いた口が塞がらない。
なぜ婚約の解消の場所をここにする必要があるというのだろうか。
エリノアはシャノン伯爵家の長女だ。
生真面目さが体現されたように、眼鏡をかけ、趣味は読書という才女である。
その婚約者であるアルバートはボイド伯爵家の嫡男だ。
二人は幼い頃から婚約していた。
「エリノア。私には好きな人がいるんだ。だから君とは結婚できない」
「好きな人?」
アルバートはすっと視線を外す。
その視線の先には、願うように両手を前に組み、こちらを不安げに見つめるロレッタ・バークリー伯爵令嬢がいた。
「ああ、好きな人がいる。だから、婚約を解消して欲しいんだ」
「……わかりました。では、そのように」
「え?」
受け入れたエリノアにアルバートは思わず聞き返す。
「何か?」
「あ、いや、え?好きな人がいるからと言ったんだ。私が別の女性を好きになったと聞けば、少しくらい……」
エリノアは微塵も動揺せずに告げた。
「好きかどうかで結婚を選べるなら、私はあなたを選びません」
「……え?」
「もしかして……私があなたを好いていると思っていたんですか?」
「へ?」
「そんなわけないじゃないですか。そもそも、あなたのどこを好きになれと?」
「え、いや、だ、だって、あんなに私の側にいてあれこれと……。好きだったからじゃ……」
「私は父に言われたから、ボイド伯爵令息であるあなたと婚約していただけですが?」
何やら言い合っている男女に、周囲が注目し始めたその時だった。
「ぷっ」
「?」
「?」
二人は音のした方に目を向けた。
「いいね、その台詞。しびれるよ」
「……は?」
エリノアはその言葉の主を見て、息を呑んだ。
女性関係の派手さでは、社交界でも名の知れた男、ジェラルド・マクベイン公爵令息だった。
容姿端麗、家柄も申し分なく、頭も切れる。公爵家の跡取りとしての才覚にも恵まれている。
ただし、女遊びだけはいたって奔放だった。
しかし、彼に対する印象というのは不思議なもので、それでもいいから選ばれたいという女性が多数いた。
いつも彼の周囲には女性が集まり、それがさらに彼の浮名を助長させていた。
「君、俺と結婚しない?」
「はい?」
「ちょうどいいじゃないか。婚約解消したんだろう?」
「ええ、まあ、ちょっと違いますが」
「ん?」
するとエリノアは「ちょっと失礼」と男に片手を上げると、アルバートに向き直った。
「婚約解消ではなく、あなたの有責で婚約破棄ですね」
「え?」
アルバートは愕然とする。
「そこはお間違いなく。あ、ほら。あちらに恋人がお待ちでいらっしゃいますよ」
「え?いや、まだ恋人じゃ……」
「私が障害でしたか?わざわざこちらを最後の場としてお選びになるとは。父にはきちんと報告いたします。そちらのあなたもそれなりの覚悟でいらっしゃるのでしょう?」
エリノアはチラリとロレッタに目配せた。
「……え?」
目が合ったロレッタは両手で口元を隠した。
ただ動揺するだけの女性をみて、エリノアは納得する。
「あら、そう。お似合いですわ」
そう言い残すと、エリノアは待たせていた男に向き合った。
「お待たせいたしました」
「君、最高だね」
またまた男は感心していた。
「はい?」
「では、改めて。私と結婚してくれないか?」
口調を整え、ふわりと微笑み、胸に手を当て、身をかがめた男に、エリノアは眼鏡を押し上げると告げた。
「……では、ジェラルド様と結婚することで、私に何の利点があるか教えていただけますでしょうか?」
ジェラルドは目を見開いた。
「……ぷっ。やっぱりいいね、君!私を知っていてのその反応。実に合理的なところも気に入ったよ」
「はい?」
「それくらいじゃなきゃ、私の妻なんて務まらないだろう?」
ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべるジェラルドにエリノアは続きを促した。
「それで、私の利点は?」
「もちろん、私の妻になれることだよ」
言い切ったジェラルドの言葉を精査する。
「……なるほど」
エリノアは周囲を見渡す。好奇の目はこの一部始終に注がれていた。
「どう?」
「どう?と言われましても、正式にマクベイン公爵家から申し込まれたら、私からはお断りできませんが?」
ジェラルドは目を丸くした。
「なるほど。その手があったか。では、待っていてくれ。君の元にマクベイン家から使いが行くから」
ジェラルドは一歩エリノアに近づくと、エリノアの左手をとり、そこに軽く口づけた。
「……!」
唖然とするエリノアとアルバートを残し、ジェラルドは去っていった。
◇◇◇
報告を受けたシャノン伯爵はすぐに対応した。
「すまなかったな、エリノア」
本の虫だったエリノアには友人がいなかった。
幼い頃には視力が落ちてしまい、眼鏡を使っていた。そのことでよく揶揄われ、他人と馴染めなかったのだ。
そんな中、唯一交流があったのが、ボイド家だった。ボイド伯爵とシャノン伯爵は長い付き合いだった。
ボイド伯爵から息子との婚約を持ち出された。
他に親交のある家もないエリノアの様子を見て、シャノン伯爵は了承したのだった。
「よかれと思ったのが間違いだった。向こうの有責だ。堂々と破棄しよう」
ボイド伯爵家からの謝罪は手厚かった。それだけのことをエリノアはしてきたし、されたのだ。そして、破談した令嬢という傷を負わせたことを詫びてくれた。
まさか、エリノアがそれを上回る婚姻を結ぼうなどと知らずに。
こちらの動きを読んでいたかのように、婚約破棄の手続きが済んでまもなくのことだった。
「んな、な……」
一通の手紙を手にシャノン伯爵は固まっていた。
「あら?どうされました?お父様」
部屋の前を通りかかったエリノアは、父に声をかけた。
「え、エリノアに、こ、公爵家から……!?」
「ああ、正式に届きましたか?」
「へ?」
エリノアは、パーティーでの一部始終を報告した。
シャノン伯爵は愕然としていた。
「この間は婚約解消を申し込まれた話しかしてなかったじゃないか。バークリー伯爵令嬢の協力を得たボイド伯爵令息から申し込まれ、向こうの有責での婚約破棄を受け入れたと」
「ええ。こちらの話を真っ先に進めるべきだと判断したものですから」
「だとしても、こちらの話を黙っていたのはなぜだ?」
シャノン伯爵は手紙を指差した。
「……お戯れかと思いましたので」
「は?」
「マクベイン公爵令息のお戯れかと思いましたので。確定したことだけを事実と報告するべきだと判断したものです」
「それでも、婚約を申し込まれたのだろう?」
「正しくは求婚ですね。結婚してくれと」
「エリノア……そういう報告は大事だと思うぞ?」
頭を抱えたシャノン伯爵を前に、エリノアはあの場を思い出し微笑んだ。
「……まあ、あの場では感謝でしたわね」
「ん?」
「私は婚約者から好きじゃないからと捨てられたばかりでしたからね。ボイド伯爵令息に捨てられた令嬢ではなく、マクベイン公爵令息に求婚された令嬢として目立つことになりました」
「正しくは好きな人がいるからではなかったか?」
「同じようなことでしょう。噂というものは、都合良く広まるものですわ」
「都合良くか……。お受けするしかないが……構わないか?」
「どこに異論が?好きかどうかで結婚は選べませんでしょう?そもそも公爵家からのお話です。お断りなど出来ないでしょう?」
「……では、話を進めるぞ?」
「ええ。それがよろしいかと思います」
エリノアはにっこりと微笑んだ。
◇◇◇
こうして、ジェラルド・マクベイン公爵令息とエリノア・シャノン伯爵令嬢の婚約は正式に発表された。
マクベイン公爵は、次期公爵であるジェラルドにやっと婚約者を定められたこと、さらには奔放に過ごしていたジェラルドがようやく覚悟を決めたことに安堵した。
そしてジェラルドの希望した婚約相手が、エリノア・シャノン伯爵令嬢だったということを、両手をあげて喜んだ。
「伊達に遊んでなかったのだな、ジェラルド」
「なんの感心ですか?父上」
「ただの女好きかと思っていたが……実に合理的な……」
「その合理的なところが良いのですよ」
ジェラルドの返しにマクベイン公爵は眉をひそめた。
「結婚するということは妻に迎えるのだぞ?本当に覚悟はあるのだろうな?」
「覚悟?もちろんです。妻は一人だけですから」
「……」
ジェラルドの応えにやや不安が残るものの、マクベイン公爵は受け入れるしかなかった。
社交界は二人の婚約話で持ちきりだった。
「まさかあのジェラルド様が結婚をお決めになるなんて……」
「ええ。それもお相手はあのエリノア・シャノンでしょう?」
「あの生真面目地味令嬢のどこが良いのかしら?婚約者に捨てられたばかりじゃありませんでした?」
「愛なんかあるわけないじゃない。きっと、夫人に迎えるのに都合が良かっただけよ」
「あら、でしたら、愛の部分は補って差し上げれば良いですわね」
「ええ、ジェラルド様でしたらそれでも構わないわ」
会話はエリノアの耳にも入った。
(はじめから愛がないとわかっているのなら、惨めになることもないですし、問題はありませんね……)
元婚約者からは望まれていなかった。それなのに尽くしてきた。婚約者とはそういうものだと思っていたからだ。しかし、少なからず傷は受けた。端から見たら惨めであったことには変わりはないのだから。
今度の婚約に期待はしていない。相手はあのジェラルド・マクベインだ。
妻にはなる。その通りに尽くすだけだ。
遠くにいるジェラルドに目を配る。
彼は公爵令息として社交に勤しんでいた。紳士らとなにやら真面目に話し込んでいた。
その表情からも、仕事の話なのは明らかだった。
(有能だとはお聞きしていたけど……)
その振る舞い方だけでも十分に伝わった。
「エリノア嬢。こちらいかがですか?」
そこにはワインを差し出す紳士がいた。
「あら、スタイナー伯爵。ご無沙汰しておりましたわ」
エリノアはワインを受け取ると笑顔で対応した。
「まさか、マクベイン公爵令息と婚約なさるなんて思いませんでした」
「ええ。私もこのような運びとなるとは思いませんでしたわ」
「え?お選びになったのではなく?」
「ええ。婚約破棄して真っ先に名乗り出てくださったものですからありがたく」
「そんな理由だったとは……。でしたら、私も機会を窺っていればよかったですね」
「はい?」
「私もあなたが良かった」
「あら、横に立つには私は地味ですわよ。スタイナー伯爵には縁談が舞い込んでいるのでは?爵位をお継ぎになられたのですから」
「ははは。よくご存じで」
「あなたほどの見目と地位でしたら女性たちは放っておかないのでは?」
「いや、それでもマクベイン公爵令息には敵いません」
「そうでしょうか?硬派であることは利点であると思いますよ?」
「でしたら、今からでも私はいかがですか?」
「あら、やはり訂正しますわ。婚約者持ちを口説くなんて……。軟派な方でしたか」
「おや、手厳しい……」
ちらりと視線を移すと、紳士たちの輪ではなく、女性に取り囲まれたジェラルドがいた。
「ふふふ。お相手してくださってありがとうございました。私なら大丈夫ですよ。あなたはいつもお優しい」
「私の本気はなかなか伝わらないようだ。優しくするのはあなただからなのに」
「揶揄わないでくださいませ。私はこういうことには疎いのですよ。そうだ、先日の大雨は大丈夫でしたか?領地に橋を架ける話をしていらっしゃったでしょう?」
「ああ、丈夫にできていたこともあり、被害はありませんでした。あの場に橋を架けることを提案してくださってありがとうございました。位置が違っていたら危なかったところですが」
「地形が特徴的でしたからね。お役に立てたようで何よりです」
しばらくは、領地について会話した。以前から彼とは経営について談義していたからだ。
「エリノア」
名を呼ばれ振り向くと、ジェラルドが来ていた。
「ジェラルド様。お話は終わったのですか?」
「ん?ああ。こちらはどなただ?」
ジェラルドは、エリノアの腰にそっと手を添えると横に立つ。
「彼はスタイナー伯爵ですわ。先日爵位をお継ぎになったばかりですのよ」
「クレイグ・スタイナーです。まだまだ未熟ですが、以降お見知りおきを」
「知り合いなのか?」
「ええ。旧知の仲ですわ。よく経営談議を」
「……なるほど」
「では、マクベイン公爵令息がお戻りになられたことですし、私はこの辺で失礼します」
スタイナー伯爵は一礼するとこの場を後にした。
「今日はもう帰ろうか」
「もうよろしいんですか?いつも最後まで楽しんでおられる印象でしたが……」
過去にジェラルドがたくさんの女性たちと話し込んでいる様子を見かけたことがある。それは一度だけではない。それを見た時、噂は本当なのだと納得したものだった。
「……君と来ているからね」
「……私がいては不都合が?」
「いや、そういうことじゃない。ここまでの時間で十分な交流が出来ていれば、ここに居座る理由はないよ」
「そうですか」
横にいるジェラルドからは、様々な甘い香水の香りがしていた。
この日は、公爵家にお茶に招かれていた。
しかしエリノアには、婚約者との交流会にあまりいい記憶はない。
応接室に通された。しかし、なかなかジェラルドは現れなかった。
(どうなさったのかしら……)
「ジェラルド様はお忙しいの?」
「もう間もなくこちらにお越しになるかと思うのですが……」
執事は頭を下げる。
「執務中?」
「はい。執務室にいらっしゃいます」
「伺ってもいい?」
執務室に案内されたエリノアは中にいるジェラルドを見つけた。
彼はよほど集中しているのか、エリノアが来ていることに気づかなかった。
「若様。エリノア様がこちらに」
その声かけに顔を上げたジェラルドは、柔らかく微笑んだ。
「ああ、エリノア。時間だったか。待たせてしまったか?」
「ええ。ですが、お気になさらず。お忙しそうですね」
「あと少しでキリが良いんだ。そこにかけて」
その言葉にエリノアは身構えた。
だが、言われたとおりにソファに腰掛ける。
「30分ほど待っていてもらえるかな?良かったら本でも読んでいてくれ」
「え?」
「あ、ここにある本では興味ないかな?書庫にでも行ってみる?」
「あ、いえ。よろしいんですか?」
「ん?何がだい?」
「読書をしていて良いのですか?」
「良いも何も。君の大切な時間を待たせてしまってすまない。ここなら経済の本があるけど……」
「あ、では、こちらお借りしてもよろしいですか?」
「もちろんだよ」
エリノアは借りた本を読み始める。しかし、本の内容は頭に入らなかった。
ちらりとジェラルドを覗き見る。ジェラルドは黙々とペンを走らせていた。
いったいこの光景は何なのか。この待遇は何なのか。
エリノアがいつも婚約者とのお茶会でボイド家に行くと、待たされるのではなく婚約者の執務を手伝わされていた。そしてそれは、そうでなければ二人の時間を確保できなかったからだ。
でも、手伝ったところで時間を確保などできなかった。茶会はなくなり、次の約束も取り付けられないほどだった。
またか、と思った。
しかし、ジェラルドは違った。
執務を手伝わせることなどしない。そもそも机に向かう姿勢が違った。
執務の量は明らかにアルバートが請け負っていたものとは異なる。
それなのに、待たせてしまうことを謝罪し、側で好きなように時間を過ごすことを勧めてくれたのだ。
(これが、普通なのかしら……?それとも、ジェラルド様だから?)
この後、ジェラルドはきっちり30分で執務を終わらせると、エリノアとのお茶会をしてくれた。
「私が来てよろしかったのでしょうか?」
「なぜそんなことを言うんだ?」
「お忙しいところお時間を作っていただいたようなので……」
「当たり前だろう?君は婚約者なのだから」
「……」
「こちらこそすまなかったね。お茶会が短くなってしまった分、君を屋敷まで送らせてくれ」
「そんな、それこそお時間が……」
「婚約者との時間も貴重なものだろう?」
「……ありがとうございます」
婚約者に対する心遣いが感じられた。それは、好き嫌いじゃなく、思いやりや責任感だと。
そして、公爵令息ジェラルドの人柄故だとエリノアは感じた。
(だから皆さん、ジェラルド様ならばとおっしゃるのね……。それにしても、やっぱりないわ。あの男との結婚はないわ)
自分がジェラルドに大切にされているのは婚約者だからだけど、今までは婚約者だからこそのぞんざいな扱いだったことに気づかされ、改めてあんな男と婚約がなくなってよかったとエリノアは思った。
少しずつ時間を重ねていた。
どこに女遊びの時間があるのかと思えるほど忙しいジェラルドとエリノアは、婚約者としての時間を重ねていく。
「よろしいんですか?」
「よろしいも何も、婚約者への贈り物くらい普通だろう?」
目の前にはドレスと宝石、そして靴が並んでいる。
「本当は髪飾りも贈りたかったんだが、君はいつもまとめているだけだったからわからなくて。首筋に映えるイヤリングと首飾りにしてみた」
「……よく、見てらっしゃるんですね」
宝石はエリノアが好んでいるサファイアで、デザインも好みのものだった。
「気に入ってもらえたなら良かったよ」
(さすが……女性慣れしていらっしゃるのね……)
気配りが素晴らしい。
思えばエスコートも完璧で、彼から自分が特別に思われているとさえ感じるものだった。
「これを着て今度の夜会に一緒に参加して欲しいんだ」
「夜会にですか?」
「婚約者として参加する最後の夜会にしよう」
婚約者として参加する最後の夜会と聞き、エリノアは気付かされた。
「……あ、もうすぐ結婚式ですね」
「そう。婚姻届を出したら、もう君は私の妻だよ」
「……何か違いが?一緒にいることには変わりませんが?」
(パートナーであることには変わりないのに……)
「変わるよ。君は将来、公爵夫人になるのだから。君が求められることが変わる」
「……なるほど」
(立場が変わるということね……)
「だから、純粋に楽しもう」
夜会にやってきた。
「お手をどうぞ、エリノア」
「はい。ジェラルド様」
二人はダンスを踊った。
「さすがですね。公爵令息であるあなたに言う台詞ではないかと思いますが、とても踊りやすいです」
「私もだ。君は文学令嬢だと思っていたから、体を動かすのは苦手なのだろうと思っていたがね。さすが、完璧だ」
「あなたのおかげだと思いますよ。リードがお上手ですもの」
曲が終わるとジェラルドの元に近づいてきた紳士に声をかけられる。
「マクベイン公爵令息。見事なダンスでしたな」
「あ、これはこれは、メイフィールド公爵。ご無沙汰しております」
「そちらが婚約者かね?」
「はい、エリノア・シャノン伯爵令嬢です」
「シャノン伯爵家の長女、エリノアと申します」
紹介を受け、エリノアは一礼する。
「ほう、そうか。君が。それはそれはマクベイン公爵もさぞ安心したことだろう。君は浮名を流していたからな。我が娘も君にのめり込んでいた一人。どうなることかと父親としては心配なところではあったがね。それにしても、エリノア嬢は随分とお心の広いお方だ」
二人は顔に笑顔を貼り付けた。
「それだけジェラルド様が魅力的だということですから、私がどうこうできることではございません」
「昔の話です。今は婚約者がおりますから。それよりも、私に何か用があったのではございませんか?」
ジェラルドは一瞬エリノアに目配せし、あちらへ、とメイフィールド公爵をその場から連れ出した。
エリノアは壁の花となった。
特に親しい人がいるわけではない。
この日はジェラルドの帯同でやってきた夜会だ。
ダンスも一曲終えたし、これといって、もうやらなければならないことはなくなった。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと顔を上げると、目の前には女性に囲まれたジェラルドがいた。
(相変わらずおモテになる……)
だが、今ではその魅力もなんとなく理解していた。
(一緒にいて、居心地が良いですものね……)
エリノアは、彼といて不快な思いなどしたことがなかったと気づく。
(この結婚は、きっとうまくいくわ)
好きかどうかで選んだ結婚じゃない。
あの日、あの時、利害が一致し、条件で選んだ結婚なのだからと、エリノアは思うのだった。
◇◇◇
結婚式当日。
雲一つない爽やかな青が広がるこの日、公爵家嫡男の結婚式は、大聖堂にて大々的に行われた。
「美しいよ。美しいんだが……眼鏡を外さないのかい?」
エリノアの花嫁姿を見たジェラルドは首を傾げた。
「なぜです?」
「なぜって。素顔が見たいし、何より、口づけするのに邪魔ではないか?」
(ああ、誓いのキス……)
「そうしたいのは山々ですが、あいにく眼鏡がないとほとんど見えなくて……」
「ん?そう、なのか……。あ、それに、髪はいつもまとめているが、おろしたりはしないのかい?」
「髪ですか?」
「花嫁姿は、いつもと違う姿を見ることができるのかなとちょっと期待していたんだ」
「ああ、なるほど……。私が髪をまとめているのは、眼鏡に触れないようにするためです」
「眼鏡のために、髪型も?」
「顔に髪がかかっては除けたくなるじゃないですか。そうすると眼鏡に触れてしまうこともあるので。できるだけ眼鏡を汚したくないのです。視界が悪くなってしまいますから」
眼鏡がなくては見えない。汚れを拭うために外すのもやっかいということのようだ。
「では、その時はしっかり顔をあげてくれ」
「はい?」
「身長差があるから、その方がやりやすい」
「何がです?」
「口づけだよ」
「……!」
「私が外しても良いのであればその場で外すが、できるだけ触れない方が良さそうだからな」
「……ご配慮、ありがとうございます」
エリノアは顔を真っ赤にして俯いた。
(角度まで把握していらっしゃるというのは……手練れですわね……)
結婚式を滞りなく終え、公爵邸では披露宴が夜遅くまで行われた。
一足先に部屋へと戻った二人は、初めての夜を迎えた。
(眼鏡……どうしましょう……)
よく見えないというのは怖いが、そもそも初めてのことだから恐怖心があった。
(だったら、はじめから見えない方がいいわね)
エリノアは眼鏡を私室に残し、隣接する夫婦の寝室に向かった。
手探りで扉にたどり着くと、ノックしてから入室する。
「エリノア?」
ジェラルドの声が聞こえ、彼が先に来ていたことを知る。
「あ、入って良かったですか?」
「もちろんだよ」
しかし、その先の様子がわからなかった。視界がぼやけてしまって、向かう方向がわからなかった。
(寝る直前まではかけておくべきだったわ……)
扉から動けずにいると、目の前に人の気配を感じた。
「エリノア?どうした?」
上から降り注ぐジェラルドの声に、エリノアははっと顔を上げる。
「……見えない?大丈夫。こっちだよ。おいで」
エリノアは、ジェラルドに包み込まれるようにエスコートされた。
「……」
ベッドに腰掛けるが、無言が続く。
(お任せすればいいと聞いてはいるけれど……)
エスコートされた状態で、ジェラルドに優しく包み込まれたままだった。
エリノアは恐る恐るジェラルドの方を向いてみた。
(ここにいらっしゃる?)
目の前にはジェラルドの顎筋が見えた。
もう少し視線を上げると、ジェラルドの青い瞳があった。
(あ、綺麗……)
エリノアの好きなサファイアと同じ輝きの瞳に思わず見入った。
「……かわいい」
「え?」
「エリノア……かわいい。すごくかわいい……エリノア……」
ジェラルドの低く響く優しい声で囁かれ、エリノアの胸は高鳴った。
(え?……え!?)
頬に手を添えられると口づけられた。
先ほどした誓いの口づけとは違う甘い口づけに、エリノアの脳内は限界だった。
優しくベッドに横たえられると、エリノアはきゅっと目を瞑った。
ジェラルドは優しい。流れるような所作に、手練れであることはよくわかる。
任せておけば大丈夫、怖いことはない。
「……はぁ」
「……?」
エリノアはうっすらと目を開ける。
そこには、微笑んでいるジェラルドがいた。
「エリノア。今日はここまでにしよう」
「……え?」
ジェラルドはエリノアの横に横たわると、再び包み込むように抱きしめた。
「あの、ですが、今日は……」
ジェラルドはゆっくりとエリノアの頭をなでる。
「急ぐことじゃないよ。こういうことは、気持ちがあってすることだから……。エリノアの気持ちが整ったらにしよう」
エリノアが言葉を発そうとすると、ジェラルドはその唇を人差し指で制した。
ジェラルドはエリノアの手を取ると、爪が食い込むほど握りしめていた拳をほどいた。
「私たちは夫婦だから。今日ではなくても大丈夫だよ」
恐怖心を見透かされ、エリノアは恥ずかしさでいたたまれない気持ちになった。
それと同時に、その配慮がとても嬉しかった。
「ジェラルド様……」
エリノアは、ゆっくりとジェラルドの背に手を回すと、きゅっと抱きついた。
◇◇◇
エリノアの結婚生活は充実していた。
読書好きなエリノアのために、書庫はいつでも出入りできるようにしてくれた。本の数も倍増し、屋敷のあちこちに椅子とテーブルが用意された。
「本日はどちらになさいますか?」
「ガゼボにします。お天気も良いですし」
庭園の花を眺めながらエリノアは読書を楽しんだ。
「エリノア、ここにいたのか」
「ジェラルド様。どうなさったのですか?」
「一段落したんだ。お茶にしないかい?」
「ええ。ご一緒させてください」
侍女が手際よくお茶を入れる。
「今日は何の本を読んでるんだ?」
「小説です。恋物語ですわね」
エリノアはジェラルドに表紙を見せた。
「ああ、これは今、劇場で使ってる演目じゃないか?」
「そうなのですか?」
「演劇は興味ない?」
「そういうわけではございませんが、あまり外には出ないもので……」
「今度一緒に行ってみないかい?」
「一緒にですか?」
「ああ。デートをしよう」
後日改めて観劇した。
「寒くないかい」
ジェラルドが膝掛けをかける。
「ここの席が上席で人気なのだが、距離があったな……遠くはないかい?」
上から見下ろす形での観劇となり、全体が見渡せる分、演者は小さかった。
「いえ、全体像が把握できますから、物語の構成も掴みやすくてよろしいかと思いますよ」
「だが、ここからでは、役者の表情までは見えないだろう?」
「声だけでも感情は読み取れますわ。皆さん演技がお上手ですね」
二人がけの席では互いの距離が近い。
愛の物語を見た後、すぐ横にある温もりに、妙に心が騒いだ。
(これがいわゆるデートなのですね……)
親睦を深めるためにもってこいのイベントであることが理解できた。
改めて、自分はあの男に女性として扱われていなかったのだと思い出した。
(さすがジェラルド様は女性の扱いに慣れていらっしゃる。……そしてあの男……やっぱりないわ)
比較対象が少ないこともあるが、それにしても両極端であるとも言える。
それでもエリノアの中での評価は決まっていった。
◇◇◇
この日はマクベイン公爵夫人に連れられ婦人会に参加していた。
「本日は娘を連れてきましたのよ。皆様以後よろしくお願いいたしますね」
「あら、あなたの娘ではありませんでしょう?」
向かいに座る婦人は、楽し気に指摘した。
「いいのよ。やっと息子がお嫁さん迎えたのですもの。私、待ち遠しかったのよ。ずっと娘が欲しかったから」
この茶会は、各家門の夫人を中心に構成された婦人会の集まりだった。今後、ジェラルドが爵位を継いだときのことを考え、公爵夫人が架け橋となってくれたものだった。
「エリノア・マクベインと申します。このような場は不慣れなもので、ご指導ご鞭撻よろしくお願い申し上げます」
「あらやだわ、エリノアちゃん。そんな堅苦しい挨拶。ここにいる皆さんはご理解あるから大丈夫よ」
友人のいないエリノアは、令嬢たちの茶会に呼ばれたことも参加したこともない。
過去に経験のないことに、身構えていた。
マクベイン公爵夫人は、エリノアが同世代の令嬢たちから揶揄われていたことを知り、まずは自分と一緒に婦人会の茶会を経験させることにした。
「エリノア様といえば、シャノン伯爵のご令嬢でしたわね。あなたの噂はお聞きしておりますのよ。切れ者だと」
「切れ者ですか?」
仕留めた記憶があるのは、あの時の婚約破棄くらいだと、エリノアは首を傾げる。
「スタイナー伯爵領の架橋を監修したのはあなただとお伺いしましたわ」
「いえ、あれはそんな大げさなものではなく、相談に乗っただけの話ですわ」
「それでも、その助言があっての今があるのでしたら、素晴らしいことですわよ」
「私たち女性は軽んじられることが多いでしょう?目に見えて役に立ったという実績は、男性陣の間で女性に対する偏見を変えるのには十分ですことよ」
領地経営をするような紳士からしてみれば、信用に値したらしい。
「皆口を揃えて言っていますのよ。我が息子の元に来て欲しい令嬢ナンバーワンだと」
「嫁に?ですが、私は眼鏡で地味だと疎んじられていましたし……」
「器ばかりを見て、その実を見ない歴の浅い男たちのことはあざ笑っておけばよろしいのよ。そう考えたら、ジェラルド様は深い男ということね」
「伊達に女性を知っているわけではない、といったところかしら」
「そんな。ただ合理的なだけですわ」
「あら、そんなこともございませんでしょう?あなたのことは十分に大切にされているようですし」
「ええ。私もあのように愛されたいものだわと思って見ていますのよ」
「きっと妻だからですわ。そういえば、先ほどのお話ですが、何か偏見が変わった出来事でもあったのですか?」
「そうなのよ。あの人、私の意見を聞き入れるようになったのよ」
「ええ、うちもよ。夫が意見を求めてくるようになったわ」
「そうそう、エリノア様にお聞きしたいことがあったのよ。お勧めの本はございます?経済の本がよろしいですわ」
婦人会での情報交換は楽しいものだった。
流行に疎い自分がついていけるかと心配していたが、横にいる義母も満足げにしている。
「あ、そうそう。今流行中の劇を観ましたか?」
「ええ、ええ。やはりこの話は外せませんものね」
(あ、その演劇……先日ジェラルド様と観たものだわ)
こうなることを予想していたのだろうか。
これもジェラルドの配慮だったのだろうかと思うと、エリノアは感心した。
(さすがね。妻への配慮が完璧よ……)
エリノアは婦人の輪に溶け込んだ。
◇◇◇
夫婦となって何度目の夜会だろうか。
エリノアは社交をすることの意味を、そして次期公爵の妻になった意味を理解するようになった。
(令嬢だったとき、婚約者だったときとは、社交の質が違うわ)
常に情報戦が付きまとう。
公爵家と繋がりを持ちたい者たちの思惑が渦巻いていた。
しかし、こちらとしても利用した。
情報交換の場として、エリノアは社交をこなしていった。
「次は私といかがかな?エリノア様」
「はい。よろしくお願いしますわ」
紳士とダンスを踊る。
「先日のエリノア様の助言通り、道路の補修を行いました。事故は減りましたよ」
「それは何よりです。雨の多い地域でしたから、轍も出来やすかったですしね。舗装したことで馬車は安全に走れるようになったのですね」
「先行投資は大切ですな。もっと前にケチらず進めておけば良かったと思うばかりです」
紳士は曲が終わると一礼して去っていった。
次の紳士がエリノアに声をかけようとした瞬間、エリノアは誰かに後ろからふわりと抱きしめられた。
「エリノア。そろそろ帰りましょう」
「ジェラルド様!?先ほどまであちらにいらっしゃいませんでしたか?」
ジェラルドはエリノアの手を包み込むと甲をなでる。
「ああ。だが、今日はもう十分だ。用件は済んだから帰ろう」
「ですが、まだ務めた方が……」
エリノアは話足りていない人がいないか、あたりを見回す。
「君も十分だよ。もう十分だ」
ジェラルドはエリノアをなだめると、帰るよう促した。
馬車に乗り込むと、ジェラルドが張り付いて離れない。
「あの……どうなさったんですか?」
「踊りすぎだ……」
「そうでしたか?以前のあなたは私の比ではなかったでしょう?」
「……あれとは違うだろう」
「社交とは大変なのですね……。立場が変わるというのはこれほどとは……」
「?」
エリノアは純粋にジェラルドと踊ったパーティーを思い出した。
ジェラルドと楽しく踊ったあの夜を。
「結婚する前の最後のパーティーをもっと楽しんでおけばよかったですね」
すると、ジェラルドがエリノアを抱きしめる力が強くなった。
「どうなさったのですか?何かあったのですか?」
浮かぬ顔で大きくため息をつくジェラルドに、エリノアはされるがままだった。
◇◇◇
(通じない……。妻に、俺の愛が通じない……)
まさか自分がこんなことで悩むことになろうとは、彼女と出会ったあの日には思いもしなかった。
俺はマクベイン公爵家の長男として生まれた。
跡取りとしての期待も知っている。
そのための教育も受けてきた。
すると、見目に恵まれたことも相まって、女性から過剰なほど注目を浴びた。
「今日は私がお隣ですわ!」
「いえ、今回は私ですわ!」
誰かを特別扱いすることはためらわれた。
少しでも相手すれば争いが起きる。
このことは両親も頭を悩ませた。
マクベイン公爵家には俺しか子供がおらず、政略的にも繋がりを持ちたい家々の標的とならざるを得なかった。
「皆様、私を差し置いて何を言い争っていらっしゃるの?」
最も厄介だったのがメイフィールド公爵令嬢だった。
年齢も同じで家格も同じ。まるで自分たちの結婚は決まったも同然とでも思っているのか、婚約者然として振る舞っていた。
そこで、父はあえて俺の婚約者を決めなかった。
皆条件は同じだと、対等であると。
この状況を受け俺は、結婚をするならば、マクベイン公爵家に利のある女性を選べばいいと考えた。
そして、そこに愛は必要ない。
なぜならば、女性の嫉妬を見てきたから。
――私だけを見て
――私だけが特別でしょう?
――他の女と会わないでよ
これを妻からされるなんてごめんだ。
社交では話をしなければならないこともあるだろう。
触れなければならないこともあるだろう。
そんなことに気を配らなければならないなんて、面倒なことこの上ない。
とはいえ、女性が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。
かわいい。いい匂いがする。とても甘く、ふわふわしている。
自分は誰のものでもない。みんな平等。
恋愛は今しておけばいい。
言い寄られれば相手をするし、気になる人がいれば声をかける。
もめ事さえなければ、こんなに楽しいことはなかった。
しかし、そんな生活を長く続けるわけにもいかなくなった。
「ジェラルド。そろそろ決めないか?お前ももう25歳だろう?」
「そろそろですか……」
「適齢のお相手がいなくなってしまうぞ?このままだとメイフィールド公爵家が一番妥当か?」
「いや、それはちょっと……」
メイフィールド公爵令嬢が最も俺に執着のある女性だった。
同じく25歳であるにもかかわらず、未だに独身を貫いていた。
しかしメイフィールド公爵から縁談を申し込まれることはなかった。
公爵が踏み込まない理由は俺の女性関係が原因だと伝え聞いて、自分のしてきたことも悪いことじゃなかったと思ったものだった。
そんなある日の夜会、こともあろうに公の場で婚約解消を言い渡している男がいた。
(好きな人ができたからって、なんて身勝手な……)
婚約者を立てろよ。配慮のない男だな……。
そして聞こえてきた台詞に、俺は衝撃を受けた。
「好きかどうかで結婚を選べるなら、私はあなたを選びません」
凜とした声に思わず女性に目を向けた。
綺麗にまとめ上げた髪と、ピンと伸びた背筋が美しい人だった。
そして続く台詞に納得した。
「私は父に言われたから婚約していただけですが?」
(なんて合理的な……)
「ぷっ。いいね、その台詞。しびれるよ」
その後の会話も全てが合理的。
俺が求めていた、俺の伴侶像としては完璧だった。
「父上、見つけてきましたよ。私の妻に相応しい人を」
この後は実に順調だった。
公爵家から正式な手順を以て婚約。
こうして俺に、婚約者ができた。
エリノア・シャノン伯爵令嬢は、真面目さを体現したような見た目をしていた。
分厚いレンズの眼鏡に、まとめ上げた髪、首元まで詰まった襟に、凜とした背筋。
(……隙がないな)
正直なところ、好みではなかった。
女性らしいふわふわや、いい匂い、そして甘い会話もない。
彼女を婚約者と据えた生活が始まると、女性と交流する機会も減っていった。
(女の子が……刺激も癒しも足りない……)
婚約して最初の夜会に繰り出した。
皆口を揃えて俺の婚約について触れていった。
正式に公爵家から発表を行ったため、エリノア・シャノン伯爵令嬢の名が知れ渡った、そう思っていた。
紳士たちと情報交換を終えると、タイミングを計ったかのように令嬢らに声をかけられた。
「ジェラルド様、お一人なのですか?」
「いや、婚約者と来たよ」
「あら、確か、シャノン伯爵令嬢とご婚約されたのですよね?」
「ああ。君たちは誰と来たんだい?」
「私も婚約者とですわ」
「私は父と参りましたの」
「今日も君たちは美しいね。どの花よりも君たちの方が色鮮やかに咲き誇っているよ」
「いつもお上手ですこと」
「あちらに参りませんか?私、今宵は乱れ咲くことが出来ますわ」
腕をつかまれ引き寄せられると、耳元で囁かれた。
香水の強い香りが鼻を突き刺す。危険な香りがした。
「随分と魅力的なお誘いだが、お父上と共にいらしたのならご遠慮しておこう」
「あら、残念。でも、いつでもお相手いたしますわ。私たちはいつでも花開いて待っておりますから」
「甘い蜜が欲しければこちらにいらして」
その令嬢たちと入れ替わるように、他の令嬢たちがやってくる。
婚約の祝福をしたかと思えば、いかに自分が美しいかを語っていく。
すると、背後から聞こえた名前に耳をそばだてた。
「いやぁ、しかし。ボイド伯爵は嘆いておられたな。できた嫁を手放すことになったと」
「嫁?」
「夫人か?」
「違う違う。息子に宛がった婚約者だよ」
「もしかして、エリノア・シャノンか?」
「そうそう。あの知識と技量が、息子の穴を埋めるのにちょうど良かったんだと。それだというのにその息子が勝手に婚約破棄しちまったらしくてな」
「ああ、あれか。好きな人がいるからってやつだろう?」
「そうそう。もう慰謝料も払うことになって火の車らしい」
紳士たちの話題はボイド伯爵だった。
「それにしても、マクベイン公爵令息が持っていっちゃうとはな」
「令嬢なんて選び放題だろうに。よりによって婚約相手がエリノア嬢とは……」
「ああ。息子の嫁にしたい令嬢ナンバーワンだからな、彼女は」
「ほんとに。ボイド伯爵令息との婚約破棄を聞いたときにはチャンスだと思ったんだが……」
「さすがマクベイン公爵令息だ。手が早い」
エリノア・シャノン伯爵令嬢の名は元々知れ渡っていたらしい。
それも、経営に強く知識も豊富、実務にも長けるとあって、嫁に宛がいたいと父親世代に絶大な人気を誇るという。
彼女を知らなかったのに婚約を取り付けるなどとは、思わぬ掘り出し物だったことを知った。
ふとエリノアに目を配ると、彼女の横には若い男がいた。
彼から受け取ったワインを片手に、何やら話し込んでいる。
(先ほどまで一人でいたのに……)
その場を後にし、エリノアに近づく。
漏れ聞こえた話は、どうにも口説かれているように聞こえた。
(婚約者がいる者を口説くとは……)
しかし、彼女は上手にあしらっているようにも感じる。
彼女の貞操観念に感服した。
「エリノア」
合流すると、相手とは旧知の仲で経営談義をしていたと聞いた。
(なるほどな。彼女の評判は、有名な話だったのか……)
自分は社交場で女遊びをしていたが、彼女は紳士に混じり経営談義とは。
「もうよろしいんですか?」
俺がこの夜会に来た理由が女遊びのためだとは言えない。
ちょっと女の子が足りないと思っていたなどとは知られたくなかった。
「十分な交流が出来ていれば、ここに居座る理由はないよ」
今日はもう十分楽しんだ。
もう十分だった。
彼女からは危険な香りはしない。
安全な場所へと戻ろう。
エリノアとの時間は思いのほか有意義だった。
知的な会話と居心地の良さがあったのだ。
(性的な関係ではないからか?)
婚約者というのは特別なものだという認識でいた俺は、彼女に失礼のないようにと気を配った。
彼女はそれすらも慣れていないのか、あらゆることに驚き、感謝した。
一緒に過ごす時間を作っただけで感謝された。
彼女のわずかな微笑みに、心が温まった。
(もうすぐ夜会があるな。そこを婚約者同士で参加する最後の夜会にしよう)
思えば、婚約者らしいことをしたと言えば、公爵邸で茶会をすることと、社交に同伴してもらうことだった。
同伴してもらうと言っても、婚約者がいる手前、パートナーを連れないと不自然だったからだ。会場では別行動ばかりだった。
エリノアを思い浮かべ贈り物を用意した。
(今回は最後までパートナーとして過ごそう。夫婦になってしまっては社交の在り方も変わってしまう)
恋人がするように、ダンスをし、歓談をし、これから結婚するのだと決意する場に。
ついでに最後にもうひと遊びできたら……。
そう期待していた夜会だった。
「お手をどうぞ、エリノア」
「はい。ジェラルド様」
とても踊りやすかった。彼女のダンスが上手だっただけではない。
他の令嬢ならば、もたれかかられたり、抱きつかれたりしていたため、極端に踊りにくかったということに気づく。
(女性はやわらかいから好きだったが、こんなにダンスが楽しいと思えたのは初めてだったな)
すると、メイフィールド公爵に話しかけられた。
「そちらが婚約者かね」
エリノアを紹介すると、値踏みするように見られた。
そこであろうことか、メイフィールド公爵令嬢について言及し、過去を持ちだしたのだ。
(何を言い出す!意味深に。エリノアを不安にさせるなよ)
「ジェラルド様が魅力的だということですから、私がどうこうできることではございません」
実に合理的な彼女の回答だった。
自分の心配は杞憂に終わった。
俺はエリノアとメイフィールド公爵を離した。
「まさかエリノア・シャノンを出し抜くとはね。女遊びはカモフラージュか?」
「何のことでしょうか?彼女がそんな有名人だとは思いもしなかったもので」
「そうだろうな。君の趣味じゃないだろう?あんなに華のない女性を横に添えるのは。それとも女遊びは女性を吟味するための時間だったか?結局最も公爵夫人に相応しい淑女を選ぶとはな。抜かりない。愛のない結婚も結構だがね。それでは娘もけじめがつけられないものでな」
条件で選んだ結婚相手。手にしている条件で言えば力が強いメイフィールド公爵令嬢のプライドも折れるということか。
「メイフィールド公爵令嬢と何の関係が?」
「君と一夜共に出来れば諦めると言っている。どうかね?我が娘が君に熱を上げていたのは有名な話。君は女性関係が派手だったからね。一夜くらい共にしても誰もなんとも思わんだろう?」
「申し訳ありませんが、もう婚約した身です。そしてその女性と結婚します。もう他の方と一夜を共にする気はありませんね」
「……そうか。残念だ」
(あのたぬき親父……どうせ既成事実を作ろうとでも考えているんだろう)
最後の女遊びが心の片隅にあったはずなのに、メイフィールド公爵の出現で、その気持ちは一切なくなった。
(婚約者を立てるのも、結婚するのも覚悟と責任の上で。立場を考えた振る舞いだ、俺)
そう思った矢先のことだった。
令嬢らに囲まれた。
彼女らの話は、先ほどのメイフィールド公爵と同じようなことだった。
結婚を控えた今宵、独身最後であろうと関係を求めるものが多かった。
女性は好きだ。かわいい。いい匂いがする。とても甘く、ふわふわしている。
でも、今日は違った。この匂いがきつかった。
彼女らとダンスを踊ることさえも嫌だった。
俺はやんわりとあしらった。
しかし断れど断れど女性たちは後を絶たなかった。
(いったいなんなんだよ)
遠くにいるエリノアを見つける。
彼女は壁の花になっていた。
婚約者と来させておいて、この扱いだなんて。
(せめてもう一曲踊りたい……俺は、最低だな……)
結局この日、彼女の元に戻れたのは帰る直前のことだった。
結婚式の日を迎えた。
期待していた。
正直なところ期待していた。
ところが、現れた彼女は、ドレスの色こそ白で統一されていたものの、いつもの彼女だった。
(今日も控えめだ……)
今日の主役だというのに、輝くよりも実用を取った行動だと知り、ますます感心した。
(なんて合理的な……)
そんな彼女の基準である眼鏡の美しさのために、色気のない誓いのキスになってしまった。
(本当は頬に手を添えてとか思っていたんだがな……。あ、顎ならばよかったか)
彼女にしっかり顔を上げるよう指示をしたが、自分でやる手もあったと後に思いついたことが心残りだった。
その日の夜。
(エリノアを抱けるかな……)
ここまで性的な何かを匂わせた関係が皆無だった彼女と、関係を進ませることができるか不安だった。
(それでも、エリノアだって女性だ……)
女性は好きだ。問題ない。
すると、扉から音がした。
そこに目を向けると、扉の所に女性が一人立っている。向こうの部屋の明かりが逆光になり、人影から女性であることしかわからない。
「エリノア?」
妻の私室から来たのだから、エリノアだろうことは理解した。
「あ、入ってよかったですか?」
「もちろんだよ」
声からもエリノアだと判断できた。
しかし、彼女はそこから動こうとしない。
首を動かし、辺りを確認しているようだった。
(ん?)
何か問題かと俯いているエリノアに近づいた。
「エリノア?どうした?」
俺の声に彼女ははっと顔を上げた。
(ああ、眼鏡がないから見えないのか……)
「……見えない?大丈夫。こっちだよ。おいで」
後ろから腰に手を回し、支えるようにベッドへと誘導した。
近くに来て気付く。
髪はふわりと下ろされ、薄い寝間着に、露わになった白い肌、仄かに香る甘い香り。
隠されていた彼女が今目の前にある。
「……」
何と声を掛けたらよいだろうか。
とても魅力的だと感じたのに、どの言葉も彼女に相応しくないと思ってしまった。
今まで使っていた台詞のどれもが安っぽく思え、エリノアには使えなかった。
すると、彼女が動き出した。
俺の方に顔を向ける。
ぷっくりと赤い小さな唇、通った鼻筋、透き通るような白い肌。
俺の方に向き合った後、彼女が顔を上げた。
目が合った。
大きな目。長い睫毛に隠されていた青い瞳を見た瞬間だった。
「……かわいい」
口から自然とこぼれた言葉にエリノアが反応する。
「え?」
そこで初めて、自分が発した音だったと気付いた。
(どうしよう。かわいい。すごくかわいい)
「エリノア……かわいい。すごくかわいい……エリノア……」
もうこの際、自分の語彙力の無さはどうでもよかった。
彼女に口づけた。
今は眼鏡を気にすることもない。
彼女をベッドに横たえた。
(かわいい、エリノア)
俺の首に手が回され、俺は引き寄せられ……ない?
(……ん?)
いつもと違う。
よく見てみれば、エリノアの目はきゅっと閉じられていた。
胸元ではぎゅっと力いっぱい拳が握られていた。
(……あ)
エリノアは初めてなんだ。
こういった経験がない。
いつもあとくされなく付き合うために、手慣れた女性と遊んでいた。
だから気にしたことがなかった。
エリノアは、怖いんだ……
「……はあ」
俺は、自分の失態に、そして、己の熱を逃がすように大きく息を吐いた。
「……?」
エリノアがゆっくりと目を開けた。
俺は安心させようと微笑んだ。
「エリノア。今日はここまでにしよう」
エリノアの横に寝ると、彼女の緊張を解くために優しく抱きしめた。
「エリノアの気持ちが整ったらにしよう」
エリノアは真面目に初夜をこなそうとしている。きっと我慢して無理にでも耐えようとするだろう。
そんなことはさせたくなかった。
これは、愛を確かめ合う行為でもあるから。
(なにが、合理的に選んだ妻だ……)
エリノアの固く握られた拳を解いた。
「私たちは夫婦だから、今日ではなくても大丈夫だよ」
待てる。一夜限りの関係じゃない。
彼女は妻だから。
すると、エリノアの手が背中に回され、ぎゅっと抱きつかれた。
(……か、かわいい)
この後は安堵したのか、エリノアは俺に抱きついたまま眠ってしまった。
(耐えろ。さっき待てると思っただろう)
すやすやと寝息をたてている彼女を包み込むように抱きしめ、俺は眠った。
それからというもの、俺はエリノアの側にいる時間を極力作るようにした。
(エリノアと一緒にいたい)
「エリノア、ここにいたのか」
屋敷内を探しては彼女を見つけ、一緒にいる理由を作る。
外に出るのがあまり好きではないというエリノアは、本の虫。
そんな彼女のために、書庫を充実させた。
「デートをしよう」
エリノアを観劇に誘い出してはみたが、彼女とデートというものをしてこなかったと気付く。
(何をしていたんだ……俺は)
出来得る限りの対応をする。
彼女はいつも通りに合理的で、俺の配慮不足も利点に変えて対応してくれた。
後に彼女はこの観劇について感謝してきた。
「さすがジェラルド様です。配慮いただきありがとうございました。とても役に立ちましたわ」
母の話では、母と参加した婦人会で、演劇が話題になったとか。
(違う。役立てるためとかそういうつもりじゃ……)
そして、何よりもヤキモキしたのが社交だった。
公爵家の人間として、様々な家門と交遊する。
彼女はエリノア・マクベイン。
有名な元シャノン伯爵令嬢は、その地位を得たことで、社交場で引っ張りだことなった。
紳士が列を成す。エリノアとダンスを踊るために。
ダンス中に様々な情報を交換しているようだ。またそれが彼らの役に大いに立つ。それゆえ、次の社交でもエリノアの列は出来ていった。
「エリノア、そろそろ帰りましょう」
残りの列など知らない。
ここまでとばかりに、エリノアを後ろから抱きしめる。
彼女は俺のだと威嚇した。
何人もの男が触れたエリノアの手を撫で、男の気配を落とす。
「あの……どうなさったんですか?」
「踊り過ぎだ……」
このどうしようもない独占欲をどう表現したらいいのか。
「そうでしたか?以前のあなたは私の比ではなかったでしょう?」
俺の前に列を成す令嬢たち。
代わる代わるダンスを踊ったかつての夜を思い出す。
「……あれとは違うだろう」
まさか、あれと比較されるとは。俺は遊んでいただけ、彼女は務めているだけだ。
「結婚する前の最後のパーティーをもっと楽しんでおけばよかったですね」
純粋にダンスを楽しんだパーティー。たった一度だけ恋人のように踊ったダンスだ。
(なんでもっと早く……)
彼女をぎゅっと抱きしめた。
彼女からは男性物のコロンの香りがした。
俺は大きくため息をついた。
◇◇◇
(ジェラルド様はずいぶんと妻を大切になさる方なのね)
結婚してからというもの、一緒にいる時間が増えた。
というよりは、ジェラルドがそのための時間を調整しているようにも思えた。
(まあ、でも、同じ屋敷で暮らしているのですから、顔を合わせる時間が増えるのは自然でしょう)
エリノアは今日も読書を堪能する。
今までは、経済や経営、商業に関する本が多かったが、小説の数が増えていた。
(経済の本は読み飽きてしまったから小説を読むことが増えましたが……恋愛小説ばかり揃っているのはなぜかしら?)
ミステリーや時代物もある中、妙に恋愛小説が目につく。
(あ!もしかして、社交に必要なのかもしれないわ)
何かの参考になるのかもしれないと、エリノアは敢えて選び読むようになった。
「エリノア、今日はここにいたんだね」
「ジェラルド様。お仕事はよろしいんですか?」
「君に会いたくて早く終わらせてきた」
「それはずいぶんと効率の良いことですね。私が側にいない方が捗るのですか……」
あの男の時では考えられない事例に、理由が思いつかないエリノアは首を傾げた。
「違うよ、エリノア。君という存在が私の原動力なのだよ」
エリノアの横に座ったジェラルドは、軽く肩を引き寄せるとエリノアの頭頂部に口づけを落とした。
「え?」
(いったい今何を?)
顔を見つめると、ジェラルドはニコニコとしている。
「眼鏡が邪魔だな。本当は頬にしたかったんだが……」
「それは、申し訳ございません」
「まあ、それは夜に取っておくとしよう」
(夜?私はまだ準備できていませんが……?)
頭に口づけをされただけだが、鼓動が鳴りやまないエリノアは整う気がしなかった。
その日の夜。
寝室でいつものように横になる。
ジェラルドは頬に口づけを落とすと、満足気にエリノアを抱きしめて寝てしまった。
(ん~?)
思っていたのと違ったエリノアは、こわばった体の力を抜くと、ジェラルドの鼓動を感じながら眠りについた。
(これは、慣れるためでしょうか……)
日々過ごしていく中で、随分とスキンシップが増えていた。
事あるごとにジェラルドはエリノアを抱き寄せ、どこかしらに唇を寄せる。
次第にエリノアはその行為にも慣れていき、そんなことが日常となっていた。
(それにしても、私の気持ちが整ったらというのは、いつなのでしょう?)
このままではいけないことは理解していた。
エリノアは妻となったのだから。
マクベイン公爵家に跡継ぎをもうけねばならない。
それはエリノアの責務でもある。
(体を重ねなければ、お子はできませんよね?)
ジェラルドは優しい。
仕事もできる。
気配りも優れている。
見目も美しい。
特に瞳は大好きなサファイアと同じ色だ。
(ジェラルド様に触れられることは嫌ではないのに……)
妻に望まれてここにいる。
ジェラルドにとって合理的な結婚だ。
そして、自分にとってもそれは同じだ。
でも、それを理解してしまうと、少し寂しい気持ちになった。
◇◇◇
今宵の夜会は大きいものだった。
有力貴族がこぞって参加している。
マクベイン公爵家を代表し、二人はこの夜会に参加していた。
「まずはあいさつ回りをしよう」
「はい」
交流を兼ねた挨拶は何事もなく進んでいく。
ジェラルドがエリノアにぴったり寄り添いながら。
「エリノア様のご意見は的を射ていて素晴らしい。知識の賜物ですな」
「趣味が大いに役立っておりますの。その時間を今たくさんいただいていますから、私の知識も増えていくのですよ」
エリノアはジェラルドを見上げた。
「もう少しゆっくり過ごしていて良いのだがね。好きでやっていることに口出しはしない。君は無駄なことはしないから、すべてが君の身になっているのならよかったよ」
ジェラルドもまた、エリノアを見下ろすと優しく微笑んだ。
「ジェラルド様の甘やかしがエリノア様の有能さに拍車をかけていたわけですか」
一通りの挨拶を終えると、ジェラルドは友人に呼び出され、エリノアの元を離れていった。
友人らしい友人は存在しないエリノアは、壁の花になる。
そこへ、スタイナー伯爵がやってきた。
「エリノア様、こちらいかがですか?」
赤ワインを差し出され、エリノアは受け取る。
「ええ、ありがとうございます」
「ご結婚されていかがですか?公爵家には馴染めていますか?」
「ええ。充実しておりますわ。公爵家の皆様も大変よくしてくださいますし」
「それは当然ではありませんか?」
「え?」
「エリノア様は嫁に迎えたい令嬢ナンバーワンと呼び声が高いですから」
「まあ。あなたもその噂をご存知なのですか?私は生真面目地味令嬢と疎まれていたことしか存じませんでした」
「だとしたら、今はお幸せなのではありませんか?」
「え?」
「夫であるマクベイン公爵令息はあなたしか見ておりませんからね」
「まさか」
ふと顔を上げると、紳士の輪の中からこちらを見ているジェラルドがいた。
「きっと、私が妻だからですわ。マクベイン公爵家として問題を起こさないか心配なのですよ」
「なるほど。これはマクベイン公爵令息も苦労されるわけだ」
「はい?」
「私は彼を敵に回したくはありませんので、ここで失礼します」
スタイナー伯爵は遠くにいるジェラルドと目を合わせると一礼した。
会場ではダンスが始まった。ここからは男女間の社交も本格的に始まる。
すると、エリノアの前にあの男がやってきた。
「エリノア。よかったら、俺と踊ってくれないか?」
「……お断りします」
「え?」
まさか断られるとは思わなかった男は、立ち尽くした。
「何でだよ。いつも何人も踊っていたじゃないか。選ばれなかった腹いせか?」
(何を言っているの?この男……)
「はあ……」
エリノアは盛大なため息をつくと、男と向き合った。
「あの、何を勘違いなさっているのかわかりませんが、あなたとはもう無関係の他人ですので、名前を呼び捨てで呼ぶのはやめていただけますか?不敬にもほどがあります。私は次期公爵夫人です」
「あ……」
「つまり結婚して夫もおります。既婚女性を呼び捨てにするなど言語道断ですわね。ご理解いただけましたか?アルバート・ボイド伯爵令息」
家格を示されては、頭を下げるしかなかった。
「も、申し訳ありません……」
「それから、あなたに選ばれなかったのではなく、私が選ばないと申し上げました。私が踊った皆様とは、有意義なお話が出来るからです。あなたとは実のある話など何もないでしょう?私の時間を無駄にしないでくださいますか?」
「あ……で、でも、聞いて欲しいんだ。君がいないと俺はダメだったって気づいたから」
「でしょうね」
「で、でしょうね?」
即答で肯定されるとは思わなかったアルバートはたじろいだ。
「だから私は申し上げたんです。あなたを選ばないと」
「ああ、好きかどうかで選ばないってやつか?選ばれなかった負け惜しみだろう?」
「だとしたら、あなたの最愛は助けてくれたのですか?」
「そ、それなんだよ、聞いて欲しいのは。あいつ、俺が頼んだのにやってくれないんだ。私に経営なんかわからないとか言って。夫人というのは社交をもって家門を支えるものだとか言って茶会ばかり」
「それが当たり前だということをご存知でした?」
「え?」
「私も今は気まぐれにお茶会に参加しているのですよ。知人が少ないですから、頻度こそ多くはありませんが」
「ほ、ほら。頻繁にじゃないだろう?」
「ええ。でも、それしかしておりませんよ」
「へ?」
「それさえも無理しなくともよいと言ってくださっています」
「だ、誰が?」
「夫です」
「こ、公爵令息が?」
「私は読書が好きですから、そちらを優先していいと言ってくださっています」
「いや、夫人の務めってやつがあるだろ?」
「ええ。その務めの分だけやれば十分だと。そういった意味では、ロレッタ様はしっかりお務めでいらっしゃいますよ?ご婦人たちの評判も上々です」
同席する茶会に出席したことはないが、ご婦人たちからお話を聞いていた。
「え?」
「それにしても、たったあの程度の量をお一人で捌けないなんて。無能な男はモテないですわよ。もう一度申し上げますわ。好きかどうかで結婚を選べるなら、私はあなたを選びません。だって、あなたを好きになる要素なんてどこにもありませんもの」
エリノアはちらりとジェラルドのいる方向を見た。
今ちょうど紳士の輪から令嬢に手を引かれ、令嬢の輪に取り込まれているところだった。
「はっ。でもモテたとしてその夫は女ったらしだ。一途な男のほうが良いと思うがな」
エリノアはきょとんとした。
「一途な男というのは誰のことですの?ほかに好きな人ができたと婚約破棄を申し出る男ではないとは思いますが」
「……」
アルバートは返す言葉が見つからず押し黙った。
「私の夫を悪く言わないでくださいますか?女性が放っておかないほど彼は魅力的なのですよ。あなたの最愛はどちらに?夫が元婚約者の元にいるのに放っておかれていますが……」
二人で会場内を見渡した。
「あっ」
ロレッタを見つけたアルバートの口から、思わず声が漏れた。
ロレッタは友人に手を引かれるがまま、ジェラルドを取り囲む令嬢の輪に取り込まれていた。
「あら、まぁ」
エリノアは手を口元にあてる。
「責めないであげてくださいませね。彼女は社交をもって務めていらっしゃいますから」
青ざめるアルバートは立ち尽くした。
「エリノア様」
エリノアは後ろから声をかけられると、アルバートを残し、紳士とダンスへと向かった。
何人くらい踊っただろうか。
いつの間に来たのか、ジェラルドが背後に立っていた。
「帰ろう、エリノア」
「ですが、もう少しお話を」
「ダンスで?夫がいるというのに……」
「社交ですわよ?今日も情報をいろいろと交換しましたわ」
「でも、君に触れるのは夫である私だけでありたい。君だって夫に他の女性が触れていたら嫌だろう?」
「いえ、ジェラルド様に限ってはそんなことを気にしていたらきりがございませんし、致し方ないですから」
「え?」
ジェラルドはその場で固まった。
すると、エリノアはくんくんとジェラルドの胸元に顔を寄せた。
「ほら、私じゃない香りがします」
この日も女性に囲まれていたジェラルドは、大きく項垂れた。
馬車での帰り道、エリノアは終始がっちりとジェラルドに抱きしめられていた。
「あの、ジェラルド様?」
「君の香りが良い……」
「え?」
「でも今、君からは男の香りがする」
「まあ、それは致し方ないですね。先程まで踊っていましたから」
「私は、気にしていたらきりがないなんて思わない。君が特別だから」
「特別?私が妻だからですか?」
「違うよ。君だからだ」
――私だけを見て
――私だけが特別でしょう?
――他の男と会わないで
そんな想いを、まさか自分が抱くとは思わなかったジェラルドは、顔を真っ赤にした。
「君は私のだ。私だけを見て、エリノア」
「……ジェラルド様」
「気が気じゃなかったよ、今日は……」
「え?」
「スタイナー伯爵に口説かれなかったか?」
「口説く?」
そんな会話が記憶にないエリノアは首を傾げた。
「ボイド伯爵令息は……。で?結局、あの男は何しに来たんだ?」
ジェラルドは次の男の名前を挙げたものの首を傾げた。
「ぷっ。あの男は無能っぷりを披露しただけでしたよ」
「それでも、あいつも男だ。他の男とも会わないで欲しい」
「ジェラルド様。それは難しいかと……」
「エリノアだけなんだ。こんな想いを抱いたのは、エリノアだけ」
すると、ジェラルドはエリノアの首筋に顔をうずめて、そこに口づけた。
「ジェ、ジェラルド様!?」
顔から首筋まで真っ赤に染まったエリノアを見て、ジェラルドは大人しくなった。
「すまない、エリノア。君を待つと言ったのに、もう待てない。ずっと触れていたくて、でもできなくて……。君は私をどう思っている?君にとって私は、合理的に選んだ夫かい?」
「そうですね……。好きかどうかで結婚を選べるなら、──私はあなたを選ぶかもしれませんね」
「え?それって……」
ジェラルドは期待に満ちた瞳を輝かせた。
「それって……私のことを……!」
「ふふふ」
エリノアはにっこりと微笑んだ。
「もう、気持ちは整っていますよ」
◇◇◇
「ねえ、いったいどういうことなの?全然ジェラルド様が相手してくれないじゃない」
メイフィールド公爵令嬢パトリシアは、苛立たしげに爪を噛んだ。
「本当ですわね。私たちの方が美しいのに」
「エリノア様は、どうやってジェラルド様を捕まえたのかしら?」
「そうよね。だって、生真面目地味令嬢でしょう?どこに魅力があるっていうのよ」
取り巻きの令嬢たちは、以前から変わらず、自分こそが美しいのだと競い合っていた。
けれど、ジェラルドが彼女たちを相手にすることはなくなった。
「こうなったら、直接お伺いしてみない?」
「え?」
「公爵令嬢である私から、声をかけて差し上げますわ」
◇◇◇
ジェラルドが友人たちと話していると、令嬢たちがこちらへ向かって移動し始めた。
「またか? ジェラルド。もう遊びはやめたんだろう?」
「いや、そもそも続けてないし、勝手に寄ってくるんだよ」
「一度言ってみたいね、その台詞」
「ん?」
ジェラルドが視線を移す。
令嬢たちの向かう先には、エリノアがいた。
◇◇◇
「エリノア様。少しよろしいでしょうか」
「はい?」
パトリシアはエリノアを上から下まで見た。
「あなた、ジェラルド様と結婚されてから、随分と社交がお上手になりましたのね。殿方と踊ることなんて、以前はなかったのでしょう?」
「そうですね。以前はあまり社交の場にも出ておりませんでしたから」
「それなのに、ずいぶん楽しそうに殿方と踊っていらっしゃるわね」
「ええ。皆様、有意義なお話をしてくださいますから」
「そんな地味な身なりで、男を寄せ集めているんじゃないわよ。元伯爵令嬢のくせに」
「はあ……」
エリノアは小さく首を傾げた。
「私が殿方を集めているのは、知識ですので。着飾った器を見せるためではありませんが……」
「……何よ」
「では、パトリシア様。貴女の武器は何ですか?」
「は?」
「ずっとジェラルド様を追いかけていらしたと伺っています。では、彼に選ばれるために貴女が誇れるものは何ですか?」
「だから、何が言いたいのよ!」
「家格ですか?それとも、美しさですか?」
パトリシアの顔が引きつった。
「ジェラルド様以外にも殿方はたくさんいらっしゃいますよ。貴女の武器を増やしておくのも良いのでは?」
「ッ……!いい気になって何よ!」
周囲の令嬢たちが慌てて止めようとした。
けれど、間に合わなかった。
パトリシアがエリノアの肩を突き飛ばす。
体勢を崩したエリノアの眼鏡が宙を舞った。
カシャーン。
パリーン。
床に落ちた眼鏡のレンズが、無残に砕け散る。
「エリノア!」
何事かと駆けつけたジェラルドが、すぐにエリノアを抱き留めた。
「大丈夫かい? 怪我はない?」
「ええ。……あの、ジェラルド様?」
「ここだよ」
エリノアは声を頼りに顔を上げた。
その瞬間だった。
会場から、音が消えた。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳。
通った鼻筋。
小ぶりな唇。
透き通るような白い肌には、驚きによる赤みがほんのり差している。
いつも眼鏡に隠されていた顔が、誰の目にもさらされた。
「……え?」
「エリノア様……?」
誰かの呟きが落ちる。
恐る恐る、取り巻きの一人が尋ねた。
「な、なぜ……いつも眼鏡を?」
「なぜって……見えないからですよ」
「え?」
「眼鏡がないと、ほとんど見えませんもの」
「で、では、隠していたわけでは……?」
「隠す?」
エリノアは本気で不思議そうに首を傾げた。
「何をですか?」
「お顔を……」
その言葉を聞いた瞬間、エリノアの顔が青ざめる。
「ど、どうしましょう……ジェラルド様」
「どうした?」
「私、隠したほうがよいお顔だったのでしょうか……?」
「え?」
ジェラルドは目を瞬いた。
「君、自分の顔を見てないの?」
「まさか。見ていますよ。眼鏡をかけてですが……」
ジェラルドは、しばらくエリノアを見つめた。
「……そうか」
妙に納得し、小さく笑う。
「では、知らないんだね。君が、とても美しいということを」
「美しい?」
エリノアは目を丸くした。
「地味ではないのですか?」
「……ぷっ」
ジェラルドは思わず笑ってしまった。
「いや。全然」
その言葉に、エリノアは困ったように微笑んだ。
その傍らでは、パトリシアが言葉を失っていた。
彼女たちが最後に頼りにしていたのは、美しさだった。
けれど、それさえもエリノアには敵わなかった。
「パトリシア・メイフィールド公爵令嬢」
ジェラルドの声が響き渡る。
「妻に対する暴行については、マクベイン公爵家から正式に抗議させていただく」
「……」
「それから、もう私たちに関わらないでください」
パトリシアはその場に座り込んだ。
◇◇◇
その日を境に、エリノア・マクベインの名は、社交界にこれまで以上に広く知られることとなった。
切れ者であることは、すでに知れ渡っていた。
領地経営の知識が豊富で、実務にも長けている。
社交にも抜かりがなく、人との繋がりを築くことにも長けている。
そして何より、マクベイン公爵家の夫人として申し分ない。
そこへ、誰も知らなかった美貌まで加わった。
「ジェラルド様は、見る目がおありだったのね」
「それにしても手が早かったな」
そんな声が社交界のあちこちから聞こえるようになった。
「エリノア、眼鏡を外してくれないかい?」
「なぜですか?」
「なぜって、口づけするには邪魔だろう?」
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