表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

道なき道の水流

作者: 鱈井 元衡
掲載日:2026/03/21

モーセ・ベン・ナフマン/ナフマニデス(Nahmanides, Moshe ben Nahman, Ramban)

1194-1270


ユダヤ教徒の神学者、哲学者。ヘロナ(ジロナ)出身。

医師、カタルーニャのユダヤ教宗教界の指導者として生計を立て、当時哲学において絶大な権威を持っていたマイモニデスの一門と議論を交わした。

アラゴン王ハイメ(ジャウマ)一世の開いたキリスト教徒との神学論争の後アラゴン王国を去り、エルサレムにおいてユダヤ教徒共同体の再建に尽力した。パレスチナのアクレにおいて没す。

 モーセ・ベン・ナフマンは、長い航海の果てにエルサレムに来た。隙間なく密集した家屋の向こう、遠くに金のドームが見えた。イスラームの預言者ムハンマドがかつてそこから天へと旅立ち、神や預言者に出会ったとされる場所にその建物は経っていた。

 じきにキリスト教徒たちが慕う聖墳墓教会も見えるだろう。だがラビたる者のはしくれとして、かつてこの街に屹立し見る者を圧倒した神殿の、わずかな名残であるあの壁に参らなければなるまい。度重なる戦乱で昔の物など簡単に散ってしまうこの都で、あれだけがかろうじて父祖の栄光をとどめている。

 唯一の神を崇める者にとっては、誰もがあこがれる聖地だ。

 しかし、ベン・ナフマンに喜びの色はなかった。どれだけ聖書にこの地の素晴らしさについて説く文句があっても、現実のここはうらぶれた一地方でしかないからだ。現実的な利益など皆無だというのに、あまりにも妄執の元に、この大地を巡って血生臭い争いが何度も起きたことをベン・ナフマンは知っていた。

 結局ここも荒野だと彼は思った。

 あるべき秩序から切り離された者たちにとっては、この世のどこであれ荒野だ。


 ベン・ナフマンは好きで聖地を訪れたわけではなかった。祖先の悲しい宿命と同じく、住み慣れた場所にいられなくなったからである。

 彼が生まれたイベリア半島では長らくキリスト教圏とイスラーム圏の間、軍事力の均衡によって平和が保たれ、小競り合いはあっても勢力地図が大きく塗り替わることはなかった。

 どちらでもないユダヤ教徒はこの二つの勢力の間で、外交交渉を通じて橋渡しを行ってきたのだ。ベン・ナフマンはありし日の歴史を懐かしむ。

 そして、打算を越えた共存が成り立ったことはある。

 レオン王サンチョ一世が後ウマイヤ朝に渡り、ユダヤ教徒医師ハスダイ・イブン・シャプルートの治療を受けたこと。後ウマイヤ朝の崩壊以後、サムエル・イブン・ナグレラがグラナダ王国の宰相となり、信徒の長ナギードと称されたこと。

 しかしキリスト教徒の覇権が決定的になった今、ユダヤ教徒はまさにどちらでもないことによってキリスト教徒からもムスリムからも怪しまれ、嫌われた。

 ことにキリスト教徒は徴が真実であることに固執した。ムスリムと違って彼らは異端の存在を決して容認しない。キリスト教徒は病的なまでに、信仰が正しいことを現実の事象から証明しようとする。あちこちに教会が認める聖人の偶像が飾られ、殉教者に関する物語が語られる光景を見ると、その執着は本来の唯一の主に対する信仰とは遠くかけ離れたものとベン・ナフマンは思わざるを得ない。


 ベン・ナフマンは故郷での最後の思い出があまりに苦いことを恥じた。

 アラゴン王ジャウマ一世がバルセロナで、ユダヤ教徒とキリスト教徒の間に行わせた討論に赴かねばならなかった。死ぬほどつらかったが、同胞のためには断る理由などなかった。

 議題は「この世に救世主はすでに到来したかどうか?」ということについてだ。まさに彼らは信仰の正しさを異教徒の敗北によって証明させようとしていた。

 キリスト教徒は、何が何でもユダヤ教徒の信仰の根拠を否定しようとしていた。ナザレのイエスへの信仰がこれほど世に広がっていること自体が、信仰が正しい理由であるはずだ。にも関わらずなぜユダヤ教徒は未だに古い契約にすがり、煩瑣な戒律を守り続けるのか?

 バルセロナの街に入った時から彼は重苦しい空気を感じた。かつて後ウマイヤ朝において国政を壟断した侍従ハージブマンスールに蹂躙されたあの日の恨みをこの街はいまだに引きずっているようだった。


 論敵たちの眼光は異様なまでに鋭く、この世ではないどこかを見ているようだった。

 キリスト教徒たちの妄言を聞いているだけならまだよかった。

 精神をすり減らしたのは、相手がかつては同胞だったことである。

 ベン・ナフマンの論敵として立ちはだかったのはパブロ・クリスティアニという改宗者だった。

 相手のパブロという洗礼名にベン・ナフマンは強く思い当たるものがあった。

 タルソスの聖パウロ――背教者サウロ!

 キリスト教徒がイエスの次に敬意を示すこの男にベン・ナフマンは得も言われぬ不愉快さを感じる。

 排他的で、頑迷な信仰心に基づいてイエスの信奉者を虐げていたサウロは、ある時イエスの幻影を見たという、誰にも真実を証明できないうわ言によって突如としてイエスの熱烈な僕と称し、頭の中にしかいない独自のイエスの姿を想像するように彼らに強要した。人間はみなアダムの罪を背負っており、それをイエスが自身の犠牲によって贖ってくれたなどというたちの悪い妄想を書付け、世界中にばらまき、徒党を通して朗読させた。

 ついに忌まわしい背教者は独自研究を広めるために、ユダヤの民が他の民族から聖なる者として区別されるための徴、割礼儀礼をも否定するに至った。サウロの後継者はもはや律法の順守など興味を持たず、いつしか割礼を知らぬ者によって本来の信仰は汚され、乗っ取られ、それが今やイベリア半島より北側をしめているというありさまだ。

 この時代、ユダヤ教の律法を捨てキリストの福音に乗り換えた者たちは珍しくもない。みな十字架の強さ、冷酷さに目がくらんだ者たちだ。

「君たちユダヤ教徒はいまだに煩瑣な戒律を守っているそうだが、そこに何かしら理由はあるのか?」

「知りません」

 ベン・ナフマンははっきりと答えた。

「知らないだと?」 彼らは険しい声で反応した。だが、ベン・ナフマンは怖気づかなかった。

「主がそう定めなさったものを、人間がなぜ知りうるでしょうか?」

 ベン・ナフマンは彼らの険しい顔色を見ても決して動じなかった。

「たとえ、どれだけ疑う心があっても、先祖と同じように戒律を守れば、神の目に良しとされる。行動こそが信仰なのです」

「いいえ、信仰されあればよいのです。信仰を伴わない行動などただの軽挙妄動ではありませんか」

 キリスト教徒は律法に対する愛着を持たない。ユダヤ教徒と同じ律法の書を読んでいても、そこに詳しく書かれた食物に関する規定などを順守しない。

 キリスト教徒たちの目は異様な光を放っていた。まるで、信仰さえさればこの世の全てを解き明かせるとでも言わんばかりだ。

 信仰こそが救いに至る道だと考え、律法の遵守を放棄したのだ。

 だが中でも極めてとげとげしくきらめいていたのがパブロの眼光だ。

 早くお前たちもこちら側に来い。そうすればもう恥辱を受けることもない。

 なぜこんな簡単なことをしようとしない? お前たちは敗北したんだ!

 パブロは苛立っていた。その心の中の思惑を、信仰の正しさの論証という目的のためにひたすら冷静に覆い隠した。彼の律法への忠誠は、十字架の前に朽ち果てたのだ。今や彼は十字架の僕であり、律法とは過ぎ去った偽りの教えに過ぎない。

「あなた方も三位一体の神を知れば、もはやかつての契約など古く空しいだけのものだということがよく分かるはずだ」

 キリスト教徒が誇るように語るのは、三位一体の不可解さだ。父と子と聖霊、異なる三つの物が全く別のものであり、同時に全く同一の神であるというあの空論。

 理解できないこと、筋が通らないことを無理やりにでも理論づけることにキリスト教徒ははなはだしく心血を注いでいる。そしてそのために膨大な論考を著してきた。

 だが、本来は唯一の神を崇めることだけが信仰であるはずだ。崇めるための規則として律法が存在しているのに、それをかなぐり捨ててひたすら理論を追い求めることに何の深みがあるのだ、ベン・ナフマンは思う。

 この律法こそが神秘なのだ。そして一度この確立した律法はもはや天からの声ですら揺るがすことはできない。それを実践することにベン・ナフマンの信仰心は震えるのだが、キリスト教徒にその感動は全く伝わらない。そして、それで別に構わない。


 目の前に広がる聖職者たちの一群は、ベン・ナフマンに対して静かに重圧をかけていた。

 ここで折れようが折れまいが同胞にベン・ナフマンに哀れみすらかけているようにも見える。

 その頑固なまなざしを見ればまるで遠い昔から神の教えを受け継ぎ、信じていた人々のようだが、実の所千年もさかのぼれば複数の神々や偶像を崇拝していた人々であり、いまだに儀礼や慣習においてそこから逃れることのできていない新参者に過ぎない。

 ジャウマ一世の姿もあった。そのいかつい体格といい、王というよりは武人としての荒々しさをまだ残している。戦いによって信仰の正しさを立証するしかなかった者だ。イスラエルの民も、かつてはそうだった。だが今は剣を律法の巻物に変え、信仰心という武器をたずさえそのような血と汗の戦いからは降りた。

 一方でキリスト教徒は、最初こそ剣を持たずに、この世の理不尽に対し愛と平和で立ち向かったはずではないのか。

 ああ、だがイエスも、福音書のある記述では、「私がこの世に現れたのは、剣をもたらすためだ」と語ったという。果たして彼らは十字架を剣に持ち替えた。


 かつて、人間の戦争は、神と神の戦争だったという。

 勝った神が負けた神を屈服させ、信徒を奪うのが常だった。イスラエルの民も、同じように敗北し、信仰を嘲笑されたものだ。

 だが、偉大なる祖先はあえて信仰を捨てず、雌伏の時を過ごすことを選んだ。いつか必ず神は我々を救うために偉大な人間を遣わしてくださると信じて。

 人々は待って待って、待ち続けた。

 果たして、唯一の神はあらゆる偶像にかたどられた神々を破棄し、世界を塗り替えた。だがその先に待ち受けていた物は何だ?

 神の解釈その物を巡る争いだ。誰が最後の預言者かを巡る争いだ。結局、イスラエルの民は存在意義を疑われ続けている。

 そしてベン・ナフマンがその論争の最前線に立たされている。

 ベン・ナフマンは自分の発言次第で多くの同胞の運命が左右されてしまうことを知っていた。

「救世主はいずれ必ず来るとするなら、それにあぐらをかいて生きていることは大変気楽でしょう。ですが、それでは我々は安心できないのです」

 キリスト教徒が激昂するすれすれの所はベン・ナフマンは説き続ける。

「そうではありません……私たちが信じる救世主は力強い王です。そして、この世の全てを円満に終わらせる力を持っている。しかし、ナザレのイエスは悲惨な死を迎え、弱い存在だ。もしイエスが救世主であるなら、なぜこの世にいまだにあらゆる不正や苦難が満ちているのですか?」

 というのがベン・ナフマンの主張だった。

「もし強いて今救われているというのなら、まるで馬を指して鹿ということと何が違うのでしょうか?」

 キリスト教徒たちの目が血走っていた。

 自分の同胞の立場さえ悪化させるものだと知っていた。しかし、あえてそう言わずにいられなかった。

「よせ」

 ジャウマ一世が制止した。

 もはや、この論争がいよいよ続ける価値のないものであることを悟ったらしく、

「君たちが自分たちの信仰に忠実であることはよくわかった。まさに、古い民だ」

 冷たい声で吐き捨てた。

「私が、そう思うのです」 静かに返答した。

「これまではずっと新しい契約を受け入れてくれると思ったのだが、残念だ」

 ベン・ナフマンは自分の命運が決まったことを悟った。

 キリスト教徒たちは冷たい顔をしていた。異教徒を論駁することに心血を注ぐ気でいたのだろうが、彼がひたすら信仰を堅持し、分からないことを分からないというだけのつまらぬ人間であることにただただあっけにとられているようだった。


 こうしてベン・ナフマンは故郷にいられなくなった。

 いや、民族の性質からすれば故郷などというものはそもそもないようなものだ。どこにも故郷など持ちえないという諦観の元に立っているこの場所こそが故郷んあおだ。

 彼は自分自身が同胞たちにかかる嫌疑を代わりに背負い込むことに全力を注いだ。こんな重荷を負うのは自分だけで十分だ。

 エジプトを出て以来、荒野をさまよう民であるのだから、この程度のことには耐えなければならない。

 イベリア半島の熱く豊穣な大地は、人々にとっては素晴らしい環境だったが、誰もが享受できるわけではなかった。


 いまだに、キリスト教徒による戦争は終わっていない。

 イスラーム圏との間で大地を争う人々は絶えることなく、北アフリカで新たに信仰への熱意に燃える者たちが新しい荒波を感じさせている。

 ユダヤ教徒たちはまだあの大地にしばらくはとどまり続けるだろう。君主たちによって信仰の自由を保障された上で、彼らの慈悲が許す限りそこに暮らすだろう。

 トレドのユダヤ教徒はキリスト教徒の王の元で、アラビア語の書物をラテン語に翻訳している仕事に従事しているというではないか。キリスト教徒がただ信仰に固執するだけの頑迷な連中ではないということはベン・ナフマンも認めざるを得なかった。彼らなりに、強さを維持するためにあがいているのは事実なのだ。

 彼はトレドの同胞たちが少しだけうらやましかった。

 しかし、じきにそこを治めるキリスト教徒も敵がいなくなるにつれてまた頑なになってしまうだろう。その時彼らを襲う命運を思うとやはり陰鬱な気分になった。


 そして今、パレスティナの土をベン・ナフマンは踏みしめている。

 ここにいるのは、アラビア半島や地中海沿岸の他の地域から移住してきたか、イスラームかキリスト教に改宗した土着民たちであり、太古から信仰を守り通してきた者はほとんどいない。聖書に記された族長や列王の時代の光景を、ここからうかがい知るのは難しい。

 エルサレムの街を歩くと、向こう側から待ち合わせていた者がいた。彼は相手の姿を見るときさくに、声をかけてくれた。

「シャローム・アレイヘム!(あなた方に平安を)」

 ムスリムがしきりに口にする『アッサラーム・アライクム』と意味が同じであり、響きも似ているが、これはユダヤ教徒の間でだけ流通する挨拶の言葉だ。

「シャローム」 ベン・ナフマンは、陰鬱な、張りつめた気分を悟られないように準備してから返答した。

「ラビ、あなたがモーセ・ベン・ナフマン殿ですね? お話は聞いております。こちらにいらっしゃい。私たちの仲間が待っております……」

 その言葉を聞いた時、少しだけベン・ナフマンは重い気分が和らいだ気がした。

 失われた過去を懐かしむばかりではいられない。ベン・ナフマンはすでに、自分がこの街でやるべきことを知っていた。

 この地で再びユダヤ教徒の共同体を再建せねばならない。イベリア半島から遠くこのパレスティナへ逃れてくる者は自分以外にも数多い。

 信仰とは行動であり、規定に沿った正しい行動を順守するためには慣習を保たねばならず、慣習を保つためには集団を統率しつづけなければならない。

 ユダヤの民は、とめどなく変化する時流に従いもせず、抗いもせず、ただ向き合い続けながら神と結んだ約束を果たし続けるしかないのだ。その日が来るまでは。

 だがその日を待てずに、あの改宗者たちのように力を欲しがり、強き者たちへ流れて行く者が現れないとも限らない。強さがいくらあっても、信仰に基づいた行動と、神と人への愛がなければ全ては無意味で、危うい。

 だがそれでも、全てがただ力や実益に流れるわけではないはずだ。きっと、そんなものに惑わされない人間が必ずいつでもいてくれる。そして、そのような人々の存在を絶やさないためには、自分自身が神を畏れ生きて行く他はない。どうか、その努力が無駄にはならないように。

 ベン・ナフマンは祈るしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ